文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年2月18日】大法の中で28年間修煉してきて、私の人生は大きく変わりました。利己的で自信がなく、哀れで横暴だった私が、善良で自信に満ち、利他的な生命に生まれ変わることができたのは、大法の威力と恩恵によるものです。
一、修煉前の惨めな人生
生後8カ月の頃、私は皮膚病にかかり、頭全体にできものができ、ひどい痒みで1日中掻きむしっていました。掻くと血や膿が出て、黄色い水が垂れたところにまたも新しいできものができ、水が流れないときはかさぶたができるという繰返しでした。この頑固な皮膚病は30年間治療し続けましたが、1日たりとも治ることはありませんでした。
3歳になっても私はまだ歩くことができず、やっと歩けるようになった時、いつまで経っても私の頭は髪の毛が生えてきませんでした。学校に通っていた頃、頭にたらいを被せられているような感じがして私は勉強が進まず、他の子の宿題を写すこともまともにできず、クラスメートに嫌われ、教師にも嫌がられていました。
11歳のとき、私は脳膜炎にかかり、母に数日間徹夜で看病してもらった結果、命を取り留めましたが、学問とはもう完全に無縁になってしまいました。12~13歳になる頃には、頭のできものがようやく治ったところ、今度はそれが手に転移しました。名医を訪ね、さまざまな民間療法や滅多に見かけない処方薬まで試しましたが、効果はありませんでした。それだけでなく、目も風にあたると涙が流れ、黄疸性肝炎やリウマチ、重度の貧血症など、さまざまな病気に苦しむようになった私は卑屈で臆病になり、命を何とかつないでいました。
大人になってから、私は工場に勤めました。ほかの女性はみな細くて美しい手を持っていましたが、私の手は傷だらけで、いつも隠していました。毎日薬を塗るときも人目を避け、嫌がられるのを恐れていました。結婚後も、夫に見られないようにこっそりと薬を塗っていました。夫は時々薬の匂いに気づいても、何も言わず黙っていました。病に長年苦しめられて、私は自信を失い、内向的で気難しい性格になってしまいました。
夫は田舎から出てきた学識のある人で、私より文才があって機転も利き、人から絶えず贈り物を貰っていました。頼れる存在ができて一安心していたところ、夫は私が28歳のときに交通事故で亡くなりました。そのとき、息子はまだ3歳半でした。事故後、夫の勤め先の上司は加害者との交渉に全力を尽くし、医療費と葬儀費用を全額負担してくれました。
将来もっと多くの支援を受けられるよう、私は夫の勤め先に対し、社宅に住まわせてほしいと願い出ましたが、断られました。空きがあるにもかかわらず、住まわせてくれませんでした。私は空いている社宅の部屋の鍵をこじ開け、幼い子供と田舎から出て来た姑を連れて強引に住み込みました。この挙動で私は夫の職場全員の反感を買ってしまい、誰もが私を相手にせず、助けようともしなくなりました。虚しくて、悲しみと怒りだけを抱えるようになった私は、夜になると、よく独りで胸を叩きながら泣き明かしていました。
これが修煉を始める前の私でした。世界が真っ暗で生きる希望がなく、人間として生きる道理も分からず、何事も無理やり押し通そうと強引に振る舞い、助けてくれた人に対しても感謝することもせず、むしろこう考えていました。「私はこんなに従順で病気も多く、人前でうまく話せず、常に人に馬鹿にされ、ないがしろにされる。やはり悪者を演じなければならない! 子供はまだ幼く、私には頼れる人もいないので、子供が他人からいじめを受けることがないように、保身術を教えなければならない。そうだ! まず子供の爪を長く伸ばさせ、『殴り合いで勝てなくても、引っ掻いてでも勝たせるようにしよう!』」。ある時、姑と言い争いになり、私は怒りのあまり義弟の職場まで押しかけ、彼を追いかけながら罵倒しました。
もし大法に出会えず、そのまま進んでいけば、私は精神病患者にならなくても、神経質になっていたでしょうし、子供も私のせいでダメになっていたでしょう。もし法輪大法を修煉していなければ、実家とも夫の家族とも一切関わらなかったでしょう。なぜなら、私は常に自分が一番不幸だと考え、「皆が私を気遣い助けるべきなのに、誰一人として十分な助けを与えてくれなかったので、私も優しく接する必要がなく、その余裕もない」と思っていたからです。その頃の自分を振り返り、今になって怖さを実感しました。
