文/台湾の大法弟子
【明慧日本2024年12月21日】(明慧記者・瀋容インタビューレポート)今年68歳の邱添喜さんは、40歳のときに法輪大法と出会い、修煉の道を歩み始めました。この28年間を振り返り、邱さんの心には感謝の気持ちでいっぱいです。「私と年齢が近い人たちは、『一生懸命お金を稼ぎ、名声や地位を追い求めたが、結局、生まれたときも、亡くなるときも、何一つ持って行くことができない』とよく言います。私の人生は決して豊かではなく、とても平凡ではありますが、私が持っているものは、ほとんどの人が夢見ても手に入れられないものです」と彼はこのように語りました。
邱さんは、幼少期を台湾・台中市新社郷で過ごしました。家族は果樹園を営んで生計を立てていました。末っ子の彼には2人の姉と5人の兄がおり、両親や兄姉たちが農作業で忙しかったため、邱さんは自分で本を読み、早起きして学校へ通うことが習慣となり、大人たちを心配させることはありませんでした。
中学2年生のとき、母親が病気で亡くなり、その後、邱さんは兄の家に引き取られ、その子供たちとともに勉強し、生活する日々を送りました。長い学びの年月を経て、邱さんは無事に国立彰化師範大学(旧・彰化教育学院)を卒業し、台中市立霧峰農業工業高級中等学校(以下、霧峰農工)に就職しました。
教科チーム長のプレッシャー
学校では教科チーム長を務める邱さんにとって、毎年の時間割編成の作業は、すべての教師のニーズや利益に関わるため、長年の悪夢とも言えるものでした。
「昔はまだコンピューターで時間割を組む時代ではなく、手作業で行っていました。うまく組めないと、先生方が机を叩いて抗議することもありました。それに加えて、代講の調整や、数多くの教育関連の活動や事務作業もこなさなければならず、初めの数年間は本当に大きなプレッシャーを感じていました。長年のストレスで、消化性潰瘍を患い、体は非常に痩せ細り、顔色もあまり良くありませんでした」
当時、邱さんが一時的にプレッシャーから逃れる方法は、気功への興味と追求でした。「もともと武侠小説を読むのが好きで、その後、気功を学びたいと思うようになったのです。一つには健康のため、もう一つは武術を極める武侠の境地に憧れていました。だからこそ、長年にわたってさまざまな気功の流派を探し求めてきました」
1996年末、邱さんは気功仲間の簡さんから電話を受けました。相手は興奮した口調で「息子が教えてくれたんだが、今中国ではみんな法輪功を修煉しているんだ。一緒に学んでみないか?」と誘ってくれました。間もなく、邱さんの元に簡さんから一冊の本が送られてきました。青い表紙に大きく目立つ字で『法輪功』と書かれており、それを見た瞬間、彼は我慢できずにページをめくりました。そして、師にめぐり逢い、道を求める強い願望が心の中に湧き上がったのです。
その修煉への強い思いが通じたのか、間もなく再び簡さんから電話があり、「北京で中国の法輪功学習者の交流会があるんだ。一緒に行かないか?」と誘われました。 まだ功法を学んでいなかった邱さんでしたが、師父に会えることを期待して、この誘いを快諾しました。
北京への旅で修煉の真の意味を理解
1997年2月の北京への旅で、邱さんは李洪志師父に会うことはできませんでしたが、10日間のこの旅は、修煉の意味をより深く理解するきっかけとなりました。そして、彼はこう話しました。「実はこの時、法輪功に触れたばかりで、ただ功法を練習するだけだと思っていました。でも数日経って、修煉は自分の想像とはまったく違うものだと分かったのです」
邱さんは、北京の学習者たちが学法を非常に重視している姿を目の当たりにしました。彼らは背筋を伸ばし、敬意をもって本を読み、心を開いて交流していました。仕事や家庭の中でトラブルや屈辱に直面した時に、どのように「真・善・忍」の基準で対応し、自分の執着心や欲望を取り除いているかを語り合っていたのです。
邱さんは次のように回想します。「当時、宿泊した部屋はとても狭くて、人がぎゅうぎゅう詰めでした。ある北京の学習者は、隅に追いやられてしまったのですが、全く気にする様子もなく笑いながら『大丈夫、ここで足を組む練習ができるよ』と言いました。小さな出来事ですが、その一言から、日常生活の多くのことが修煉に繋がっているのだと感じました」
心性が変わるとすべてが変わる
