学法グループは常人の食事会になってはならない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年8月18日】私は地元の一部の学法グループに、ある問題がずっと存在しているこに気づきました。切磋しながら物を食べたり、学法する時間が長くなると、その間に料理を作ったりしています。

 私はAさんとこの問題について交流したとき、ふと自分の意識の中に、間違っている認識があったことに気づきました。それは、確かに同修たちは法に基づいていなかったのですが、しかし、彼らは何の問題も起こしたことはなかったのです。もしかしたら、私たち自身が「慎重」にし過ぎたのかもしれないし、あるいは、それぞれの修煉状態が違うのかもしれません。しかし、これは大法に基づいて生じた認識ではなく、すべての物事は大法を基準にして判断すべきです。他の要因に基づくべきではないと思いました。

 いつも、地元の集団学法が終わると、同修たちはお菓子や果物を持ち出して、食べながら自分の修煉体験を話しています。ときには、自分の口に合った食べ物があったら「美味しいわね」とつい一言つけ加えます。一番印象に残ったのは、2人の同修が交流を始めたときに、最初は修煉のことを話していましたが、だんだんと、どの店のアヒルの卵が他より美味しいという話題に変わりました。 その時、Aさんと私は「集団学法のときは、ものを食べながら交流してはいけない」と皆と交流していましたが、 しかし、このような状況は依然として変わっていなかったのです。いつも、同修からクッキーや果物を差し出されると、私は大抵2回くらい断っていましたが、固く断ったことはありませんでした。時が経つにつれて、私も同修と同じく食べながら交流するようになり、時には自分のやり方は大げさではないのかと思い、修煉は厳粛なものであることに気づいていませんでした。

 その後、一部の学法グループは一日中ずっと学法をするときもあり、その場で食事を摂らなければならないため、軽食を持ってきました。いつか、ある同修は他の同修のために料理を作るようになりました。しかも、料理を作るのが大好きだったのです。 それからというもの、その同修は料理の味を追求しながら、できるだけ自分の料理が店の料理と同じレベルの味になるように挑戦していました。そして、その同修は料理や食材を購入することを楽しみにし、それを食べる同修も楽しみにしていたのです。そのうち、集団学法の時間の一部は常人の食事会になりました。皆が、師父の「食しても味わざれば 口その執着を断つ」 [1] という法を思い出しませんでした。

 一部の同修はどうせ皆が食事をするから、一人が食べても、数人が一緒に食べても同じですが、これは執着とは言えないと思っています。しかし、1人ならすぐに食べ終えることができます。料理を作るなら、料理をする同修の時間や体力などを無駄にすることになり、しかも、同修から大好評の声を聞いて歓喜心が生じるかもしれないし、食べる人も味にこだわるようになるかもしれません。 このような集団学法をする形式は、師父が私達のために残された形式です。師父は「皆さんが今日行った全ては未来が参照する実践です」 [2] と説かれました。おやつを食べ始めた頃から、私達は集団学法が純粋で厳粛な修煉の環境であること、絶対に常人の食事会と混同してはいけないことを認識できなかったのです。もしも私達がこの道を間違って歩んでいったら、どれだけ危険なことなのでしょうか!

 以前、Aさんと私はこの問題の深刻さを認識していましたが、この問題が正しいのか間違っているのかを大法に基づいて判断していませんでした。 また、今でも一部の同修がウィーチャットを使ってやりとりをしているように、私たちは、これは間違っていますよと、同修たちと何度も交流しましたが、 彼らは「今までずっとウィーチャットを使ってきましたが、何の危険もなかったのです」と言いました。Aさんと私はどうすることも出来ないため、時には、彼たちのようなやり方もいいのかもしれないと思いました。しかし交流を通して、私たちはますますこのような認識が間違っていると分かり「何事かが起こるか起こらないか」が物事を判断する基準ではなく、大法だけが物事を判断する基準になるのです。

 適当でないところは、同修たちの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道の中」
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/8/10/410218.html)
 
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