文╱中国の大法弟 同修代筆
【明慧日本2018年6月22日】私の家はごく普通の農家です。1998年に幸運にも法輪大法を修煉し始めました。私は学校に通ったことがなく、読み書きも出来ませんが、自分の修煉体得を書き出して、大法の素晴らしさと不思議を実証したいと思いました。この度、同修に代筆してもらい私の修煉体験を書いていただきました。
一、師父は私に二度の命を下さった
1997年、私は子宮ブドウ状肉腫を患って手術を受けなければならなくなりました。医者から、「この腫瘍は悪性の確率が高いので、手術をして病理検査をしないと良性か悪性かを判断することが出来ない」と言われました。当時、私は38歳でした。
この予期せぬ出来事に私はかなりのショックを受けました。その上、家の経済条件も悪く、畑仕事と露店商で稼いだ僅かな収入では、とても手術の費用を負担することが出来ず、更に、手術後の静養にもお金がかかるだろうと思うと、私は手術を諦めるしかなく、生死を天に任せようと考えました。
母は法輪功を修煉していて、私に「手術を受けないのであれば、法輪功の煉功をしましょう」と勧めてくれました。当時、村には法輪功の煉功する人も場所もなくて、私は毎晩自転車に乗って3キロ以上離れた他の村に行って、そこで法輪功学習者と一緒に法を学び、煉功しました。煉功をしてまもなく、私の体は浄化され、痛みを感じなくなり、子宮の腫瘍も消えてなくなりました。それから、私はとても健康で丈夫な体になりました。
二、師父は私に読み書きを教えて下さった
修煉を始めたばかりの頃、私は字が読めないので、毎日ただ師父の説法の録音を聞くことしか出来ませんでした。集団学法の時、私は大法の本を手にして、同修たちが法を読むのを聞きながら、びっしり並んでいる文字を見ても、一文字も読めず、心の中でとても焦リました。しかし、私はとても真剣に本を見て他の人が読んでいるのを聞き、そして、一文字一文字を追って見ていました。いつか自分も字が読めるようになりたい、『轉法輪』が読めるようになれたらたらどんなにいいだろうと渇望していました。
ある日の夜、大法の本を手に持っていると、師父が手に長さ一尺の竹の指し棒を持っていらっしゃるのが見えました。師父は黒板の前で一つ一つの文字をさして私に教えてくださり、私は師父について一文字一文字を読みました。そして、この光景は数晩も続きました。
そして、集団学法に参加した時、私は同修達に「私にも少し読ませてもらえませんか」と言いました。皆は不思議そうに私を見て、その眼差しには「あなたは字が読めないでしょう」との意味合いが含まれているようにも見えました。しかし、同修はやはり私に読ませてくれました。私が一文字も間違えずに「論語」を全部読み終わった時、同修達は皆大変驚いて、大法の神秘さと超常さにしきりに驚嘆していました。
大法の不思議な力は私の修煉の決意を強めてくれました。その後、読めない字を自分でも調べられるよう、娘は辞書の引き方を教えてくれました。私はピンインが分からないため、部首で調べるしか出来ませんが、それでも、四十数冊の大法の著作は、今は、すべて通読出来るようになりました。
三、大法を修煉して、我が家はむつまじくなった
嫁ぎ先には相嫁3人がいますが、修煉する前には、仲が悪く、いつも些細なことで利益のために口論していました。ある年、畑を奪い合うため、義理の妹は家のとうもろこしの苗をシャベルでメチャクチャにしました。そのため、私はずっとその事が気にかかって忘れられず、ずいぶん長い間、私達はお互いに無視していました。
大法を修煉した後、私は徐々に怨恨の心を取り除き、「修煉者は寛容な態度をとらなければならない、人に優しく、誰に対しても優しくしなければならない、まして家族だから」と思うようにしました。私は進んで義理の妹と仲直りをし、それから、より良い付合いができるようにになりました。私は家庭のトラブルを、自らを高める良いチャンスにする事ができました。
ある時、私は「相嫁同士が仲が悪いのは、彼女たちが救われるのを待っているのではないか、私がしっかり行なって初めて彼女たちを救うことが出来るのではないか」と思いました。
りんごの収穫の季節になりました。私は家で採れたりんごを姉弟たちに届けて、大きなことも小さなことも煉功者の基準で自らを律しました。徐々に、私達の関係は睦まじくなりました。彼女たちも法輪功修煉者が皆良い人だと分かるようになりました。
その後、家に煉功拠点をつくることが出来、私に励まされた姑も煉功をするようになりました。