二、師父は私を汚れた深淵から引き上げ、浄化して下さった
1996年初め、従姉がよく私の耳元で法輪功のことを囁き、さらに1冊の『法輪功』をくれました。そこから私は毎晩ベッドに座ってその本を読み、読めば読むほど心が晴れやかになり、「人生の中で理解できなかったことや私の病気などには、すべて理由があるのだ。この法はどうしてこんなに素晴らしいのか! 文化や身分の違いに関係なく、誰でも修煉できる。真に修煉すれば、師父は必ず見守ってくださる。何があっても修煉するのだ」と考えました。
修煉し始めてまもなく、30年間私を苦しめていた皮膚病を含め、私の病気はすべて消え去り、肌が滑らかできめ細かくなりました。生まれ変わったように、私は日々「真・善・忍」の基準で自分を律し、明るく楽観的になり、心の中で歌うようになりました。
ある日、義母が私に難癖をつけて、私が彼女の靴を捨てたと言い張りました。私は反論せず、新しい靴を買って彼女にプレゼントしました。その後、義妹が「彼女の靴はソファの下にありました! 見つかりましたよ」と教えてくれて、私は「修煉していなかったら、私はこんな対応をできなかっただろう」と笑って言いました。
勝手に夫の会社の社宅に住み込んだのは間違いだと思った私は、自ら社宅を空け、実家に引っ越しました。
夫が亡くなってから、夫の会社は義母と義祖母の名義で二つの遺族年金を申請し、毎月私と義母に支給していました。義母が亡くなった後、私は業務課の職員を訪ねて遺族年金の支給停止を申し入れ、こう言いました。「義母と義祖母はもう亡くなったので、この二つの遺族年金はもう受け取れません! 支給を停止してください」。彼らから「今後はもう支給がありません。今年度分だけでも受け取って下さい」と勧められましたが、私はその分も受け取らないことにしました。その直後、「法輪功を学ぶ者は、得るべきでないお金を受け取らない」という噂が全社に広がりました。
私の両親には3人の息子がいて、皆お金や権力を持っていて、私だけが困窮で身寄りがないのです。実家で1年以上住んだ後、兄たちは運の悪い私を嫌がり、父は私に再婚を催促し続けました。再婚せずにさらに2年暮らした後、父は私たち親子を追い出しました。実家には2つの屋敷があり、たくさんの部屋があったので、私は家賃を払うと申し出ましたが、それでも父は応じてくれませんでした。私は大法の基準に従って父と口論せず、福祉住宅を探そうと勤め先に向かいました。勤め先には私に提供できる家がなく、子供を連れて社員寮に住むことだけが許され、家具などの持ち込みもダメでした。
北京に陳情に行った後、勤め先から理不尽な解雇を言い渡されて職を失った私は、ベビーシッターや介護士、コックとして働きました。師父の慈悲なるご加護の下、生活は苦しいものでしたが、お金に困ることはありませんでした。どの職場でも、私は常に修煉者の基準で自分を律し、損することを恐れず、誰もが感服し言いがかりをつけることがないように努力しました。仕事を辞める直前になればなるほど、私は完璧を目指し真心を込めて働きました。常人のようにいい加減になったり、仕事を投げ出したりせず、掃除を隅々まで徹底し、漬物も全部準備してから引き継ぐようにしました。法輪大法の良さを実証しようという思いを抱きながら懸命に働いた結果、私が仕事を辞める時、どの雇用主も名残惜しがっていました。
ある会社の食堂で給仕として勤めていた頃、出稼ぎの若い男性たちがよく食べ残しを簡単に捨ててしまうのを見て、私は彼らに「浪費してはならず、食べ物を粗末にしてはいけません」と言い聞かせ、人間としての道理を諭しました。隣の商家の奥さんがお米を研ぐとき、白い米も一緒に流してしまっているのを見て、私は何度も優しく忠告し、物を無駄にせず、恵みに対し感謝の心を持つべきだと伝えました。時間が経つにつれて、皆は徐々に言動を改め、「おばさん、どうしてこんなに優しいんですか!」と言い、心から私に感謝しました。
