【明慧日本2025年1月14日】チチハル市の法輪功学習者・田自強さんは、何度も連行され、拘禁されていた。洗脳班や拘置所、労働教養所、刑務所などで、拘禁された田さんは、激しく殴打され、吊し上げられ、からし油を鼻孔塗られたり、長期間睡眠を奪われるなど、さまざまな拷問と虐待を受けた。田さんはチチハル市鉄鋒区と地元の建華区の公安警察から繰り返し嫌がらせと脅迫を受けた後、2024年の初めに77歳で亡くなった。
田さんは1947年11月4日に生まれ、チチハル市建華区西虹橋委員会の宿舎に住んでいた。チチハル市国税局監察室の副主任だった田さんは、1994年11月に法輪功を学び始め、「真・善・忍」の基準を自分に要求し、その結果、短期間で健康を取り戻し、道徳も向上し、名利に淡泊となり、他人のことを第一に考えるようになった。真面目に仕事をやり遂げ、同僚や近所の人と仲良くできた。田さんの仕事ぶりは非常によく、長年にわたって会社で優秀労働者として賞を受賞した。同僚たちは、田さんが法輪功を学んだ後、親切で勤勉で、決して悪いことをせず、本当に良い人だと認めた。
1999年7.20、中国共産党の江沢民が法輪功の弾圧と迫害を開始した後、田さんは法輪功の修煉を続け、北京へ行き、法輪功迫害の停止を求めたが、公安当局に強制労働教養を科され、同時に公職を解任された。その後、田さんは人々に法輪功が迫害を受けている事実を話したため、何度も連行され、労働教養処分を1年間受け、3年の判決も宣告された。田さんの妻も同時に連行され、懲役5年の判決を宣告された。田さんは前後、チチハル富裕労働教養所、泰来刑務所に送られ、残酷な拷問、殴打、虐待を受け、心身ともにダメージを受けた。2015年6月28日、法輪功迫害を引き起こした江沢民を最高検察庁と最高裁判所に告訴したが、その後、数回連行され、洗脳班に送られ、非人道的な拷問を受けた。
2023年8月のある日、田さんは私用のため、鉄鋒区で息子の嫁と会っているところをカメラに撮られた。そのことは田さんが人に法輪功のことを伝える証拠とされた。その結果、田さんは家を見張っていた警官に連行され、血液検査と尿検査を強要され、指紋も採取された。血圧が200mm Hgあったにもかかわらず、8日間も拘置所に拘束された。その後、いわゆる「裁判までの期間の保釈」で解放され、3000元の罰金を科せられた。保釈後、田さんは、居住地であるチチハル鉄鋒区と建華区の公安警官から繰り返し嫌がらせや脅迫を受け、血圧が高いまま、2024年の年の初めに脳出血でこの世を去った。
以下は、田さんが2015年6月、江沢民に対する告訴で出した告訴状の一部である。
「2001年1月1日、私は法輪功への迫害停止を求めに天安門広場に行きましたが、天安門公安分局の警官に連行されました。海淀留置場に8日間拘留され、1月10日にチチハル文化路派出所の徐歓副主任によって地元に送還されました。私が持っていた1.000元、セイコーの腕時計、金のペンは押収され、返してもらえませんでした。私は文化路派出所に一晩拘留され、警官・高衛星らによって尋問されました。ベストだけしか着ることを許されず、窓を開けられ、4時間凍るような寒さにさらされました。その後、私は暖房用のパイプと手錠を繋がれると、夜勤の小柄な警官が手錠を強く押さえつけたので、痛みに耐えられませんした。緩められたのは、第二留置場に送られた翌日の9時でした。中指、薬指、小指はすべて感覚を失い、3カ月経っても治りませんでした」
「2001年3月、私はチチハル市建華公安局によって1年間の労働教養を科されました。当時の所長の胡斌、遅斉と警官1人によって、富裕労働教養所に送られました。教養所で排水溝を掘ったり、建物の基礎を掘ったり、袋を運んだりといった重労働を強いられました。労働教養所は法輪功学習者に対しては法律を遵守せず、学習者・張暁春さんと王宝憲さんを富裕県留置場に移動させられました。その後、2人とも迫害され死亡しました」
「同年10月、法輪功学習者たちは省人民代表大会に手紙を送り、合法的に修煉できる環境を求めました。10月20日、30人以上の警官が乱入し、法輪功学習者たちを殴打しました。1人の学習者を倒した後、その人に手錠をかけ、外へ引きずりました。徐という苗字の課長は学習者を力いっぱい殴ったため、顔が真っ白になりました。殴られ倒れた法輪功学習者たちは庭に横たわり、両手を後ろに回されて手錠をかけられました。殴打を受けて目が腫れあがる学習者や、鼻血を出している人もいました。学習者・張照華さんはその後、富裕留置場に送られ、判決を下されました」
