神伝文化:心が清浄で外のものに染まっていないかぎり君子は始まりと終わりを全うすることができます
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 【明慧日本2024年12月29日】清代の史玉函が編纂した『徳育古鑑』には、明代の羅楨が『浄意説』で語った実話が収められています。物語の主人公の兪都は、明代の善人で、晩年に改心して、心を清め、行いから境地の昇華へ、最後にその善行が報われました。

 明の嘉靖年間、江西省に兪都(名は良岑)という人がいました。私塾にいる時、十数人で文昌社というサークルを作って、生涯に字を惜しんで放生し、殺生を戒め、邪淫を排し、失言をせず善行をすることを誓いました。しかし、7回の郷試はすべて、落第しました。

 彼の妻には五男四女の子供がいましたが、四人の息子は早く亡くなり、一人だけが残りました。その息子は非常に聡明で、左の足の裏に痣があり、夫婦はその子を宝物にして、たいへん気に入りました。しかし八歳のときに里中で遊んでいて迷子になり、それきり行方不明になってしまいました。彼には4人の娘がいましたが、そのうち3人は亡くなり、生存しているのは1人だけです。 彼の妻は子供たちの早すぎる死と失踪のためにしばしば泣き、ついには視力を失いました。兪都は落ちぶれ、貧窮の日々が続いていました。いつも、自分は何も悪いことをしていないのに、なぜ天罰が下ったのかわからないと、よく自分を省みていました。

 40歳を過ぎてから、毎年師走の終わり、新年を迎えようとする頃、彼はいつも文章を書いて燃やし、かまどの神様が自分の気持ちを伝えてくれることを祈ります。七年もの間、何の奇跡もありませんでした。 47歳の大晦日の夜、彼は目の不自由な妻と娘とともに、貧しい家に向かい合って座っていました。

 突然、ドアをノックする音を聞いて立ち上がり、兪都は手に蠟燭を持って立ち上がってドアを開けて、門の外に風呂敷をかぶり、昔の役人が着ていたような黒い服を着た老人がいました。家の中に入り、挨拶をした後、老人は席に着き、自分の名前は張であり、兪都の家族の悲しみを聞いて、遠くから慰めに訪ねてきたと言いました。

 兪都はこの老人の服装や話し方が普通の人とは違うのを見て、とても尊敬の念を持って接しました。話の中で、兪都は自分の学問を研究し、善行を行ったが今のところ成功を収めることはできず、子供たちは早々に散り、衣食住も不十分であったことを話しました。また、彼は、長年にわたってかまどの神様に宛てて書いて上達を願った文章を、訪問者に読みました。

 その老人は、「私は君の家族のことを長い間知っていた。君の意識にある邪念はあまりにも重く、偽りの名声を追い求めることに没頭しており、いわゆる文章も玉皇大帝に対する不平と冒涜に満ちているので、それ以上の罰が下るのではないかと心配している。」 と言いました。兪都はすごく驚いて、老人に「冥冥の中、善も悪も必ず記録されると聞いています。私や同じサークルの人たちが善行を誓い、それを慎重に実行してきたのに、どうして虚名に全力していると言えるのでしょうか」と聞きました。

 老人は、それなら私の言うことを聞きなさいと言いました:「君が『字を惜しむ』と主張しているが、君と諸生はすぐ字のある紙で部屋の壁に貼り付けて補強したり、物を包んだり、机と椅子を拭いたりしてしまい、あるいは紙に汚損があることを理由に燃やします;君のいわゆる放生も表面の工夫で、家の中の料理は常にエビやカニがあります;失言に関しては、数えないほどあります。君の言葉は鋭く巧みで、人を中傷し、嘲笑し、数え切れないほど神々を怒らせた。邪淫の事はないにもかかわらず、君は美しい女を見て、心を揺らがせて、ただ邪悪な縁がないだけだ!それでも、君は妄想を真実とし、節約に生きていると思い込んでいる。君が誓った善行はさえこのようで、他は更に言うまでもないことだ。君が歴年燃やした文章は、すべて玉皇大帝に届けられている。玉皇大帝はかつて、使者に命じて君の善行と悪行を調べさせたが、この数年間、記録に値する善行はひとつもなかった。それどころか、あなたの貪欲、欲望、嫉妬の思いは果てしなく、自分を高く評価し、他人を低く評価し、過去を忘れず、復讐と怨嗟に満ちた心を持っていることをご覧になった。これほど悪気があって、君らが災難から逃れられないのに、どうして加護を祈るのか?」

