文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年1月26日】
偉大なる師父、こんにちは!
全世界の大法弟子の皆さん、こんにちは!
私は1998年に修煉を始めた大法弟子で、その時15歳で、ちょうど中学に通っていました。今年35歳です。私はこれまで大部分の時間を、大法を修煉する中で過ごしてきたことを幸せに思っています。修煉してほぼ20年、転んだり、よろめいたりしながら歩んできましたが、師父はずっと私を導き、見守ってくださったので、少年から青年へ、そして壮年まで、私は法の中で少しずつ成長し、成熟してきました。
一、法の中で成長する
集団学法に参加し 法を広める
私が修煉を始めたのは1998年の夏休みの時で、はっきりと覚えているのですが、母がいつも近くの学法場へ連れて行き、集団学法と早朝の煉功に参加していました。参加者は多く、みなが順番で読み、時には学法が終わってから交流しました。その時、私は小供だったので、修煉に対してさっぱり分かりませんでしたが、みんなが一緒に学法し交流することは良いことだということは感じていました。
そのころ、学法場には私と同じような子供弟子がおり、同修達はみな親切で友好的でした。母は、私たちの地区には当時、大法を学んでいる人が100人以上いて、多くのグループに分かれていると言いました。時には私も同修達と法を伝える活動に参加したり、公園へ行って煉功したりしました。私はとても幸運だと思いました。私が修煉を始めたのは早いとは言えず、また年齢も小さかったのですが、同修達が行った千人法会に参加したり、広場での大規模な早朝の煉功活動にも参加できたことは幸運でした。はっきりと覚えているのですが、同修達はとても精進しており、毎日の学法と早朝の煉功を緩めることはありませんでした。
私が最初に座禅の足を組み始めた時、足がどんなに痛くても毎回30分は両足で座禅しなければならないと自分に要求しました。今でも覚えているのですが、足が痛い時はいつも、誰かに足の肉を引き裂かれているかのようで、本当に痛かったのです! しかし、やはり座禅を中断することはなく、最終的にはこの関を突破しました。
そのころ、私はまだ子供だったのですが、師父は私をいつも見守ってくださり、必要な時には啓示してくださいました。ある時、突然歯が痛くなり、それは今までになかったような痛みでした。私は小さい時からアニメが好きで、その頃、いつもアニメの中の人物やストーリーが頭の中に浮かんでいました。最初、なぜ突然歯が痛くなったのか分かりませんでしたが、後になって、アニメの中のものをいつも考えていてはいけないということを悟りました。修煉は本当に不思議なもので、私が正しく悟ると、歯はすぐに痛くなくなりました。
そのころの自由に法の中で修煉できていた日々を思い出すたびに、心の中にいつも喜びと温もりが交錯します。それと同時に、非常に貴重であり、幸運であったと思います。あの日々は、後に嵐を経験する私のために、しっかりとした修煉の基礎を築いてくれたのです。
風雨の中で
1999年、中国共産党による法輪功への迫害が始まった後、あの血生臭い弾圧と共産党がはびこっていた日々を、すべての大法弟子は忘れることができないでしょう。私も北京に行って法を守り、不当に連行され、拘禁されるなどの一連の魔難を経験しました。感謝すべきことは、毎回師父のご慈悲とご加護の下、無事に危険を免れたことでした。
私の学業は共産党の狂気じみた弾圧にもまったく妨害されず、逆に、母が不当に拘禁されていたにも関わらず、私は依然として優秀な成績を収めていました。それは大法が授けてくださった知恵と勇気でした。
当時、まだ若かった私が悟った法理は多くはありませんでした。師父に対する、法に対する抑えきれないほどの擁護の念は、師父への限りない敬慕と法への信頼からでした。当時の非常に不安定な情勢の日々の中で、私の最大の考えとは「師父がおっしゃったことを行い、大法を堅く修め、初志を貫く」ということでした。
ひっそりと静まり返った人影すらない夜、一日の学習を終えた後、私は不当に拘禁された母を思い出し、限りない懐かしさに襲われ、私は泣きました。この長年にわたる修煉の中で、その時、ただ一度だけ泣きました。
果てしない暗闇の中で、そして限りない圧力の中で、望みがまったくない中でも、正念をしっかり守り抜くことができさえすれば、足元に私のために敷かれた1本の道があります。邪悪がどんなに狂気じみていても、私の心の中にすでに生じた法の光を消し止めることはできず、それは偉大なる師父が私に灯してくださった希望でした!
