中国法会|農村で同修が資料拠点を設立し人を救う
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 文/吉林省の大法弟子

 【明慧日本2024年12月22日】 私は法輪大法を修煉して約26年の高齢の大法弟子です。中国共産党(以下、中共)によって不当に拘留され、洗脳班に送られ、住居を追われ、病業の関や、そして数えきれないほどの魔難に遭いました。しかし師父の慈悲深いご加護の下、私はいつも無事に乗り越えることができました。魔難を乗り越える過程で、大法の奇跡と素晴らしさが至るところに現れました。ここでは、同修の皆さんと交流するために、その中から幾つかの例を挙げたいと思います。もし何か不適切な点があれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。

 修煉する前は、私の健康状態は非常に悪かったのです。神経衰弱、脳虚血(訳注:脳に十分な血液が供給されず、酸素や栄養が不足している状態)、胆のう炎、婦人病、重度の貧血、産褥熱(さんじょくねつ。訳注:出産によってできた傷口から細菌が侵入し、子宮内に炎症を起こす病気)など、多くの病気に悩まされ、様々な病気による苦しみで生きる意味を見出せませんでした。しかし、小さな子供がいるため、諦めきれずに何とか生きていました。

 1998年の旧暦11月24日(訳注:1999年1月10日)、それは私が法輪大法との縁を結んだ日であり、私の人生に大きな転換をもたらしました。その日、故郷の知り合いと一緒に仕事をしていた時、彼女は法輪功を修煉し始めたと話し「心を修めれば病気は自然に治り、薬も注射も必要ありません」と言いました。私は知り合いの言葉を聞いてとても良いと思いました。私も信仰を持ちたかったので、迷わず「私も一緒に学びたい」と言いました。

 初めて抱輪(訳注:頭の両側で法輪を抱える煉功動作)の功法をした時、肩と背中が熱くなり、とても気持ちよく感じました。その後、体の多くの不調がなくなりました。今まで感じたことのない、病気ひとつない軽やかな体はとても素晴らしく感じました。大法は本当に神秘的でした。

 一、市内の同修と縁を結び真相資料を用いて人を救う

 2001年9月末、家族と共に畑で収穫作業をしていたところ、県公安局と鎮派出所の警官に連行されました。県留置場には女性用の部屋がなかったため、市留置場に送られ、市内の大法弟子と一緒に不当に拘禁されました。同修たちと話をしているうちに、市内の修煉者たちは皆、外に出て真相を伝え、真相資料を配布し、師父が法を正すお手伝いをするために積極的に活動していることを知りました。一方、私たち地方の修煉者は、まだ自分を修めているだけでした。

 私は心の中で師父に「師父、私は無駄にここに来たわけではありません。私も帰って人を救わなければなりません。どうか夫を啓発して、警察に対して私を釈放するように要求してください」と申し上げました。その晩、私は夢の中で夫に会い、政府の各機関に働きかけて私を家に連れ戻すように夫に伝えました。

 翌朝、夫は隣人や同修、そして弟妹たちと一緒に大勢で、鎮派出所まで車を走らせ「うちの家族は皆、以前は病気がちでしたが、法輪功を学んで健康になりました。彼女は何も悪いことをしていません。法輪功を学んでいるだけで逮捕されたのは不当です。彼女を返してください。私たち家族全員は彼女の釈放のために何事も厭いません。鎌を置いて畑仕事を中断しました。あなたたちが彼女を釈放しない限り、毎日ここに来るつもりです。畑の作物がダメになったら、その損害はあなたたちが賠償しなくてはなりません」と要求しました。派出所の責任者は、「これは県公安局の指示で逮捕したことだ。私たちにはどうしようもない。県公安局に直接行ってくれ」と答えました。

 夫と共に私の釈放を求めて行動した人たちは、毎日車で県庁まで行き、県公安局に私の釈放を求め、収穫が遅れたことによる損害賠償も要求しました。県公安局は急いで私を家に帰しました。

 家に帰ると、すぐに市内にいる同修に会いたくなりました。私の家は山奥にあり、バスが通っておらず、バイクに乗ってもバス停まで10分以上かかりました。バイクが利用できない場合は、歩いて行くしかないのですが、早足で1時間近くかかりました。その後、市内へ行くためには、乗り換えを2回しなければなりませんでした。市内に着いたら、目的地までタクシーに乗らなければなりませんでした。しかし、私は方向感覚が全くなく、東西南北がわからないので、誰かに連れて行ってもらわないと、すぐに道に迷いました。