あるとき、私は夫の元職場の同僚の家で、半身不随になった奥さんの介護をすることになりました。私は修煉者らしく振舞い、人には優しく、自己には厳しくしました。当時、携帯電話はまだ貴重なもので、誰もが使うのを惜しんでいましたが、私は用事があれば必ず自分の携帯電話を使い、雇い主の家の固定電話を使いませんでした。仕事の合間、私は雇い主の家のビル内の階段や周囲をきれいに掃除しました。夫の同僚は私に、「誰もがあなたのことをどうのこうのと悪く言っていますが、私が見るには、あなたはとてもいい人ですよ」と言いました。
介護の仕事をしばらくしてから、夫の同僚の私に対する印象がすっかり変わりました。私は自身の言動をもって大法の素晴らしさを実証し、修煉前の理性に欠けた行動によって皆に与えた悪い印象も挽回することができました。そして、この仕事を辞めた6年後に、この家族は人づてに「また働きに来てほしい」と頼んできていました。
社員寮で1年ほど暮らした後、同じく法輪大法を修煉している同僚が出稼ぎに行くことになり、自分の家を貸してくれました。こうして、私はやっと息子と自分たちの生活空間を持つことができました。その後、同僚の紹介を通じて、私は一軒の古い平屋を購入しました。母子家庭はそもそも大変な上、世の中の風潮も悪化しているので、孤児や未亡人であることを理由に私たちをいじめる人もいました。しかし、私の心には大法があるので、もはや孤独や恐怖を感じることはありませんでした。私は常に修煉者として誠実に人と接し、物事に対処し、怨まず憎まず、いつも楽しく微笑んでいました。
古い家を買って住み始めたとき、近所に男性教師がいて、私が人に対し親切で暖かく接しているのを見て、何度も夜、私の家にやってきていかがわしいことを言い、夜2人きりで出かけようと誘ってきました。私は彼に優しく話しかけ、人としての正しい道理を言い聞かせました。私の人柄を理解した彼は邪念を捨て、嫌がらせをしに来なくなくなりました。その後のある日、教師であるこの男性は何かを理由にして、耳を疑うような汚い言葉で私を罵倒しました。私は言い返さず、理に叶うことで優しく諭してあげました。その後、私は彼の奥さんのところに行き、こう尋ねました。「ご主人が我が家に来て私を叱りつけられましたが、どのような事でご主人を怒らせてしまったのでしょうか?」奥さんは驚いた表情で、「そんなことはありえないでしょう?! 彼はあなたの優しさと品格をいつも褒めていますよ!」と否定しました。私は心の中でこう思いました。「私が大法の要求に従って正しく行動している限り、悪を行う者も心の底から感心するでしょう!」
子供が大学に通っていた頃、私は古い家を改築しました。家の右側には鄭さんという隣人が住んでいて、改築の過程で何度も嫌がらせや挑発をしてきましたが、私は修煉者らしく「大きな忍」をもって彼に接し、何事も気にせず、放下するよう自分に要求しました。新居が完成した後も、私は引き続き鄭さんに親切に接し、日常生活においても彼の家族のためになることを率先して行いました。彼も時折、少し申し訳なさそうにしていました。
修煉して以来の28年間、外でどんな嫌がらせや不公平な扱いを受けても、子供の心に恨みや悪意の種が蒔かれることがないよう、私はそれらのことについて子供に一切話さず、ひたすら「真・善・忍」に沿って子供を教育し、隣人も含め他人に親切にするよう教えてきました。
大法弟子の言動は世人をも感化しています。夫の妹は姑一家によくいじめられていて、姑に対して深い恨みを抱きました。私は普段から、大法から学んだ人としての道理や業力の転化について彼女に話し、次第に彼女の義母への態度も変わりました。ある日、彼女が突然私に「姉さん、あなたのお陰で私は救われました」と言い、「あなたを救ったのは、私の師父です」と答えました。
夫の弟から、自分たち夫婦より私の子育てがもっと上手だと褒められたとき、私は「大法を修めることによって与えられた福のお陰です」と伝え、彼らの家のこともできる限り手助けしました。弟夫婦が出稼ぎに出ていたとき、私は1年あまり彼らの子供の面倒を見ていて、衣食住のすべての出費を負担し、彼らから預かった通帳に手をつけませんでした。また、師父が健康な身体を与えて下さったお陰で、私たち親子は28年間薬を飲んだことがなく、注射を打ったこともなく、経済的余裕があり、親戚や友人と些細なことで言い争うようなこともありませんでした。
