文/中国東北の大法弟子
【明慧日本2021年7月31日】私は今の学法グループでほぼ1年間学法をしています。このグループには20年以上精進してきた古い同修もいれば、1999年7.20以降、修煉を放棄して新たに戻って来た同修や、新しい同修もいます。修煉の次元はさまざまですが、学法をする時は誰もが厳粛で、真剣に取り組んでいました。学法の時間を無駄にしないために、みんなが持ってきた簡単な昼食を食べながら、コミュニケーションを取っていました。時折、誰かが修煉と無関係なことを言うと、年配の同修は厳しい態度で同修の話を止めさせました。
私は、厳しく自分を律し、精進して確実に修煉できるこの学法グループに参加したことを、とても良かったと思いました。しかし、時間が長くなると、学法に行く度に、なんとなく少し落ち込むようになりました。ある日突然、私たち一人一人の表情が硬く、笑顔がないことに気が付きました。特に、よく修めている2人の高齢の同修は、いつも厳しい表情で、笑った様子を見たことがありませんでした。自分自身を見ると、学法している時も、交流している時も緊張した顔で、他の人から見ても、私には慈悲と和やかな雰囲気が感じられないだろうと思いました。
ある日の正午、学法グループの同修が、一人の同修を連れて来て「この人も同修で、一時的に学法に参加します」と紹介しました。しかし、現場にいた同修達は誰もその人に挨拶をせず、みな無表情でした。当時、私も少し気まずいと思っていましたが、ほかのメンバーと同様に、無表情で基本的な礼儀正しさはありませんでした。
ある日、私はこの問題について、学法グループで話しました。すると「自分は笑うことができない」と言う人もいれば、「自分は前世に道士であったかもしれない」と言う人もいて、誰もが真剣に考えていませんでした。
私が知っているこのグループ以外の他の同修も、だいたい同じような状態でした。考えれば考えるほど、これは修煉者のあるべき姿ではないことに気が付きました。
私は家に帰った後「私は大法修煉者だ。これからは、心も顔も和やかさと素晴らしさを表すべきだ」と自分に言い聞かせました。私が鏡に向かって笑ってみると、映っている自分の笑顔はとても硬くて不自然でした。自分には和やかさとやさしさが見えないことから、修煉はまだまだ足りないと感じました。心が慈悲に満ち溢れると、自然に外見にも現れるはずです。
もちろん、私たち修煉者は、どんな事にも執着せず、淡々と見ており、世間の多くの事に関心を持たず、興味もありません。しかし、これは冷ややかで、すべて無関心というわけではありません。人と人の間に礼儀正しさもなく、挨拶すら省くことに、常人は私たち修煉者をどう思うのでしょうか?
師父は私たちを苦界から救い出してくださり、宇宙の大法を与えてくださいました。法を正す時期の大法弟子として、私たちはこの世で最も光栄で、最も幸運な人です。私たちは心底から喜びを感じるべきで、和やかな心を持つべきではないでしょうか? 家庭の中で、夫や妻、子どもの前で、そして親友や社会の人々の前で、私たちはどんな時でも人のために考え、大法修煉者の善良と慈悲なる心を体現し、大法の素晴らしさを伝えるべきです。それに対して、どんな事も自分とは無関係で、他人に対する態度も冷ややかであれば、常人の誤解を招く恐れがあります。
職場でも同じく、仕事関係でも、同僚との間にコミュニケーションを取り、協力し合う必要があります。積極的で、明るく、友好的な態度がなければ、互いに協力できますか? 仕事をうまく進められますか?
さらに重要なことは、私たちが人々に大法の真相を伝える時、笑顔もなく、硬い表情で話かけると、常人の反応も冷たく、遠く離れてしまいます。このような雰囲気の中で、私たちの話を聞いてくれるのでしょうか?
私たちは神の使者です。自分自身をよく修めるだけでなく、他人を救うという使命を担っています。弾圧され、迫害される中で、毎日大法弟子の行うべき三つのことを果たしています。師父は弟子たちのために、どれほど引き受けてくださっているのか、私たちは皆分かっています。私たちの目の中で、師父はいつも慈悲なる微笑みをうかべておられます。ですから、前述のような状態の同修たちは、修煉の角度から自分自身を見直すべきではありませんか? 私たちは真・善・忍に同化する最も幸運で、光栄な大法弟子として、なぜ顔に喜びがないのですか? なぜ心から素敵な笑顔を見せられないのでしょうか?
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