文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年1月27日】私が修煉を始めてから20年以上が経ちます。この道のりは決して平坦ではなく、つまずきながらも今日まで歩んで来られたのは、ひとえに師父がこの不甲斐ない弟子を見放さず、長年にわたり慈悲深く導いてくださったおかげでした。にも拘わらずこの数年、私が真の修煉をしてこなかったことについては慚愧に堪えません。
けれども近頃、あたかも眠りから覚めたかのように修煉の真の意味を理解し、修煉における突破口を開くに至ったのです。
私は今年で61歳になり、大法を修煉してからすでに28年が経ちました。職場で働いていたころ、いつの間にか自分の考えが正しいと思い込む性格が身についてしまいました。長年修煉してきたというのに、肝心な場面では修煉について妥協してしまいました。自分の根本的な利己心が表に出てきて、根本にあるそれを改変せずに「内に向けて探す」ということも表面上、形式的になすに留まるばかりか、深い問題を覆い隠し、根本問題に手を付けることに尻込みしては、むしろ固守してしまうという態度をとっていたのです。
実際のところ、私の修煉に対する姿勢は「修煉上の停滞」そのものだったのです。
私はよく夢の中で、ある光景を目にしました。それは、真っ暗な洞窟の中で私が横たわっており、周りにも多くの人が横たわっているというものです。そして洞窟の入口には見張りが立っています。今になってようやく、「本当の自分」が目覚めておらず、人間の迷いに縛られたままでいたことに気づきました。
この数年間、「三つのこと」は行ってきましたが、心性を向上させることはできていませんでした。煉はしているものの修はせず、自分の主意識を放棄していたようなものでした。そもそも私は、「死ぬのが怖い」という根本の執着心を抱えたまま、胃癌を患っていた父親に付き添う形で法輪功の修煉の道に加わりました。両親が健康を取り戻すのを見て、こんどは次第に、「幸せな生活」という執着に囚われるようになったのです。
結局のところ、私が修煉を始めた目的は、「私のために大法を利用しようとするものだったのだ」ということを、今日ここで白日の下に晒したいと思います。
この汚れた心で学んだところで、どうして法を得られるでしょうか? 真に内に向けて自分を探さずして、どうして修煉ができるのでしょうか? これらのことに、最近になってようやく気づいたのです。長年にわたり法を学べば眠くなり、発正念をすれば掌は倒れてしまい、煉功の時は思想業力がまるで暴れ馬のように頭の中で暴れます。
明慧ネットで、同修が法を学んで得た経験を交流する文章を読み、そのやり方を真似てみました。さらに「主意識を強くもつべし」(『轉法輪』)という1節を暗唱するようになり、少し状態が良くなったものの、それでも心を静めることはできませんでした。
この数年間の修煉はとても苦しく、私と大法の間にとてつもない隔たりがあるように感じていました。ある同修が「法理が見えた」と話しているのを聞いて、私には意味が分からず、焦りを感じました。それから『轉法輪』を読むときには、師父に向かって手を合わせ、「どうかお助けください」と祈りました。
数カ月前の明慧ネットで読んだある文章に、私は大いに啓発を受けました。その内容はこうです。「普段から真・善・忍の法理に基づいて着実に修煉し、真・善・忍に合わないものはすべて自分ではないという念を固める。発正念で自分を清める際も、真・善・忍に合わない思考や観念はすべて自分のものではないと否定する。そして、真・善・忍が自分の空間場全体を満たし、真・善・忍が自分の頭全体を占めるようにし、後天的に形成された観念、思想業力、外来の邪魔をすべて消滅させるのだ!」と。
この方法はシンプルで、しかも理路整然としていると思いました。そこで私もこのように発正念をして、自分の空間場を清めることを始めました。その時々に、思考の中に浮かび上がる業力や観念を排除するよう努めました。すると、以前とはまったく違う状態になったことを実感できるようになりました。
夢の中で、私はある整然と整頓された部屋に入りました。その部屋の扉や窓は紅紫檀色(訳注:ベニシタンの花の色はルビーピンク)をしており、きれいな窓からは外の景色が見渡せました。その時、私は扉のそばに歩み寄り、手で軽く扉を撫でました。目覚めた私は、「これは師父が私に正しい方向を示してくださったのだ」と悟りました。
しかし、後天的に形成された観念や思想業力を具体的にどう修めればよいのか、依然として分かりませんでした。心性の関に遭遇すると、自分ではなく相手の方を直そうとしてしまいました。時には感情を抑えられず、不満や争い、自分勝手さといった魔性が表に出てしまうこともあります。
また、他の同修を見て、あの人には顕示心がある、この人には嫉妬心や色欲心があると感じることもありました。今振り返ってみると、同修の姿はまるで鏡に映し出された私自身のことだったのですが、当時は気づきませんでした。こうして多くの修煉と向上の機会を無駄にしてきたのだと思います。
師父は、私が悟らないのをご覧になって同修を通じて私に棒喝を与えてくださいました。同修がこう言ったのです。「いつも自分の考えを私に押し付けないでください」と。それまで彼女は私の話をよく聞いてくれていましたが、突然こんな厳しい言葉を言われて驚きました。
そして、これは師父の啓発なのだと気づきました。
再び『解体党文化』や『九評』の録音を聞いてみると、自分がどこを間違っていたのか分かりました。実った稲穂が頭(こうべ)を垂れるように謙虚になるべきで、身についた刺のような頑なさも取り除くべきだったのです。
顕示心の強い私は、初めて、古い同修が関を乗り越えた際の具体的な経験談を静かに聞くことができました。その時、私は口を挟まずに、ただ耳を傾けました。そして、その瞬間にようやく理解したのです。やさしさや思いやり、それこそが私に長年欠けていたものだったのです。
また、師父が私のためにこの場面を苦心して用意してくださったのだということも深く理解し、目頭が熱くなりました。慈悲の心は、自分の空間場にあるすべての不正を解体する力があります。それは鉄をも溶かすような威力で、元々の純粋で善良な自分を取り戻すことができるのです。それ以降、私の声は以前よりも低く落ち着いたトーンになりました。そして、落着き低くなった声は「常に心性を修めなさい」という意味だと悟りました。
『轉法輪(巻二)』の「佛性」を読んだ時、最初は内容が理解できず、頭にも入ってきませんでした。それでも読み続け、両手を合わせて師父に祈りました。頭の中を思想業力が休みなく逆巻く中、ひたすら読みました。少しずつ内容が分かるようになりました。そして暗誦もするようになると、師父はまた一歩、私の理解を深めさせてくださいました。
夢の中で「本当の自分」が目覚めたように、最近、現実の生活でもまるで長い眠りから目覚めたかのように、修煉の真意を理解でき、修煉における本質的な向上を得られるようになりました。
今日、この文章を書いたのは、自分が返本帰真の道をよりよく歩むためであり、また、まだ目覚めていない同修たちが一日も早く目覚め、私たちのした誓約を違(たが)えることなく、佛性に返ることを願ってのことです。
修煉の方法が分からない同修も、師父に真摯に祈り、後天的な観念に目を曇らされないようにしましょう。天上の家の人々の期待のために、そして衆生のために、「本当の自分」を早く目覚めさせましょう!