「2002年4月、チチハル市湖濱派出所の警官7、8人が私の家に押し入り、捜索令状も持たず不当に家宅捜索を行いました。張副所長と警官・田春立、牛剛は法輪功の資料と物品を持ち去り、私は派出所に連行され、コンクリートの床に一晩中座らされました。張副所長は私を殴ったり蹴ったりして、3日間、拘留しました。その後、私は第二拘置所に送られ、15日間、不当に拘留されました。張副所長は『上からの任務があり、各派出所は50人の法輪功学習者を連行しなければならない』と言っているのを聞きました。この地区では人数が足りなかったので、他のところに行って学習者を連行したそうです」
「2006年4月3日、チチハル市文化路派出所の警官・遅斉が私の家に来て、派出所に行くように言いました。私が拒否すると、彼は電話で警官を呼んできて、私の家をいたるところ隅々まで捜索し、私と妻を派出所に連行しました。妻は夜には解放されましたが、私は市の第一拘置所に送られました。そこで毎日、奴隷のような労働を強いられました。昼間に終わらなかったら、また夜にやり、終わるまで寝ることが許されませんでした。私は40日間の拘留を経て釈放されました」
イメージ図:中国共産党の刑務所で奴隷労働を強要
「2006年8月25日の夜、チチハル市正陽派出所の警官たちが私の家にやってきて、水道メーターの点検だと嘘をついて私の家に入りました。警官・趙世民は家に入り、ビデオカメラを回しましたが、目当てのものが見つからないと、香炉まで持ち去りました。警官は私と妻を派出所に連行しました。警官らは私に法輪功資料の出所を明かすよう強要しましたが、目的を果たせなかったため、私を龍沙区公安分局の刑事警察隊に送り、吊るし上げました。趙世民は、警官に私の両手を背中に回して手錠をかけるように指示し、ロープで縛られ、高い鉄のフレームに吊るされ、足が地面から離れるように引き上げられました。20分ほど吊るしては下ろされ、また吊るされ、それを何度も繰り返しました。痛みは耐え難く、まさに拷問でした。吊るすだけでなく、タバコやからし油を私の鼻に入れたり、足の裏を掻いたりしました。夕暮れまでずっと吊るされました。夜になって、年配の警官が私の足と手を背中に回し紐で縛りました。それから、太い木の棒に紐を通して机と机の間にかけました。体重で体が下がり、腰椎が反対方向へ曲がり、耐え難い痛みでした。警官はまた、私の腰が折れるくらい私の腰を踏み、夜遅くまで何度も踏みました」
「ある時、劉福山という警官が私を尋問し、私が従わないと、靴で私の頭を蹴りました。私は地面の横のパイプに手錠を繋がれ、動くことができなかったのですが、彼は足を高く上げ、靴のかかとで私の頭頂部を蹴り続けました。私の頭頂部には大量の血が流れ、髪とくっつき、口から血も流れ、耳からも血が出ました。劉福山は人に見られるのを恐れ、私に血を洗い流すように言いました。私は立ち上がるとふらつきました。副所長・田春立がやってきて私を見て、どうしたのかと聞いてきて、私が何か言う前に、私を蹴った劉福山が『壁にぶつかったんだ』と言いました」
「私は5日間、正陽派出所に拘留され、水も与えられず、トイレにも行くこともできませんでした。毎晩、手錠をかけられ、一睡もできなかったのです。両手は腫れ、腕も腫れました。吊し上げられたとき、左手首から皮膚が剥がれました。傷はなかなか治らず、大きな傷跡が残りました。私の拷問と迫害に関する正陽派出所の警官は、法律を分かっていながら、法を犯しました。彼らを起訴しないのは江沢民の迫害政策の犠牲者に過ぎないからです。私が光沢民に対して拷問罪と拷問による自白強要罪で告訴します」
「2006年8月31日、私は正陽派出所の警官にチチハル市第一留置場に送られ、不当に刑事拘留されました。留置場で私が少し動きが遅かったため、受刑者に怪我をした血腫のある腕を蹴られ、傷口が開き、血が飛び散りました」