台湾に戻った後も、教科チーム長の仕事は依然として忙しく重いものでした。しかし、邱さんは自分の心境が以前とは変わっていることに気づきました。「以前は、連休明けの朝になると、教師からの急な欠勤の電話がよくかかってきました。そのたびに頭が痛くなり、『また面倒なことか』と感じていました。そして、代講をお願いするために他の教師に頼みに行っても、『忙しい』と断られ、冷たくあしらわれることが多かったのです」
しかし、修煉して心性を修めるようになってから、同じ欠勤や代講の電話が、もはや悩みの種ではなくなりました。邱さんは「面倒だという気持ちを捨て、電話を受けた時には『大丈夫ですよ、私がしっかり対応しますから、どうかお体を大切にしてください』と伝えるようにしました。教師たちが安心できるよう、代講の手配をしっかり行おうと考えるようになったのです。また、時間割を作成する時には、各教師の要望を記録し、できる限り対応するようにしました」と言いました。
邱さんは心から相手の立場に立ち、誠意を持って接するようになりました。その真摯な善意は、仕事に対する態度や職場の雰囲気を変えただけでなく、彼の弱っていた体調までも改善させました。「以前は消化性潰瘍があったので、コーヒーも飲めず、濃いお茶もダメで、パイナップルも避けていました。ところがある時、何気なくコーヒーを飲み、パイナップルを食べても何ともなかったんです。その時、長年悩んでいた病が知らぬ間に消えていたことに気づきました」と邱さんは振り返りました。
李洪志師父にお目にかかった
1997年11月16日、李洪志師父が台北市の三興国民小学校で社会一般に向けて公開説法を行われました。多くの人が説法を聴く機会を逃したため、師父は台中市でもう一度説法を行われることに同意しました。しかし、時間が限られており、多くの場所が借りられなかったため、台中市に住む邱さんは校長に報告して同意を得た後、霧峰農工を会場として手配しました。
北京の旅では師父に会えなかった邱さんは、ついにその願いが叶いました。彼はこう語りました。「午後1時ちょうどに、師父が時間通りに講堂に入ってこられました。最初の印象は、師父がとても背が高く、慈愛に満ちていて、親しみやすい方だということです。師父に何を話しかけても、笑顔で頷いてくださいました。以前、私は他の気功もいくつか学びましたが、いわゆる気功師の中には威張っている人も多かったのです。しかし、私たちの師父は全くそんなところがありませんでした」
台中での説法は、午後1時から夜7時まで続きました。説法が終わった後も、多くの人が師父を囲み、質問をしたり、握手を求めたりしていました。邱さんはこう回想しました。「師父は長時間説法をされていて、きっと休息が必要だったはずです。でも師父はとても忍耐強く、面倒がる様子もなく質問に答え、一人ひとりと握手をされていました。説法の間、師父はほんの少し休憩しただけで、水さえ飲まれていませんでした」
説法が終わった後、邱さんは他のスタッフとともに師父と食事を共にし、その時に師父の法を伝える真摯な気持ちを理解しました。「食事が終わった後、師父はその場にいた全員と自ら握手をしてくださいました。師父の手はとても柔らかかったです。あれから何年も経ちますが、その時の握手の感触と印象は、今も私の心の中に残っています」
その年の2回の説法は、多くの人にとって千載一遇の機会となりました。多くの人が急いで親戚や友人に電話をかけ、会場に呼び寄せました。邱さんの妻と兄も、この説法を聴いた後に修煉の道に入りました。
邱添喜さん夫婦は2024年の台湾修煉心得交流会に参加 |
大法を修煉してから現在まで、すでに28年が過ぎました。この貴重な道のりを振り返り、邱さんは謙虚にこう語りました。「私の修煉はとても素朴で、目立った奇跡はないように見えます。でも、私は数え切れないほど多くの奇跡を目の当たりにしてきました。例えば、体調が悪く、絶望的な状態だった人が修煉を始めたことで健康を取り戻したり、家庭のトラブルや夫婦関係が修煉によって改善されたりしたケースがたくさんありました。法輪大法は非常に正しく、真に人の人生を変えることができるのです」
最後に、邱さんは師父への心からの感謝を述べました。「師父には、私の人生の中で大法を修煉する機縁を築いていただき、より良い人間になることを助けてくださったことに心から感謝しています。そして、生命の来た場所と帰るべき場所を教えていただきました。私は世の中で最も貴重な大法を得ることができました。それは、永遠に持っていけるものです。だからこそ、これからもできる限り多くの人に法輪大法を知ってもらいたいと思います。それこそが、すべての人がこの世に生まれてきた機縁なのです」