 私は師父に助けを求め、一人で市内へ行くことにしました。師父は資料作成をしている同修を紹介してくださり、私は同修のところからたくさんの真相資料を持ち帰るようになりました。バスに乗り、大きな荷物を持って、たくさんの資料を家に持ち帰りました。帰りが遅くなると、暗くてバイクに乗ることができず、時には夫に三輪車(訳注:三輪の乗り物)で迎えに来てもらいました。夫がいない時は、一人で大きな荷物いっぱいの真相資料を背負って家に帰りました。そして、周りの村の人々に資料を配り、真相を知って彼らは救われました。

 毎回村で真相資料を配る時、私は自分の家の玄関先に必ず1枚資料を置きました。ある日、村の派出所の警官が私の家にやってきて「法輪功の人が村に来て何かを配っているという通報があったが、知っているか」と尋ねました。私はすぐに、内容の異なる数枚の真相資料を取り出して警官に渡し「あなたが言っているのはこれのことですか? これは私の家の玄関先にあったものです。持って帰って見てください」と答えました。警官は私を尋問しようとしましたが、私が堂々と対応したため「もし今後資料を拾ったら派出所に持ってきてくれ」と言いました。私は喜んで「必ずそうします」と答えました。

 その後「地元の公安や地元の部署が大法弟子を迫害している」ことを暴露し、大法弟子が福報を得ることを助ける新たな内容の真相資料、神韻芸術団の公演DVD、「共産党についての九つの論評」、そして「共産主義の最終目的」といった資料が出来上がるたびに、私はそれらを派出所へ送りました。派出所の警官たちはいつも敬意を持ってこれらの資料を受け取り、毎回私は警官たちに必ず読むようにと促しました。

 ある日、村の一番目立つ場所に法輪功の横断幕を掲げました。翌日、警官が家に来て「村に横断幕が掲げられたが、誰が掲げたのか知っているか」と尋ねました。私は「横断幕とは何ですか?」と尋ね、警官は「黄色の布に赤い字が書かれたものだ」と説明しました。さらに「どんな赤い字が書かれていたのですか?」と尋ねると、警官は「『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』と書いてあった」と答えました。私は心の中で「『法輪大法は素晴らしい』と念じれば、あなたの心にも良い影響を与えるでしょう」と思いました。そして警官に「すごいですね、誰が掲げたのでしょうか?」と尋ねました。警官は、私が何も知らない農村の女性だと思い、何も言わずに帰って行きました。

 この経験から私は教訓を得て、次に横断幕を掛ける時は、大法弟子がいない村を選ぶことにしました。ある日、村の住民の一人が他の村から帰ってきて「ある村の道端に『法輪大法は素晴らしい』という横断幕が掲げられていて、太陽の光に照らされてとても綺麗だった。たくさんの村人が集まって見ていた。その後、警官が車でやってきて、横断幕を掲げた人を見つけようとした。しかし、ある警官が『この村には法輪功の修煉者はいない』と言って、そのまま車に乗って帰って行った」と言いました。私は、これは私が正しいことしたのだということを、師父が教えてくださったのだと確信しました。

 二、私の家にも小さな花が咲いた

 明慧ネットが資料拠点を全国に広めることを提唱した後、私も家で小さな花(自宅の資料拠点)を咲かせたいと決意しました。市内で出会った同修の中には、パソコンに詳しい人、プリンターに詳しい人、レイアウトができる人、修理ができる人、インストールができる人など、様々な才能を持った人がいました。彼らは皆、根気強く丁寧に私に教えてくれました。

 技術を習得するのが難しいと感じた時、私は「年を取っているとか、学歴がないとか、いつも土いじりをしている手だとか…そんなの関係ないじゃないか。人間の観念を捨てさえすれば、師父はどんなことでも私に習得させてくださるはずだ」と自問自答しました。そして、私は真相資料を印刷する方法だけでなく、インターネットの使い方、ダウンロードの仕方、そして三退声明の投稿方法も全て習得することができました。

 時間が経つにつれて、プリンターの修理が必要になった時、私は修理を担当している同修の大変さを理解しました。修理は、仕事や法を学ぶ時間、そして煉功する時間以外、個人的な休息時間を利用して行われているからでした。そこで、同修の負担を減らすために、私は自分でプリンターを持って市内に出かけ、専門店で修理を依頼することにしました。消耗品を買う時も、他の同修に負担をかけないように、自分で市内に出かけて購入しました。「私は農民で、年齢も上だし、電子機器店に行くような格好をしていないから、怪しまれるのではないか」といった人心は、私にはありませんでした。私は大法弟子であり、今行っていることは自分がすべきことなのだと考えました。