「2007年7月、私と妻は龍沙区裁判所で3年と5年の判決を言い渡されました。 私が写真撮影や採血を拒否したため、警官・房は受刑者を使い、写真を撮るために私を押さえつけ、平手打ちしました。警官・王樹立は、受刑者に私の手を押さえさせ採血しました。そして、留置場で最も強力な拷問器具(自作の拷問器具で、非常に薄くて狭くて隙間なく手首に装着するもの。短時間で皮膚を裂くことができる)を持ってきて、私に装着し、足かせもはめました。拷問器具と足枷に繋がれた私は、腰をまっすぐ伸ばすことができないまま、3日間置かれました。その間、私は自分で食事、排尿、排便もできませんでした」
「2007年10月、私は第一市留置場から泰来刑務所に送られました。行く前に、私は妻に会いたいと言いましたが、「法輪功の人は会わせない」と言って拒否されました。
「私が泰来刑務所に到着した時、刑務所は法輪功学習者を「転向」させることを強化している時期でした。私が到着する前に、劉晶明という法輪功学習者が迫害されて死亡しました。後方勤務監区の第一分監区長は、私が「転向」しなかったので、私に立たせる罰を与えました。私は最初、朝5時から夜9時まで立たされましたが、その後に夜10時まで立たされ、さらに夜12時まで延長され、2カ月間処罰されました。2カ月間立たされた私は、立ちっぱなしで足が腫れました。また、食事でも私を虐待し、野菜を食べさせませんでした。2008年には8カ月間、私は野菜を与えられなかったのです。私は蒸しパンを食べ、冷たい水を飲むことしかできず、野菜畑で水をまくときも、水さえ飲むことができず、蒸しパンだけでした。2009年の春、再び私の睡眠を剥奪し始めました。夜、私は2人の監視者に見張られ、目を閉じることも許されず、目を閉じると枕を引っ張られました。最悪だったのは、刑事犯・宋長春が私を見張りました。私が目を閉じるとすぐに、彼は拳で私の頭を殴りました。20日以上もこの拷問を受け、昼間にはいつも通り労働を科せられ、立っていられず倒れることもしばしばありました」
「冬になると、私は穴蔵で貯蔵野菜の整理をさせられました。寒くて湿気の多い穴蔵で、薄い木綿の服しか着られず、毎日長時間立ちっぱなしのため、膝を痛めました。出所して、帰宅してから、階段を上るのに苦労しました。ある日、歩いていると、突然右膝が動かなくなりました。家に帰っても歩けず、片足しか使えず、夕方になってやっと動かすことができました。これが刑務所での迫害の結果です」
「2009年11月、私は文化路派出所の3人の警官に自宅から市公安局のゲストハウス(洗脳班)に連れて行かれました。そこにはすでに建華区の610弁公室の責任者・趙平がいて、私を連行した警官は彼女に『連れて来てほしい人を連れてきました』と言いました。洗脳班は同市の610弁公室が運営するもので、そこにいる人は建華区と依安県の人たちばかりでした。洗脳班で、法輪功と法輪功の創始者への中傷や、「天安門焼身自殺事件」の偽ビデオを見ることを強要されました。多くの邪を悟った人たちも迫害に参与し、太極拳を教える人も洗脳班にいました。依安県の農村の法輪功学習者3人が『転向』させられ、『転向』しなければ労働教養所に送られ、農業ができなくなると言われたそうです。その3人は、洗脳班の運営費として1人に2.000元を払わされました」
「私と妻が不法に拘留され、判決を受けた後、家に残されたのは息子1人でした。息子は高校1年生で、食事を作ってくれる人もいなかったため、親戚や近所の人の家で食べるしかありませんでした。夜9時に学校から帰ると、食べ物がなく、息子は空腹のまま寝なければなりませんでした。息子は両親が恋しくて、泰来刑務所にいる私を訪ねてきましたが、刑務所は会わせてくれませんでした。警官はたびたび家に行き、嫌がらせをしたため、息子は心身共に大きなダメージを受けました。当時88歳だった義父は、私たち夫妻の連行に打ちのめされました。義父は階段で倒れ、足を骨折したこともありました。その4年後、妻が解放された直後に亡くなりました。これらはすべて、江沢民が善良な法輪功学習者を迫害することによるもので、私の家族にもたらした災難です」
「江沢民の長年にわたる法輪功への迫害は、私に大きな精神的、肉体的苦痛を与えただけでなく、私の家族にも大きな経済的、生活的困難をもたらしました。2001年、私は違法に1年間の労働教養を言い渡され、チチハル市国税局(当時の局長・邢秉華)は私の給料を1年間差し止めました。2007年、私が違法に実刑判決を受けた後、チチハル市国税局(当時局長・張大偉)は不当に私を解雇し、給与を停止しました。10年近く収入がなく生活するのは、辛いことでした!」