三、娘としての役割を全うする
私の両親が80歳を超えてから、次々と寝たきりになりました。兄たちはみな独立して自分の家を持つようになり、裕福な生活を送っていましたが、誰も率先して親の介護をしようとしませんでした。退職し時間的余裕ができた私は、自ら進んで実家に住み込み、両親の介護を引き受けました。1年以上、私は食事や身の回りのことを手を抜くことなく行い、時には夜も寝ずに世話をしていました。
母が重病で入院した際、医師は「あと2~3か月しか生きられません」と言いましたが、大法の恩恵と私の細やかな介護の下、母はそれから1年以上も生きることができました。親族も大法の不思議な力を目の当たりにし、私がすべてを一手に引き受け、両親の世話も家の整理整頓もきちんと行っていたのを見て、大法の良さを心から認めるようになりました。母が先に亡くなり、その後父も亡くなり、父の葬儀後の食事の時、いとこが私の長兄に「妹に感謝すべきではないか」と言って、私の献身的な介護を褒めました。長兄は私に「お前は信仰を持っている人だから、ここまでできたのだ!」と心から感嘆していました。
大法を修めていなければ、私はこのように両親のお世話をしなかったでしょう。父はずっと男子を大事にし、私には冷たく接してきました。兄たちはみな裕福だったにもかかわらず、父は「孫が大学に合格したら、学費はすべて負担する」と公言し、実際、2人の孫と1人の孫娘の大学費用を毎年惜しみなく出していました。しかし、私の息子が大学に合格した際、父は少額のお祝いの品だけを送ってきました。兄嫁でさえ、「私たちは援助を必要としません。娘さん(私のこと)を助けてあげてください」と父に言いましたが、父はそれを無視しただけでなく、母が私を援助するのではないかと常に警戒し、厳しく監視していました。私の息子が私立中学校に通っていた際、父は兄に「妹を説得して子供を公立に行かせるように言ってくれ! 私からお金をせびるかもしれないから」と言ったそうです。実際、私は他人に助けを求めるなど考えもしなかったし、実家の家賃収入にも関わらないよう気を付けていました。実家では、私は働くだけの存在であり、食べていたものも余り物ばかりで、経済的支援など期待することもできませんでした。それでも私は一切気にせず、ただ大法の「真・善・忍」の基準に従い、自分を律して生きてきました。
私にとって、娘の役割をしっかり果たすことは、大法の世間における部分を円融することであり、迫害の実態を伝え、衆生を救うことは、大法弟子としてのより重要な使命です。私は実家で学法グループを立ち上げ、さらに自宅にあった資料拠点も実家に移しました。そこから、私は真相を伝えるための紙幣や資料を絶え間なく同修に供給し、日常生活の中で機会がある度に対面で真相を伝え、衆生を救っていました。
父は私に対して厳しく冷淡でしたが、私が実家で学法拠点を設けることには反対しませんでした。それどころか、人が多く集まれば集まるほど父は嬉しくなり、「娘がいてくれて、良かった!」と人々に言っていました。亡くなる2日前、入院中の父は突然、「法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!」と叫びました。驚いた医師が「何を叫んでいますか?」と尋ねると、父は再び力強く「『法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!』と言いました」と答えました。その場にいた人々は皆笑い出しました。
四、正念正行で師父のご恩に報いる
夫の故郷でも、私は良い評判を得ていました。村の人々は、「28歳の若さで未亡人になり、1人で子供を立派に育て、さらに家まで建てるなんて、本当にすごい!」と私のことを褒めてくれて、私がここまでできたのは法輪功を修煉しているからだと認めています。
1999年7月に江沢民が中国本土で法輪大法への迫害を開始し、師父を誹謗中傷し始めた後、私は2000年末に同修と共に北京に陳情に行きました。帰宅後、私は地元の拘置所に3カ月以上も不当に拘束され、3,000元ほどの罰金を科されてようやく釈放されました。当時、私の月給は500元にもならないものでした。迫害が始まった最初の数年間は、私が最も厳しく迫害された時期であり、悪人や悪徳警官がたびたび家に押し入ってきました。しかし、私は決して真相を伝えることを怠ることなく、できることを全力で行いました。