 新型コロナウイルス(武漢肺炎)の流行中に、ショッピングモールがすべて閉まってしまい、私の必要な物も底をつきました。そこで師父に助けを求め、車を借りて市内まで出かけました。いつも材料を買っている若い店員に電話をかけると、その店員は倉庫に入るところだったので、すぐに車で材料を載せて私のところまで来てくれました。「おばさん、今はお店には入れなくても、倉庫には入れるよ。何か必要なものがあれば、いつでも電話してね!」とまで言ってくれました。

 私は、真相パンフレットやページ数の多い資料の印刷、真相シールに加えて、5枚のDVDを繋げて「法輪大法は素晴らしい」「真・善・忍は素晴らしい」と書かれた吊り下げ看板を新たに制作できるようになりました。カラーインクジェットプリンターで印刷した吊り下げ看板は、屋外に飾ると雨や日光に弱く、すぐに色が褪せてしまい、印刷された画像も灰色がかりました。そこで同修から「HPのレーザープリンターなら、日光や雨にも強く、色も鮮やかだよ」と教えてもらいました。そこで私は市内に出て、家電量販店へ行き、レーザープリンターを購入しました。レーザープリンターで作ったDVDの吊り下げ看板は、とても鮮やかで美しく、大木に吊るして1年経っても色が褪せることはありませんでした。

 当初、私たちは真相資料を手に入れるために市内まで行かなければなりませんでした。それがもうすぐ10年近く前のことです。今では、私が作った吊り下げ真相看板や真相シールを市内の同修たちに提供しています。もう73歳になった私ですが、10歳、20歳、30歳の若い同修にパソコンの使い方を教えたり、簡単なパソコンのトラブルを解決したりするなど、技術を担当している同修の時間を少しでも節約できるように努めています。

 三、師と法を信じることで一歩一歩確実に歩むことができる

 2008年の秋、ちょうど稲刈りの時期でした。私たちはトラクターで稲を運んでおり、荷台には稲が山のように積まれていました。私はその稲の山の上に座っていました。小さな川を渡る時、突然トラクターが大きく揺れて、私はとても高いところから、頭から地面に叩きつけられたような衝撃を受け、鎖骨を骨折しました。

 家に帰ってから、私は「最後の稲を積み込む作業をしている時、最後の1束を積み上げている最中に、稲の中からネズミが出てきたので、私が叩き殺しました。そして、家に帰る途中、車が横転した。これはまさに『現世で直ちに報いがある』ということではないだろうか?」と内に向けて探しました。家族は私の様子を見て心配し「腕が折れているんだから、病院に行かなければ」と無理やり病院に連れて行こうとしました。しかし、私は「腕が折れている」という念を認めず「折れてないよ。ほら、腕が上がるでしょ」と、腕を上げてみせました。家族もそれ以上は何も言えなくなり、私の考えに従いました。

 周りの多くの同修が私のところへ来て、法に則って私と交流し、私が苦しい時を乗り越えられるように支えてくれました。その後も、怪我の痛みがどれだけ辛くても、毎日大量に法を学び、煉功を続けました。痛みが増すほどに煉功を続けました。

 師父は「本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」(『轉法輪』)と説かれました。

 師父のこの法を心に深く刻み込み、常に自分に言い聞かせ、決して諦めずに続けました。そして、怪我をしてから13日目、鎖骨はすっかり元に戻り、全てが平常通りになりました。これは大法の超常さを実際に体験した、紛れもない裏付けでした。修煉の道では、どんな困難に遭遇しても、師と法を固く信じ、一歩一歩着実に歩んでいくことが大切です。

 2024年の夏、電動自転車に乗って親戚の家を訪ねました。いつも通っているよく知っている道だったのですが、行きすぎてしまいました。間違えたことに気づいてUターンしようとしたところ、雨が降ったばかりで道路が水浸しでぬかるんでいたため、ハンドルが思うように動きませんでした。私が乗っていたのは、とても小さな高齢者用の電動自転車で、スピードも遅く、通常このような状況では、足を広げて車体を立て直すことができます。しかし、その瞬間、私は誰かに掴まれて地面に投げつけられたような感覚になり、膝、両手、口を擦りむきました。

