内に向けて探すことは旧勢力への否定であり そうしなければ旧勢力の罠にはまる
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 文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2022年5月9日】当地の1人の同修が、5年以上前から両目が見えなくなりました。 彼は私にいい時は「目に時々、霧のようなものが見える」と教えてくれ、その時は彼がどう思ったのか気にも留めませんでした。それから目の状態がどんどん悪化して、ついには頭痛がひどくなり、全く見えなくなってしまったのです。 このとき、同修たちは皆、彼と一緒に法を学び、発正念を行い、中には彼に内に向けて探すようにという同修もいました。 彼は指を折りながら「名」への執着なのか、苦しんでいる人はどんな「名利」を求めるのだろう? 「情」はないはずで、妻とは離婚して子供は全部、妻が連れていったので、情なんかあるのだろうか? と言っていたのを覚えています。その時、私はそれを聞いて気分があまり良くなく、彼に「名・利・情がなくなれば、あなたは圓満成就したのではありませんか?」と言いました。

 時間が一日一日と過ぎ去り、良くなりませんですた。 その後、彼との交流の中で、無意識のうちに彼の認識を知ることができ、「内に向けて探すことは、旧勢力の迫害を認めることになる」と思っていたようで、 彼は師父の法を誤解しており、迫害を取り除くために発正念に固執し、また同修たちにも発正念をお願いしていました。

 時間が経っても、好転の兆しがなく、初めて内に向けて探し始め、当時、二つの大きな問題が見つかったことを覚えています。一つは、常人と一緒に商売をしていることです。 ある夜、常人の運転手が高速道路でバイクに乗った人を轢いてしまい、運転手は彼に状況を確認するように言い、彼は「息をしてない」と言いました。運転手は何も言わずに彼を残して、車に乗って走り去ったので彼もそのまま立ち去りました。 その人が生きていたのか死んでいたのかは、今となってもわかっていません。 もう一つは、奥さんと離婚した後、別の女性と同棲していたことです。その間彼は、ほとんど修煉していませんでした。

 彼は、これで間違いなく探し当てたと思いましたが、結果として良くなりませんでした。 私から見れば、探し当てておらず、それは実際には執着ではなく、二つのことは正しくないことを知りながら、それでもやってしまったことが大きな過ちなのです。

 彼は発正念もした、内に向けて探すこともしたが、依然として良くならず、自分の難が大きいと思うようになり、自分が発正念をするとき妨害が大きく、 同修が心を込めて発正念していないと思ったのです。彼の認識が高まらず、その後、彼と交流しなくなり、ただ一緒に法を学び、発正念をしていました。

 最近、私は彼と交流し、彼は「某某さんは私に内に向けて探すようと言ってくれました。内に向けて探すことは正しいはずだが、しかし、彼女はなぜ旧勢力の迫害と思ったのは、間違っていたと言わないのでしょうか?」と彼の話を聞いて、私は言葉を失いました。旧勢力の話について、私は自分の悟りを彼に話しました。彼は「多くの同修から話を聞いたが、あなたのように悟った人はおらず、だから、あなたは実質的な話をして下さい」と言われました。 彼は話を遠回しして、やはり発正念をするよう頼まれました。

 上記の同修や周囲の同修の状況に鑑み、私は自分の最近の悟りで感じたことを書き出すことを決心し、もしかすると病業の中にいる同修、特に長期にわたり病業の魔難にいる同修への助けになればと思います。この文章を書いているうちに、彼に申し訳ない気持ちがますます強くなり、なぜならば、私たちは皆、彼の師と法に対する強い信念を見たからです。今、彼は『轉法輪』をほぼ暗記しており、連続して暗記し、あと第九講だけです。彼が6年近くも失明していた理由は複雑すぎてわからないが、彼と系統的に師父の他の地区での説法を勉強しなかったことに、関係があるのではないでしょうか?

 常人は「物事を観察し善悪を見分ける能力がある」といいますが、彼は旧勢力に隙きに乗じられたのです。 同修は、『精進要旨』にある「道法」をもう一度勉強して下さい。

 それでは、法という宝とは何であるかをお話します。 かつての小道修煉では、師父は弟子から離れるとき、通常では弟子に法という宝を送りますが、中には呪文を送る人もいれば、宝物を送る人もいます。弟子が危険や悪魔の難儀に遭ったときは、直接呪文を唱え、または宝物で悪魔を鎮めることを告げます。 私たちは正法修煉なので、旧勢力の参与がありますが、大法弟子たちに対する破壊的な試練を、 師父は認めていません。師父は私たちにも法という宝を教えて下さいましたが、それは内に向けて探すことです。

 私の現在の次元での体得として、長期的に病業の中にいる同修の多くは、同じ考えを持ち身体の正しくない状態が現れるときに、自覚せずに最初に現れた一念は迫害であり、迫害を取り除くことが第一と考え、法という宝「内に向けて探す」ことを第二として考え、甚だしき至っては、内に向けて探すことは旧勢力の迫害を認めることだと考える者さえいます。

