【神伝文化】名利を重んじず倹約する
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 【明慧日本2024年10月7日】楊綰は、字(あざな:実名のほかにつける呼び名)は公権(こうけん:公法上認められている権利)、唐代中期の華州華陰の出身です。幼い頃に父親を亡くしました。家は貧しかったのですが、母親に敬意を持って仕え、穏やかで物静かな気質で、名利を重視せず、倹約の美徳で有名でした。

 楊綰は、有名になるのが好きではありません。苦学していた若い頃は、何か書いたものを他人に読ませようとはしませんでした。後に殿試(官僚登用試験)に参加し第一位となり、右拾遺(官職名)に任ぜられました。

 楊綰は、何度か中書舎人(官職名)に昇進しましたが、当時の旧例では舎人を長く務めた者は閣老と呼ばれ、官署の給与の五分の四をもらうことができます。しかし、楊綰は、一切受け取らず、舎人に均等に分けていました。

 皇帝も楊綰の人柄を知っていて、とても尊敬していたので、彼を中書令、同中書門下平章事に任命しました。宮廷で士人(しじん:さむらい。転じて、教育・地位のある人)たちは祝い合いましたが楊綰は辞職しようと決心しました。しかし、皇帝はそれを認めませんでした。

 また、楊綰を訪ねても、楊綰は訪れた人たちと一日中話をしているだけで、決して名利の話をしません。もし、その訪問者がプライベートなことで頼んできたとしたら、楊綰の言葉を聞いたとき、訪問者は心の中で恥ずかしくなってやめるでしょう。

 楊綰はとても倹約家で、生計については一切口を出さず、俸禄(ほうろく:給与)はすべて親戚や友人に分けていました。当時、御史中丞の崔寛は贅沢をして、城南に豪壮絢麗な別荘を建てました。楊綰が宰相になった日、崔寛は別荘を取り壊しました。また、京兆夷の黎幹も、ふだんは百余騎の供を出入りしていましたが、すぐに減らして、側近の騎兵は十数人だけになりました。中書令郭子儀は、邠州で行営し、大宴会を開いていましたが、楊綰を宰相に任命する詔(しょう:天子の命令)が届くと、宴会の音楽規模を5分の4減らしました。

 史書にはこのように知らせを聞いて自発的に倹約したものは数えきれないとありますが、これは楊綰の威信と倹約の美名によるものです。当時の人々は、楊綰を後漢の「天知る地知る我知る子知る」「君子慎独 (くんしはひとりをつつしむ)」の楊震(ようしん:政治家)、西晋の「竹林の七賢」の一人である山涛(さんとう:文人)、東晋の良相謝安(しゃあん:貴族政治家)といった徳のある人物にたとえました。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2007/6/1/156041.html)
 
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