 私は急いで起き上がり、頭の中は「大丈夫、無傷だ。私は金剛不壊の体だ」というただ一つの念だけでした。私は口訣を念じながら正念を発しました。口や体が泥だらけだったので、親戚の家に行った時に心配させたくないと考え、痛みを我慢して近くの川で体を洗い、汚れた服を脱ぎ捨てて捨てました。持参していた親戚への古着の中から服を出して着替えて、再び親戚の家へと向かいました。

 親戚の家に着くと、口から出血していたので、親戚たちに気づかれてしまいました。親戚の家族は私が大法で数々の超常的な経験をしているのを何度も見てきたので、病院へ行くかどうかについては何も言わず「薬を塗る必要があるか」とだけ尋ねました。私は「いいえ、大丈夫です」と答えました。親戚の家族は仕方なく「それなら、よく煉功して、早く元気になってね」と言いました。私は座ってじっくりと自分の怪我を見てみました。片方の膝には複数の傷があり、皮がめくれていましたが、痛みは全く感じませんでした。もう片方の膝は全く傷ついていませんでしたが、あまり動かせませんでした。内出血して腫れていたからでした。

 「これは私がどこで大きく間違えたのだろうか」と考えました。田舎に住んでいるので、周りの家はみんな鶏やアヒル、豚、牛を飼っていて、うちもひよこを飼っていました。家畜の糞やトイレはハエや蚊を引き寄せ、網戸をつけていても家の中に侵入してきました。トイレなどは、ハエがぶんぶん飛び回っていて、本当に嫌でした。田舎によく物を売り来る人が、とても効くというハエ用の殺虫剤を紹介してくれたので、それを買いました。噴霧する時、私はとても腹を立てていて、その殺虫剤がいかに効くかを近所の皆に力説して、みんなに買うように勧めました。

 このことに気づいた瞬間、全身が冷え切り、布団を2枚重ねても震えが止まりませんでした。同修が私を見て「あなたの状態はおかしい」と言うので、私は正念を正し、立ち上がって、部屋の中を2周ほど歩きながら、発正念の口訣を念じ、旧勢力の迫害を否定し、全てを師父に委ねました。するとすぐに、体の冷えが消え、その後も再発することはありませんでした。

 しかし、外傷のない足も痛くなり、座禅を組むことができず、両足で座禅を組むことができませんでした。私はそれを認めず「絶対に組むんだ」という一念しかありませんでした。その一念が湧き上がった瞬間、すぐに足を組んでみましたが、長くは続きませんでした。数日後、その足の太ももからふくらはぎにかけて全体が黒くなり、痛みはありませんでしたが、膨らんでいると感じ、膝は腫れていて触ると痛みました。私は内に向けて探し、転倒した日に親戚の家で落としてきた携帯電話を取りに行ったことを思い出しました。「もしかしたら、携帯電話の中に何かあるのではないか?」と思い、携帯電話を見てみると、アルバムの中に中共の赤い旗や党章、共青団のバッジなどの画像がたくさん保存されていました。私は迷わず全て削除しました。削除すると、痛みを感じていた足が急に楽になり、両足を組むこともできるようになりました。

 私のレーザープリンターは、数カ月前から印刷するたびにトナーが漏れてしまい、印刷物に常に黒い線がついていました。新しいドラムユニットに交換しましたが、症状は少し改善したものの、依然として印刷できませんでした。自宅の新唐人テレビも、最初は映像が不安定なだけでしたが、最終的には全く見られなくなってしまいました。

 足を怪我して治った後、同修に車で連れて行ってもらい、電子機器の店でプリンターを修理しました。試しに6ページ印刷してみたところ、全く問題なく印刷でき、修理工は「あなたの機械は壊れていません」と言いました。その時、私はこの6カ月間、このプリンターが私に内に向けて探すよう促していたことに気づきました。大きな怪我をしたことで、ようやくその原因に辿り着き、プリンターも治りました。ということは、新唐人テレビもきっと見られるようになったはずだと思いました。家に帰ってテレビをつけてみると、やはり、問題なく映りました。

 私は、師と法を信じることだけが、修煉の道を正しく歩む唯一の方法だと理解しています。どんな状況にあっても、常に法を深く学び、正念を発し続けなければなりません。どんなに辛く、どんなに困難な時でも、精進して煉功を行い、同修の修煉体験を聞き、大法の中でゆるぎなくを修煉を続けることが大切です。私たちは、神の道を歩む大法弟子なのです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/11/13/484431.html
 
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