 個人の認識では、最初の一念が「迫害」、または「病気」と考えた場合、それほど大きな違いがなく、どちらも心が正しくない部類に属します。師父は、「あなたが思っている如何に大きな魔難にしても、苦痛にしても、いずれも良いことです。それはあなたが修煉したから現れたことです」[1]と仰いました。あなたは迫害と思うのであれば、それはあなたが迫害を招いてしまったのです。師父はこのように説かれました。「それはあなた自身が求めたものなので、他の人は干渉してはいけないことになっています。それには悟性の問題がかかわっています」[2]。迫害は良いことなのでしょうか?  もし、それが良いことならば、なぜ師父はこの迫害を認めないという話をされたのでしょうか? 私の現在のレベルでの認識では、旧勢力による迫害に遭ったとしても、しかし、師父は「逆手を取る」という法理を説かれたのではありませんか?  師父はすでに私たちを変えておられ、本当に良い事に変えています。そうであれば私たちはそれを喜んで受け入れ、魔難が自分を高める良い機会として捉えればいいのです。

 私たちは知っていますが、目、耳、鼻、舌、体は人間の感覚器官です。師父は人間の目で見たものは虚像であると説かれました。師父はさらに、「功の演化する過程がきわめて複雑であるのに対して、人間の感覚はまったく頼りにならないものなので、感覚に頼って修煉するわけにはいきません」[2]と説かれました。つまり、他の器官の感覚も同様に虚偽なのです。 感覚は虚像であるならば(「病気」の状態を指す)、師父が演化してくださった功が、もちろん真実として実在するのです。私が思うには、どんなに辛くても平然として動じず、この虚像に動じてはなりません。だから、できるだけ早く内に向けて探し、「病気」の原因となっている執着を見つけ、それを取り除いてください。

 師父は、「良くないものを取り除こうと思えば、まずあなたのこの心を是正しなければならないのです」[2]と説かれました。師父がおっしゃったようにするのであれば、迫害とは認めず、なぜ自分を守る法という宝を持ち出し、魔を鎮圧しないで、迫害を否定する中でかえって同修の助けを求めて発正念をしてもらうのでしょうか? もちろん、同修が発正念をして助けるのは正しい事ですが、しかし、魔難から立ち直れるかどうかは本人次第です。師父は「修は己にありて、功は師にあり」[2]とおっしゃっています。完全に「私」に陥り、長い間、乗り越えられずにはじめて内に向けて探す、これは受動的な修煉で、条件付きの修煉ではありませんか? 苦難に対抗するため、魔難を取り除くために修煉しているのではありませんか? 旧勢力が按排した魔難の中で修煉しているのではありませんか?

 ある同修はこう思うかもしれません、私が治れば法を実証することができ、さらに多くの衆生を救うことができ、私が思うには、この考え方には少し無理があります。あなたは旧勢力の「為私為我(私のため自分のため)」の罠にはまり、あなたの思想がその次元の生命に符合していれば、その次元の生命があなたの面倒を見ることになり、それが旧勢力の迫害の口実になるのです。魔難に遭わされるのは「私」を取り除くためであって、あなた自身は取り除いておらず、自分を守るためにかえって「私」を増やし、こうなれば、旧勢力がますますあなたをひどく迫害するのです。この時、師父は焦っていますが、かえってあなたの面倒を見ることができません。長い間、魔難の中にいる同修は、苦しんで修煉し疲れているのです。長期にわたり魔難を乗り越えることができず、ある人は「病気」の考えに陥り、試練を放棄して入院しました。

 もし最初の一念がいい事だと思えば(なぜならば、師父はすで悪い事を良い事に変えてくださっています)、内に向けて探し、根本的な執着「私」を取り除き、積極的に大法に同化し、修煉者としての心性の基準に符合し、どの執着心を取り除くべきが、師父は啓示してくださいます。執着が見つからない心配はありますか? あなたは昇華すれば その魔難の虚像が瞬時に消え去るのです。

 例えば、テーブルの上に腐ったリンゴを置くと、必ずたくさんのハエが寄ってきます。 一回殺せば、すぐに次のハエがやってきます。あなたはハエに立ち向かうのでしょうか?  誰もが知っていますが、最も良い方法はその腐ったリンゴを捨てることで、つまり、自分の悪い心を見つけ、それを取り除くことです。

 それから、どのような恐ろしい虚像を見ても、どのような苦痛を感じていても、絶えず内に向けて探し続ける以外、本当の自分と心の執着を見分けることはできません。さらに、真の自我と人心の執着を見分けなければなりません。 主意識は絶えず人心、執着と外部の押し付けを排斥することです。

