文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年9月27日】私が引っ越しをして間もなく、同修が住む新居も完成しました。路線バスが家の前を通っていて、このバスを利用すれば、4分ほどで同修の新居に着きます。同修が集団学法を始めたいと提案をしてくれたので、私は喜んで承諾しました。
私は同修と姉妹のように接していました。しかし、時間が経つにつれて不一致が生じました。同修に、私は今までずっと紐で足を縛り付けて座禅をしていると話しました。すると、同修は私が間違っていること、その場しのぎで見過ごそうとしている態度を見て怒り出しました。私のことを意気地なしで、精進しない人間だと言い、ひと昔前の事も全部指摘されました。
その時、まず私が思い出したのは師父の説法でした。「どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」[1]。自分の歓喜心が取り除かれていないため、同修が私を棒喝してくれたお陰で頭がすっきりしました。別れる時、彼女は私に自分が酷く怒ったことを謝りました。
帰り道、頭に自分を弁解しようとする良くない念が浮かびましたが、努力して排除しました。「強辯に遇えば、争論す勿かれ、内に向けて因を求むは修煉、釈明しようとすればするほど心重し、坦懐にて執着無ければ知見出づ」[2]の言葉を思い出しました。また師父の説法「修煉する人、自らの過ちを探し、各種の人心取り去ること多し、大なる関小なる関、落さんと想ふべからず、正しきは彼、過ちは私、何を争ふものか」[3]を思い出して、争っても所詮常人の理であって、自分の正当性を証明しても何にもならず、却って同修が辛い思いをするだけで、自分は弁解する余地などないとわかりました。
またある日、頭に「同修と隔たりができる前に、自分一人で学法しようか」という念が浮かんできました。この念が、私に集団学法を辞めさせようとしていると悟り、この念に向かって「あなたが私たちに隔たりを作ろうとしている。あなたの言いなりにはならない」と自分の正念を固めました。
次の週、集団学法の時間に同修の家に着くと、同修が建物の入り口で私を出迎えてくれました。ごみを捨てに行くついでに私を待っていたと説明しましたが、私には全部分かっており、同修に微笑みました。
ある日、同修の家に着いて、チャイムを3回鳴らしても、応答がありませんでした。安全のため、同修と連絡先を交換していないので家に帰るしかありませんでした。その時、自分の良くない怨恨心が湧き出てきました。以前、同修と資料を配ったことがあり、約束の時間を30分過ぎても現れませんでした。その日、雨も降りだして、結局、私は雨の中でずっと同修を待ちました。このことは昔のことを蘇らせ、私と同修の間に隔たりを生じさせるものだとわかり、それらの考えと隔たりを否定して排除しました。
帰りのバスに、1人の女の子がICカードをかざしてに乗ってきました。機械がうまく読み取れなかったため、運転手さんが二度女の子を呼び止めましたが、女の子は足を止めずに中の方へ進みました。乗客がまた女の子に声を掛けると、女の子は戻ってもう一度カードをかざしました。すると機械から「愛心カード」(思いやりカード、身体障碍者専用電子マネー)と言う音声が流れたので、先の誤解が解けました。師父が私をこの場面に出会わせて下さったことは偶然ではないと悟りました。それは私に他人のことを自分の固有観念で推し量る心、疑い恨む心を取り除き、闊達かつ寛容で、他人の立場に立って、親身になれる人間にまで修めて欲しいということなのです。
同修との間で、このような出来事がもう一度起きました。今までの教訓を学び、同じビルに住んでいる方からエントランスカードを借りて、エレベーターに乗せてもらいました。その方は14階の住まいなので、14階までしかエレベーターは上がりません。残りの階は非常階段を利用して登りました。私は「はぁはぁ」と息をきらしながら登り、同修の家のチャイムを鳴らしましたが、返事がありませんでした。仕方なく階段を降りると、エントランスの外で、落ち着かない様子で辺りを見回している近くに住むもう1人の同修を見かけました。その同修は私を見て慌てて近づいてきて、自分は10分ほど遅刻したと私に謝りました。実は不在の同修が急遽、父親の面倒を見ることになったため、自分は同修の家のエントランスカードと鍵を預かっていたが、10分ほど遅刻したので、私に会えなかったと教えてくれました。
事が解明したので、私達は不在の同修の家に戻り学法をすることにしました。同修の家の中には、大法の書籍がもう既に出してあり、細心の注意を払ってくれた様子がわかりました。この環境を整えて、提供してくれた同修に感謝と敬服の気持ちでいっぱいでした。
師父は「皆さんが自分自身や相手、そしてこの環境を大切にするよう望んでいます」[4]と説かれました。本文に書いた私の過ちは今後の戒めとして皆さんの参考になればと思います。外在する妨害要因で隔たりを形成させず、恨みは解くべきで、結ぶものではありません。「まさにこのこぶしを突き出すように、五本の指は固く握って初めて威力が発揮できます」[5]。同修の皆さんとより多く協力し、より多くの衆生を救えるよう心から願っています。
個人の体得です。不足があれば、同修のご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2 ]李洪志師父の詩:『洪吟三』「辨少なしに」
[3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
[4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」
[5] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」