文/内モンゴルの大法弟子 希言
【明慧日本2022年2月25日】私は農村生まれで、性格は内向的です。学生のとき成績は良く、ずっと学年でトップでした。小学生、中学生から大学生まで、当地の進学校に通い、進学クラスで、ずっと学級委員をしていました。何度も「優秀学生幹部」の称号を獲得しました。大学を卒業してから、学校が推奨している、人々が良いと思う仕事に就きました。仕事をしてから数年後、科学研究プロジェクトを任され、プロジェクトチームリーダーとして「国家科学技術進步第3位」を獲得しました。
大法を修煉してから、私は心身ともに健康になり、仕事も更にスムーズになり、性格も明るくなり、人間関係も大きく改善しました。何度も「優秀労働者」の称号を獲得しました。多年来、ずっと多くの人から尊敬と称賛を受け、自尊心や自信がとても強く、人から良く言われたい心が養われ、欠点を言われたくなく、特に人から尊敬されているかどうかを気にしていました。
法輪大法を修煉する前、偏頭痛、蕁麻疹、神経衰弱、胃潰瘍など、若くして多くの疾病がありましたが、法輪大法を修煉してから、全て良くなりました。中共が法輪功を迫害してから、私は不当に逮捕され、労働教養3年の迫害を受け、その期間、拷問による「転向」を強制され、胃潰瘍が再発しました。労働教養所から出てから、私は再び大法の修煉に入りました。
それから、また何度も不当に強制連行され、留置場で迫害されました。胃潰瘍が時々再発し、最後には胃穿孔(いせんこう:胃潰瘍などが悪化して起こる)になり入院して手術治療しました。退院して、私は真剣に自分の修煉を振り返り、怨恨心を発見し、それが私に多くの魔難をもたらした重要な原因の一つになっているのだと分かりました。怨恨心を作った原因は、良いことばかりを聞きたく、それ以外は聞きたくないからでした。私は決心して、真剣に自己を修め、それらの良くない人心を取り除こうと思いました。
一、仕事環境での現れ
職場のある同僚は、仕事はちゃらんぽらんで、私と同じ建物に住んでいて、同じ部門にいたこともあり、比較的よく知っている関係でした。
ある日、従業員食堂で会ったかと思うと、口を開けて罵り「あんたは自分が大したものだとでも思っているのか? あんたは……」。汚い言葉が次々と飛び出し、食堂にいた人達が皆私達のことを見ていました。私は微笑んで「君もここへ来ていたんだ!」と言いましたが、彼はまた口汚く罵りました。私は何も言わず、ずっと微笑みを保っていました。彼は罵りながら食堂の外へ出て行きました。私はおかずを取りに行き、テーブルについて食事しました。しかし心の中は乱れていて「この人はどうしてこんなにも素養がないのだろう? 口を開ければ汚い言葉で人を罵るなんて」。少しばかり恨む気持ちがありました。
数日後、彼と何人かが私たちの住む建物の玄関で雑談していました。私は仕事帰りで、彼は私を見て、また罵りました。「おい、聞いた話によると君は……」また下品な言葉を言いました。今回私は電動自転車を押してそこへ立ち、彼の罵りを笑い、彼は罵りながら他の人とも話していました。私は心が動じず、笑顔で、ずっと彼が罵り終えるまで待ってから電動自転車を押して建物内に入りました。
私は内に向けて自分の原因を探しました。彼はなぜ私を罵るのだろう? もしかして私のどこかが間違っているのではないか? 注意深く考えると、私は自分がまだ本当に彼をよく思っていない心を見つけ出し、彼が良い仕事をしていないと思い、彼は良い仕事もしないのに威張って、少し粗野であると思っていました。私は陰で彼の良くない話をしたこともあり、彼に会っても彼と多くは話したくない気持ちがありました。これからは善をもって彼に接し、尊重するべきだと分かりました。
またある日、以前私といくつか仕事関係で一緒になったことのある、別の部門のリーダーと従業員食堂のドアの所で会いました。彼は突然私を指さして大声で非難しました。「あなたは何の仕事もしないで、無銭飲食して! 何の仕事をしたか言ってみろ! あなたがいて何の役に立つんだ!」。真っ向から非難されました。
私は驚いて何も言えず、心の中で「彼のもともとの部門はすでに撤退して、彼は別の部門のリーダーに移って、私とはすでに仕事上での関係はないはずです。私が仕事をしているかどうか、どれぐらい仕事をしているか、彼は知らないし、干渉するべきではない」。私はぼーとして彼を見て、何も言いませんでした。この時、彼は少し気まずく思ったのか、私の後ろにいた彼と親しい古いリーダーを指さして「お前のことだよ」と言い、私は「あー」と言って、食堂へ入りました。
その後、私のどこかに間違いがあったから、このようなことが起ったのではないかと思いましたが、具体的な原因が見つかりませんでした。私がこの文章を書いている時、突然分かりました。彼と以前同じチームで仕事をしていた時、私は集団監督をしていましたが、基本的に仕切りませんでした。それから彼は仕事でミスをして、職場の仲間から非難され、彼はおそらく監督の私がきちんとせず、彼に注意を促さず、無責任だと思ったのでしょう。実際、私は仕事に対してずっと職責を全うしていましたが、最近、私は学法や煉功の時間を大切にしていて、常人の仕事を緩めたのかもしれません。師父は私に、継続して職責を全うするよう注意を啓示してくださったのです。
言い出すと少し可笑しく感じることがあります。私の名前は人々が日常生活の中で使用する一つの言葉と字音が同じで、私の名前をからかう人もいました。就職後、人々は私を「小某」と呼び(我の姓は珍しいので)あるいは「某兄さん」と呼ぶのも私は受け入れていました。直接私の名前を呼ぶと、私は少し気に入らず、親しくない人に名前を呼ばれると、私は非常に不愉快になり、人に尊敬されていないと思うからです。時に他人に不機嫌な顔を見せ、相手にしなかったり、仕事に協力しないこともありました。時にそれらの役職があって、人から「某課長」「某部長」等と呼ばれる人を羨ましく思いましたが、自分には無理でした。現在は、もうすぐ定年になりますが、少し前、人から「老某さん」と呼ばれ、私はまた少しだけ不快でした。なぜなら私は大法を修煉してから、若く見えるようになり、まだ年老いていないからです!