 当地の何人かの同修は関を乗り越える際に、このことを検証しています。 本当は、自分自身の業力や執着、観念によって形成された「偽りの自分」が死にたくないためにもがいており、だから排斥しなければならないのです。 もし、あなたが人心の執着を認識することができれば、師父はそれらを取り除いてくださるのです。 もし、あなたはこの執着を正しく見つけ、早く見つけることができれば、その魔難が早く消え去るのです。

 それでは、私が修煉の中で内に向けて探し、魔難から乗り越えたいくつかの実例を話します。

 (一) 怨恨心は魔難の根本である

 一度、ひどい歯痛に襲われたときは、座ることも立つこともできず、夜の12時に、私は痛みで発正念ができなくなりました。 当時は迫害のことなど考えず、ただ何が問題なのかを考えて、口を修めることではないかと思ったのですが、そうではなかったようで、食べ物に対する執着なのか、そうでもないようで、 一生懸命考えていたら、突然師父の法理が頭をよぎリました。 そうだ! 私はすぐ思い出し、最近、ある同修に対する怨恨心によってもたされたのです。私はすぐ師父に謝りました。歯の痛みはすぐに緩和され、ほとんど痛くなくなり、翌日は目が覚めると何事もなかったかのようでした。

 またある時、地元の同修が大法の経文をもっていなかったので、外地の同修が大法の経文をまとめて作ってくれましたが、それを自分たちで製本しなければなりませんでした。これらの 経文は製本するのに、便利と安全を考慮して同修の息子の家を借りましたが、1年近く経ち、当地の経文を作ったことのある、一人の同修がまったく作ろうとしないのです。その時の私は本当に腹が立ったので、この完成していない数箱の経文を全部自分の家に移し、何人かの同修に協力してもらって仕上げようと思いましたが、私たちは誰もやったことがないので、やはり製本の経験のある彼女に来てもらって指導してもらうことにしました。 その結果、彼女は毎日とても遅く来て、私たちは待たされることになりました。 毎日遅くまで行われ、私は料理をする時間もなく、義父の家に行って食事をしました。 家に帰って来て階段を上がるとき気にしなかったのですが、ドアを押し開けた途端に足が動かなくなりました。私はすぐに意識したのですが、この怨恨心がまた原因だと気づき、自分は間違えたことを心のなかですぐに師父に謝りました。するとすぐに足が動くようになり、痛みもなくなりました。

 (二) 色欲は落とし穴である

 ある日、夜の街で同修と一緒に資料を貼りつけていました。一人が糊を刷り、もう一人が貼りつけ、最初の一枚は電柱にある配電盤に貼り付けた後、立ち去ろうとしました。私が確認したところ、角の1つがきちんと貼られていないため、もう一度、手で押さえつけようとしたところ、足場の板が折れ、セメントでできた深さ2メートルの長方形の穴に落ちてしまったのです。私が踏んでいたのは、石綿スレート板の破片だったことがわかったのです! 石綿スレート板は30年以上前にカーポートの防水に使われていたもので、重量を支えることは全くができません。 2人で同時に立ったときは大丈夫だったのですが、私一人で立ったときに折れてしまいました!

 今の時代、都会で石綿スレート板の破片を見つけるなんて、天安門広場でレンガを見つけるのと同じくらいすごいことなので、とても不思議に思いました。 そうだ!  これは旧勢力の設けた落とし穴だったのです。 しかし、師父はそれを逆手に取り、悪いことを良いことに変えてくださり、結果として危険なことはなく、時々肘が痛むぐらいです。 その時のことを覚えていますが、私はいかなる念も動かさず、旧勢力のことを全く考えず、怖がらずにさっさと登りはじめましたが、同修はびっくりしていました。そして残りの20数枚の資料を貼り付けました。 帰ってから、私は内に向けて探し、「落とし穴」?  落とし穴に落ちた原因はなんだろう?  師父は、私に色欲心を取りのぞかせるためだったのでしょう! なぜなら、10年以上、色欲を断っていましたが、最近、それがまた現れたからです。

 (三)表に現れた現象を否定することが重要である

 私の妻(同修)の例を挙げましょう。 妻は、ほとんど毎日、同修たちと一緒に法輪功迫害の実態を伝えに出かけています。 ある時期、毎日午後になると、帰ってきた彼女の体に、たくさんのできものができ、ひどく痒くなったそうです。初めて見せてくれたとき、私は気にせず、以後、再び見てくれと言われたときも、まったく見ずに「何もない」と答えました。また できものについて詳しく聞かれたときも、私は「何もない」と答えました。 そしてある夜、妻はまた私にそれを見せて、掻いてくれと言ったのです。私は強い口調で「何もない!」と言いました。 その後、そのできものは本当に消えたのです。 本当に「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」[2]なのです。この出来事は、私たちが同修(他人)の誤った状態を見たときに動じることなく、正念を持って対処するように注意を促してくれました。

 現次元でのわずかな認識であり、もし配慮が足りてないところあれば、どうぞ指摘してください。共に修煉に励み、ともに向上しましょう!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇八年ニューヨーク法会での説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/12/423183.html)
 
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