 これを聞いた兪都は恐怖におののき、地面に伏して慟哭しました。「冥界のことを知っているのだから、神様に違いない!助けてほしい!」と願いました。老人は「君の神仏への信仰は深くないから、善行も長続きしない。そのため、人生における善言善行は場当たり的なものであり、邪念や妄念が心の中に満ちているのは確かだ。このような形で幸運を期待するのは、いばらを植えて豊作を期待するようなもので、馬鹿げている。私は、君が将来、貪欲と欲望を捨て、嫉妬を制御し、諸々の妄念を除き、名声や報酬を求めず、大小と困難に関係なく、自分の能力に応じて行動し、忍耐するように願う。長い時間をかけて行うことで、予測できない効果があるはずだ。君の家族は私に非常に敬虔しているので、わざわざこの旨を君に伝えてきた」と言って部屋の奥へはいっていきますと、かまどの下で突然姿を消しました。兪都は、老人が命を司る神であることを悟り、香を焚いて拝礼しました。

 翌日の旧正月初日、兪都は神に祈り、かつての悪行を改め、善行に努め、自称「浄意道人」となり、あらゆる妄念を取り除くことを誓いました。それ以来、一言一行、すべての考えは、傍らに鬼神がいるように、ごまかしも勝手もできなくなりました。

 また、すべて人に益し、物に役立つこと、大きさに関係なく、忙しさに関係なく、誰も知らなくても、助ける人がいるかどうかを考えないで実践躬行、物事を成し遂げるまで努めます。多くの場合、因果応報の物語を語って人々を導きます。誠実で謙虚で忍耐強く、彼は日ごとにそれに専念していました。 やがて、行動すると万善が相随し、静になると一念も起たずという境地に至りました。

 3年後、兪都は50歳、ちょうど明の万暦2年でした。朝廷の重臣であった張居正は、自分の息子に師を決めようとしていました。兪都は選ばれ、妻と娘を連れて南京に向かいました。張居正は彼の人柄を称え、国学で授業をさせました。万暦4年丙子、兪都は試験を受け、翌年、進士に合格します。

 ある日、兪都は大内の宦官楊公を訪ねました。楊は5人の養子を呼び出してお辞儀をさせました。そのうちの一人は16歳で、兪都はその顔に見覚えがあったので、本籍を尋ねました。少年は言いました、「私は江右の出身で幼いころ、穀物船に迷いこんで、家からはぐれてしまいました。自分の姓が闾里であることをぼんやりと覚えています」。兪都は驚き、彼に左足の靴を脱がせた。左の足の裏に痣がありました。兪都は「私の息子だ!」と叫んでいました。

 楊公も非常に衝撃を受け、息子を兪都の住所へ帰らせました。家に着くと、兪都は急いで中に入り、妻に告げました。妻は嘆き悲しみ、血の涙を流しました。息子も悲しみと喜びで涙を流し、母親の顔を両手で抱え、目をなめました。すると、母親は両目の視力を取り戻しました。兪都も悲喜こもごもで、役人として仕えることを望まず辞職して故郷の江陵に戻りたいという要望を出しました。張居正は彼の人徳の高さを評価し、たくさんの物を送って、彼の願いを受け入れました

 兪都は故郷に戻り、そこで暮らすようになってからは、さらに善行に励むようになりました。彼の息子が結婚して7人の息子をもうけ、全員が成人するまで育てられ、兪家の伝統である修養と学問を受け継きました。兪都はかまどの神様と出会って過ちを正し良い行いをすることについて本まで書き、子孫を訓育しました。彼は88歳で亡くなりました。当時の人々は、すべては兪都の善行であり、天の報いであると言いました。

 文は清代の史玉函『徳育古鑑』によります。

(『徳育古鑑』は、有益な歴史的エピソードを交えながら、親孝行、友愛、慈愛、寛容、説得、救済、富貴、奢侈と倹約、性質と行い、聖人への尊敬、心の持ち方などの原則を詳しく述べ、禍は我が行い、福は己が求める道理を説き、これによって世に悪を善に転じ、迷いを悟りに転じ、凡人を聖人に変えるよう世を導くものである)。

 
翻訳原文(中国語):http://www.minghui.org/mh/articles/2012/2/22/253366.html
 
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