二、法の中で成長する
修煉の本質を体得する
師父がかつて「修煉について、皆さんは現在、その難しさを感じていると思います。難しいからこそ、修煉して成就することができるのです」[1]と私たちに思いやり深く説かれたのを私ははっきりと覚えています。今でも、修煉の苦しさと難しさを身に染みて感じているだけでなく、人が神に変わっていく過程で、法による現れは厳粛で、偉大で、貴重であり、また殊勝であるとさらに深く心から感じています。
また、少年時代の子供っぽさと愚かさはなくなり、軽はずみで激しやすい性格も幾分少なくなりました。ここで長く言うまでもありませんが、十分に心に深く刻みつけた正法修煉の歳月の中で、法に対して少しずつ思索し、認知し、着実に修めていく過程で、以前よりさらに明瞭で深く認識するようになりました。
かなり前に「修煉の中で、自分が克服しなければならない最大の困難は何か?」と考えたことがあり、それは母親に対する依頼心であることがはっきり分かりました。母は私が小さいころに修煉の道に導きました。ある時期、大人の修煉状態は子供に対して一定のプラスの効果を果たします。しかし、天性として、子供の両親に対する信頼と依頼心は修煉に対する幼さにも表れ、生活の中にしても、修煉の中にしても、母親に対する絶対的な依頼心が生まれました。特に修煉の中で、母親が悟った法理はこの上ない影響力があり、これにより、まさに自分が法を悟るのだという意識さえほとんど失ってしまいました。
考えた結果、これはとても恐ろしいことだと悟りました! すでに18歳という年になったにもかかわらず、私はまだ子供弟子を自任していたのです。潜在意識の中で自分は小供弟子であり、師父は私に対して厳しくないと思っていたのです。これらすべてによって、私自らが修煉する能力をほとんど失ってしまったのです。
真剣に内に向けて探した後「修煉は誰も取って代わることはできず、人のやり方を真似することもできず、ただ本当に自分が自分を主宰するだけだ」と認識しました。誰もが法を師としなければならず、法に基づいて悟り、法の中で修煉し、努力して魔難を克服した後に威徳が生まれ、そしてはじめて、宇宙の神によって受け入れられ承認されるのです。
数年前、私は二度と誰にも依存しないと決意し、本当に法に基づいて自分を修めなければならないと決意したその瞬間、私はやっと自分にも本当の大法弟子となる資格が与えられたのだと感じました。
はっきり覚えているのですが、以前『論語』を暗記し、この経文を完全に暗記した時、文中に「轉変観念(観念を変える)!」という4文字が現れたのを見ました。師父は「大法弟子は旧宇宙から脱皮し、古い法理から抜け出すことを目指していますが、旧い宇宙、旧い法理、旧い生命、すべてがあなたを牽制しているのです」[2]と説かれました。そして私は「大法弟子の修煉とは、大法の法理に基づいて、観念、考え方、行動と習慣、人のすべての理、すべての認識などをすべて神に変えることだ」ということを悟りました。大法の法理に合わせて絶えず実践し、自分を正す過程こそが、私たちの修煉の過程なのです。
私は若者で、自分の怠惰な安逸心は重く、さらに、この安逸心に触れたくないため、いつも心の中で回避していました。また、私の仕事は体力を使う度合いが強く、いつも精神を集中しなければならない仕事が何時間にも及び、時には一日中続くこともあります。したがって、私は仕事に対していつも反抗的で不平を言い、疲れたくなく、仕事が多くなると不機嫌になっていました。さらに、いつも一つの観念があり、それは「夜は早く寝なければならない、そうでなければ翌日の仕事で元気が出ない」というものでした。このような考えは何年も私を制御しており、さらに、夜よく眠れなければ、翌日仕事をすると、心に負担を感じ「休んでいないのに元気を出してしっかり仕事ができるのか?」と思いました。そして「よく休めなければ仕事ができない」ということをとても大きなこととみなしていました。
ある日突然、かなり前に暗記した法を思い出しました。「実は、人類社会の理は宇宙の中で逆になっています。人間が難に遭い、苦しみを味わうのは業を返し、幸せな未来を得られるようにするためです。修煉者の場合、正しい理にしたがって修煉すべきです。苦を嘗め難に遭うことは業力を取り除き、罪を除去し、人体を浄化し、思想境地と次元を高める絶好の機会であり、大変良いことです。これは正しい法理です」[3]。この時になってはじめて、人の理と観念でずっとこの仕事をみてきたことに気つきました。そしてさらに深くみていくと、自分には苦を舐めることを恐れる心があり、それをとても重くみていました。苦を舐めたくないということは、人間社会で快適で安穏な日々を過ごしたいということであり、苦を舐めることを良くないこととして対処し、このような反抗心が生まれたのです。
その瞬間、私ははっと悟りました。本質から言えば、私はずっと人の理で修煉を理解していたのですが、これは完全に間違っていました。師父は「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽とす」[4]と説かれました。問題をみる基点を間違えていたのですが、それでは何を修煉するというのでしょうか?!