現在、私は人から言われたくない心、面子を重んじる心を全て取り除きました。人から何と呼ばれても、もう心が動じなくなりました。もう心にかけず、笑顔で迎え入れられます。
二、家庭生活での現れ
ある日、私はバスルームで頭を洗い終え、水を地面に垂らして、タオルで拭くのを忘れました。妻がバスルームに入ると口を開いて罵りました。「見て、こんな子牛を洗ったみたいに、こんなにじとっと湿って、言っても聞かないんだから、いつもこうよ。 賴圪垯子!(方言:ごろつきよりも悪い人という意味)」。私は心の中で「床を拭かなかっただけで、なぜ『賴圪垯子』になるんだ?」と思いましたが、考えを変え、確かに私の行いは正しくなかったと思いました。以前もこのようなことがあり、妻にも言われましたが、覚えていませんでした。私は急いでタオルで床をきれいに拭きました。心の中で「これから良く行おう」と思いました。
またある日、私は昼間に大学の同級生の娘の結婚式に出掛けました。帰宅してから、妻が「外は寒かった?」と聞いたので、私は「寒くない」と言いました。妻は厚着をせず、街に出掛けて行きました。帰って来てから、妻は「30年以上あなたと一緒にいて、本当の話を聞いたことがない。外はとても寒いのに、あなたは寒くないと言って」と言いました。私は「外は寒くなかったよ!」と言いました。私は電動自転車で帰って来たので、寒いと感じませんでした。妻は妹や娘に電話をしてこのことを話していました。息子が帰宅してからは、息子にも話していました。娘と妻の妹は外は寒いと言い、息子は寒くないと言いました。私は内に向けて探しました。心の中で「妻は寒いのを心配していたのに、私は妻の身になって考えていなかった。私が寒くなくても、妻にとっては寒いかもしれない」と考えました。数年来、何かを話す時やする時、妻の身になって考えたのはとても少なく、妻に比較的深刻な印象を与えたのかもしれません。これから、何かを話す時やする時は、妻のことを多く考慮すべきで、妻の身になって考えるべきです。
しばらくの間、家にいる時、私が何かを言う時やする時に関わらず、妻は口を開けば罵り、厳しい口調で責めました。最初、強く忍を守って言い返しませんでしたが、全身が辛く、表情も固くなり、呼吸も重くなりました。心の中で「なぜ私が何かをするたびに、妻は罵るのか?」と思いました。時に明らかに妻が間違っていても、私を罵ります。時に心の中で妻を罵り、時には妻を平手打ちしたくなることもありました。私はこれらの悪い考えが自分ではないと分かっていて、自分に「善」と「忍」をするように言い聞かせました。同時に、発正念をして自分の思想の中の良くない考えと、妻の背後で彼女を操る邪悪、邪霊を取り除くと、妻の言葉も和らいできました。
その後、私は内に向けて探すことが出来るようになりました。私は師父が説かれた「一般的な例をあげてお話ししますが、わたしは何かをやりたいとか、今このことはどういうふうにやるべきだとか、こういうことでも無意識のうちに誰かを傷つけるかも知れません」 [1]を思い出し、私は自分の観点で物事の良し悪しを判断して、何をするかを決める時、妻の気持ちを考えておらず、無意識のうちに妻を傷つけてしまったのかもしれないと分かりました。それからは家庭生活の中で、私は何かをするときに独断で決めるのではなく、相談する口調で提案したりして、出来れば良く、出来なければそれでいいと思いました。すると妻がまた何かを言ってきても、自分の心が動じなくなり、笑顔で迎えられます。私がまた何かを言ったり、行ったりしても、妻は以前のように悪く言わなくなりました。
面と向かって真相を伝える時、恐怖心、人に言われたくない心がまだ時々出てきます。私は依然として精進してしっかり修めます。
少しの修煉体験ですが、正しくない所がありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』