2001年のある日、同修たちと一緒に資料を配りに行くことを約束した私は、自宅で同修を待ちながら資料を印刷していました。ある同修が訪ねてきた際、会社の党書記に尾行され、さらに派出所に通報されてしまいました。数人の警官が私の家に押し入り、私を連行した上、資料や横断幕などを2袋も押収しました。派出所では、610弁公室の人員らが交替で私を尋問し、5日間も私を眠らせず、目を閉じることすら許しませんでした。彼らは棒で私を叩きながら、「お前を殴り殺してやる! ガソリンで焼いて埋めてやる! これほどたくさんの資料を作っていて、某某某はたった1枚のチラシだけで3年の刑を受けたのだ! お前の息子も学校に行かせないようにする!」などと罵声と脅迫を浴びせました。私は心の中で「それはあなたが決めることではない!」と思いました。
不当に拘束されていた間、私は同じ部屋にいた受刑者たちに『洪吟』や『大法は堅固にして破壊不可能である』などの経文を暗唱するよう教えました。煉功していると、警官が石を投げつけてきましたが、私はまったく動じませんでした。不当に拘束されて1カ月ほど経ったとき、私は拘置所の警官たちに宛てて善を勧める手紙を書いてから断食に入りました。5日後、7〜8人の警官が私を取り押さえ、強制的に灌食を行いました。同じ部屋にいた受刑者たちは私の味方をして、看守に釈放を訴えました。結局、私の命が危なくなっているのを見て、彼らはようやく私を家に帰しました。
その1カ月後、私は小学生の子供を連れて(迫害の実態が書かれた)貼り紙を貼りに行った際、待ち伏せしていた警官に見つかりました。子供は私の足にしがみつき、「お母さんを連れて行かないで!」と大声で叫びましたが、それでも警官は私を連行しました。子供は1人で家に帰りました。私は前回と同じ部屋に収監されました。看守は私に「前回は断食で出られたが、今回はそういかない!」と言いました。私は心の中で「それはあなたが決めることではない!」と思いました。私は再び断食して迫害に抗議し、13日後に釈放されました。強制灌食された際、私が拒否した食べ物は服にこぼれていて、拘置所を出たとき、衣服に白いカビが生えていました。
2003年の旧正月の15日、同修たちと一緒に駅周辺で資料を配布していたところ、私1人だけが連行され、20人ほどの鉄道職員に一晩中監禁され、尋問されました。写真を撮ろうとした彼らに私が協力しなかったため、数人の職員が私の髪を掴んで撮ろうとしましたが、私はこう言いました。「撮ってください。撮れば、これがあなたたちが犯した罪の証拠となります!」。それを聞いた彼らは怖くなり、写真を撮るのをやめました。師父によるご加持の下、私は言葉が流暢になり、途切れることなく迫害の実態を彼らに伝えました。彼らは何も言い返すことができず、最後に「あなたはどこで教師をされていますか?」と聞きました。
夜が明けてから、私は駅構内の派出所に連れて行かれ、私が法輪功修煉者だと聞き、同じ部屋にいた切符の転売業者たちは、「法輪功を学ぶ人は自殺や殺人を犯す!」と言い、私に殺されるのではないかと恐れていました。夜中に別の転売業者が連行されて来て、私は自分の暖かい場所を彼女たちに譲り、別の寒い場所に移動し、一晩中迫害の実態を話し続けました。朝になって、私はチャンスを見計らって警官にも真相を伝えました。その数日後、私は市内の拘置所に移され、不当に拘留され続けましたが、やはり断食で迫害に抵抗しました。
4回も不当に拘束された中、私は大法への揺るぎない信念をもって関門を乗り越え、旧勢力が仕組んだ魔難を終わらせました。弟子のために耐えて下さった師父に感謝し、正念で加持してくれた同修たちにも感謝しています。
修煉が徐々に成熟してきているにつれ、私の修煉の道もますます広く平坦になりました。28年間の修煉の過程において、師父から与えられたものがあまりにも多く、言葉では言い表せません。師父に随い、最後まで修めて行きます!
師父に感謝し、同修に感謝します!