このことに気づいた時、この問題において、法はさらに深い理と、さらに広大な思惟を現しました。そして私は「苦、楽、疲れ、眠気、暑さ、寒さ、飢え、渇き、痛み、気分が良いか悪いかなど、これらはみな人の感覚であり、常人の考え方である」と悟りました。本当に常人から抜け出したいと思い、これらの常人を構成する物質要素の束縛から抜け出し、これらの低次元の要素の制約を受けず、必要以上に感じないで、大きくみないで、これらの苦や疲れ、眠気などの概念を消してしまえば、これらの要素は何物でもなくなり、本当に低次元の要素を超えることができるのです。
師父は説かれました。「ご存知のように、修煉の中で人間を構成しているあらゆる要素もあなたが人間から脱皮することを阻んでいるだけではなく、人間のあらゆる環境を構成しているものまで、あなたが離れていかないように阻んでいます。どんなものをも突破しなければならず、どんな魔難をも乗り越えていかなければなりません。その最大の現れはそれらのものがあなたに苦痛を与えることです」[5]、「本を読むと眠くなり、法を勉強すると眠くてぼけてしまうのではありませんか? 皆さんに教えますが、それはこの人類空間のある次元の神です。それを突破することができなければ、あなたは即ち人間なのです。それもわざとあなたに対して何かをしようとしているのではなく、すべての人間に対して皆同じです。ですから、人間が疲れたり、だるくなることがあります。人間から脱皮しようとするなら、何でも突破しなければなりません。そうしてはじめて、できるようになります。それと一致してしまえば、それはあなたが人間だと思ってしまいます」[5]
法理が明瞭になると、修煉も簡単になりました。「よく休息することができなければよく仕事ができない」というこの観念は私の頭の中で徹底的に否定され、取り除きました! その観念が妨害しようとすると、私は少しもためらわずに排斥し、徹底的に取り除きました。それはその観念が私ではないと分かっていたからです。人の観念による妨害がなくなると、少しずつ睡眠時間が短くなり、頑張って毎朝早起きして煉功しています。観念が変わると、心理状態も変わりました。今はいくら遅く寝ても、次の日の仕事に影響するという概念はなくなりました。以前と同じように忙しいのですが、疲れることを恐れるという心理的負担がなくなり、楽に対処できるようになりました。
この経験を話すのは簡単なことですが、私は長年苦しめられました。その修煉過程を振り返ると、自分の受けいれる能力、苦しみ、忍耐、心の容量などの面で向上したことに気つきました。そして今、当初、関だと思っていたことが、実際は何でもないことが分かりました。
心を込めて人を救う
真相を伝えて衆生を救うことは大法弟子の当然の責務であり、私もさまざまな方法で人を救うことに参与しました。しかし、この数年の修煉の中で、法理をさらに深く認識し次第に成長するにつれて、以前の自分は真相を伝えている時に、多くの執着、人心、および、あまり完全ではない部分が存在していることに気づきました。自分は多くの方面で足が地に着いておらず、いいかげんにあしらって、量と功徳を求めるなどのさまざまな人心があることに気づきました。衆生を救い済度することはこんなにも偉大なことであるにもかかわらず、私はこのように軽々しく、常人のような幼稚な考え方で対処していたのです。
自分の問題に気づき、ここ数年の修煉で、これらの執着を意識的に取り除きました。そして「大法弟子が本当に人を救いたいと思えば、真心をもって真相を伝えなければならず、衆生が受け入れられる言葉と道理を用い、人当りが柔らかくて近づきやすい態度で衆生と交流しなければならない」ということを悟りました。詰め込み式に、あるいは、程度の高い話や、くどくどとうるさく言ったり、いらいらしたりして伝えるのは良くないことです。この方面を突破し、自分を修正したいと思った時、師父が知恵を開いてくださったことに気づきました。衆生と面と向かった時、私はとても分かりやすい、大衆的な言葉で伝えたいことを伝え、自分の考えを表現することができました。
ある時、再診の患者が来て、私たちはすでにすっかり親しくなっており、治療の過程で、私は第三者の立場でその患者に法輪功について話すと、患者は自分の考えを言いました。そこで、私はできるだけ穏やかな言葉と態度で患者と一緒に交流して討論し、患者が受け入れられる道理で患者の抱いた疑問に解答しました。私が話している時、患者はとても真剣に聞き、目を大きく見開き、目はきらきらと輝き、私が話したことをすべて受け入れました。
最後に別れる時、患者は名残惜しそうに、この上ない温かい表情で私に微笑みかけ、それは大法弟子の善良さによるもので、それは衆生の誰もが感じ取れるものでした。
また、ある夏の日の夕暮れ、母と近所の広場に散歩に行き、手分けして真相を伝えることにしました。すると、私はちょうど地方から来たばかりのおばさんに会い、おばさんは孫娘を連れて賑わいを見に来ていました。そこで、私たちは一緒におしゃべりし、真相を伝えると、おばさんは真剣に聞き、ずっと頷いていました。私たちは長い間おしゃべりし、途中で孫娘がおばさんを引っ張って行こうとすると、おばさんは何回も「もう少し、もう少し聞きましょう」と言っていました。この経験から、私は「縁のある衆生はこの世間にあちこちどこにでも散らばっているのだ」と感じました。
大法弟子が真相を伝える方法はとても多くあります。数年前、私は面と向かって真相を伝えるDVDを配ったことがあり、その時、多くの執着心が暴露されました。記憶に深く残っているのは、ある時、帰宅途中に歩きながら配ろうと思った時のことでした。しかし、人心が浮かび上がって、恐怖心、不安がずっと私を妨害しました。「この人はダメだ」、「あの人は苦手だ」と、延々と歩き続けても1枚も配れませんでした。私は落胆して、意気地がない自分を恨み、気分がとても落ちこんでしまいました。すると突然「天地をば法を正す道を阻み難し 只、弟子の人心により遮る?!」[6]という詩の一節が脳裏に浮かんできました。私は心がぱっと明るくなり、その瞬間、頭がはっきりして「そうだ、私を妨害しているのはこれらの人心ではないか?!」と悟りました。そこで、私はすぐに奮い立って手に持っていたDVDを衆生に配りました。
真剣に大法のウェブサイトを支持する
私は文章を書いて真相を伝えることにより、大法のウェブサイトを支持しており、2009年から現在までの8年間行っています。その間、私はさまざまな文体で文章を投稿し、私にとってこれは非常に貴重な修煉過程となっています。
私は師父の教えをずっと深く心に刻みつけています。「文章の中で理性的な分析と足りないところを探す部分や、法を実証し、損失を減らし、ほかの修煉者がみな正念を持ち、正しく行うことができるようにするための内容、迫害された学習者のために考えた方法、もっと多くの世の人を済度するための交流が多く書かれており、見栄えだけの文言、雰囲気を強めるための語句はもうありません。文章は素朴で正確かつ清らかであり、人間の情のない文章は常人には書けるものではありません。なぜならば、修煉者の内なる境地は清らかだからです」。[7] 筆をとり始めてから現在まで、師父のこの説法はずっと、私が文章を書く上での厳守すべき規範となり、努力すべき目標となりました。
原稿を書き始めてから何年も経ち、法の中で悟ったことは何でも書いてきており、師父のご加持の下、いつもはすぐに書き終えました。しかし、私は深く悟ったことがなく、その文章の背後にあるさらに大きな内涵が何であるかを悟ったことはありませんでした。しかし、ある時、明慧ネットに投稿した後、師父は私のために内涵を示してくださいました。
ある時、自分が投稿した法理に関する交流文章が明慧ネットに掲載された後、ダウンロードして真剣に見直し、編集担当の同修がどこを校正したかを見て、不充分なところを探そうと思いました。原稿を読んでいると、突然、脳裏にある一幕がぱっと現れました。法から逸脱してしまった天体範囲がすでに正されていたのです! 私はとても驚きました! そして、この時はじめて、文章を書くこともまた師が法を正すことを手伝うことになるのだ! ということを深く認識しました。そして、私たちが法の中で悟り向上するたびに、他の空間でも驚天動地の変化が起きていたのです!
この数年来、私は詩や散文、物語、修煉の文章などを、少しずつ違った文体で書いてみました。その目的は、絶えず自我を突破する中で、私たちの大法のウェブサイトをより良く豊かにして、人々にさらに多くの真相を伝える精彩を放つ文章を読んでもらうためです。はっきりと覚えているのですが、ある同修が「大法弟子たちはいくつかの主要メディアに対する支持と参与により、無辺の宇宙の中で聖なる泉に合流し、果てしない天空の中で衆生を救い済度するのです」と言いました。
大法のウェブサイトは大法弟子全体の知恵の結晶であると深く認識し、それは師父の無辺の恩恵の賜物であり、その中で私たちは大きな責任と使命を担っているのです。
初心を変えず 貫き通す
20年近い法を正す修煉の中で、繰り返し苦労を舐めて練磨し、向上し昇華し、師父のご加護と啓示は欠かすことができず、それは自分が法に則ってその次元で自分を律してきたからで、修煉の境地に達してはじめて向上することができるのです。修煉の道を歩んで来た中で「大法だけが弟子の生命の源と根本である」ということを深く悟りました。
偉大なる師父に対して、再度弟子の限りない感謝の念を表します!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『導航』「ワシントンDC国際法会での説法」
[2] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「最後になればなるほど、精進すべき」
[4] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
[5] 李洪志師父の経文:『長春輔導員法会での説法』
[6] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「煩わし」
[7] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「成熟」
(明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)