文/中国の大法弟子
【明慧日本2025年3月5日】(前文に続く)
法を学び、心を修める過程で、私に深い印象を残した出来事がもう一つありますので、同修の皆さんと交流したいと思います。
身近な同修から、特定のブランドのコピー用紙を買ってきてほしいと頼まれました。しかし、用事で時間がかかってしまい、頼まれたコピー用紙を買うことができず、別のブランドのコピー用紙を買って渡しました。すると、同修はそのコピー用紙を気に入りませんでした。それどころか、何度も私を非難し、文句を言い続けましたが、その時はまだ私は平静な心を保つことができました。そこで、私が使い始めたばかりの、同修が欲しがっていたブランドのコピー用紙を彼女に渡し、彼女が「いらない」と言ったコピー用紙を私が代わりに使うことにしました。ところが、予想もしていなかったことに「私が渡したコピー用紙は同修が使っていたブランドのものではなく、私がすり替えたのだ」と彼女は決めつけ、証拠をつかむために私の家まで来ると言い出しました。同修が「いらない」と言った紙を開封してみると、彼女は目を丸くして「この紙こそが自分が欲しかったブランドのものだ」と言い出しました。同修は「私がこっそりとすり替えたのだ」と信じて疑わず、私はもう我慢できなくなり、怒りと恨みと屈辱が一度に押し寄せてきました。
後になって私は「忍耐が足りなかったこと、善を行えなかったこと」を後悔しました。しかし、それは表面的なことでした。「法を学び、内に向けて探すことによってのみ、真の解決策を見つけることができる」と悟りました。邪悪が私たちを対立させ、全体の力を弱めようとしていることに法を学ぶ中で気づきました。邪悪に目的を達成させてはなりませんでした。そこで、私が悟ったことすべてを書き出し、同修に渡しました。同修は自分の考えを私に伝え、同修は「私が私利私欲に囚われている」と決めつけ、私の娘に相談して私を助ける方法を考える、と言いました。なぜ同修がそのような考えを持つのか私には理解できませんでした。
長い間、執着を探し続けていますが、この対立の根本原因はまだ見つかっていないように感じます。私はまだ不満に思っており、隔たりの物質はまだ存在していました。私は必ずこの執着を見つけ出し、虚像に惑わされず本質を見抜き、自分の本性から法を認識することを妨げている全ての人心と観念を徹底的に取り除かなければなりませんでした。私は師父に弟子へのご加持を求め、同時に法を学ぶ時の心の状態を調整し、心を静めて法を学び、法の全ての文字が私の脳に刻み込まれるように努力しました。
法の中に溶け込んでいくと、この出来事があった時の自分の振る舞いを突然思い出しました。それは、数人の同修がより良い修煉環境を築けるように手助けしたい、数人の同修を集めて共に法を学び、心性を高め、全体で向上するという目的を達成できるように交流したい、というものでした。表面的には同修のためを思っていましたが、実際には「同修を助けたい」という私の心が「私を助けたい」という同修の心を呼び起こし、それがトラブルの背後にある真相でした。師父は弟子を向上させるために、心を砕いてこのトラブルを按排してくださいました。その目的は、私がトラブルの中で自分の不足に気づき、法の中で悟ることができるようにするためでした。私は感動して涙を流しました。
私は必ずこの不足を取り除き、師父の慈悲なる救い済度を無駄にはしません。では「同修を助けたい」と思うことはなぜいけないのでしょうか? 学法を続けるうちに法理を悟りました。人を助けることは、常人の理では良い行いであり、善です。しかし、修煉者は常人とは異なり、高次元の理で測らなければなりません。では、私が同修を助ける背後には、どのような人心が隠されているのでしょうか? どのように同修を助けることができるのでしょうか? 私が「同修を助けたい」と思うことの動機を深く掘り下げて考えていくと「自分が同修よりも能力があり、修煉が良くできており、法理をよく理解しており、同修よりも次元が高いからこそ助けられるのだ」という結論にたどり着きます。自分が同修を助ける能力があると思うことは「自分の修煉がよくできていると思い、自分を同修より上に置いている」ということではないでしょうか?
これはどんな心なのでしょうか? これは、顕示心、自分を証明したい心、自分を同修より上に置きたい心、自分の観念を他人に押し付けたい心、でした。では、助ける代わりに、何をすべきなのでしょうか? さらに学法を進めると、法理が再び明確になりました。同修の間には、誰が上とか下とかはなく、皆が師父の弟子であり、同時に師父によって高い次元の境地に導かれたのです。同修の間は平等であり、互いに注意を促し、励まし合い、支え合いながら、一歩一歩しっかりと歩んでいくしかありません。
法理を完全に理解した時「自分の内面を自身の内面を徹底的に見つめ直すことによって生じる生まれ変わるような変化」を私は感じました。それは、人間から神へと向かう過程でした。私の心の軽やかさは言葉では言い表せず、同時に師父のご慈悲に感謝申し上げました。私がこの理を理解したばかりの時、慈悲深い師父はこの問題を解決してくださいました。同修は自分の行いを非常に後悔し、悲しみ、私たちと一緒に法を学び交流したいと言いました。交流の中で、私と同修の間の隔たりは完全に消え、元の状態に戻りました。
三、法を用いて自身の行動を律する
修煉の中で、私は何かをする前に必ず法の基準と照らし合わせる習慣が身につきました。もし一時的にどうすれば良いか分からなければ学法して悟るようにしています。例えば、周りの同修が中国共産党(以下、中共)に不当に逮捕された後、多くの同修が同情から自発的に留置場へ衣類やお金を届けに行きました。その後、同修が不当に重い判決を受けるかもしれないと聞いた時、隣の同修が私のところに来て「迫害されている同修に500元を届けてほしい」と頼みました。この件について、私は今まで法に則って悟ったことがなく、お金を届けることが法に則っているのかどうかが分からなかったので「悟ってから決めることにする」と同修に伝えました。
「法に則って悟りたい」という願いがあったので、心を静めて法を学ぶうちに悟りました。このお金は届けるべきではありませんでした。この行為は同修への情であり、邪悪の迫害を認めることになります。もし不当に拘束された同修がすぐに無条件に釈放されるのであれば、彼女にお金や物を届ける必要はないのではないでしょうか? 潜在意識の中で「同修の家から大量のものを押収されたのだから、罪は軽くは済まないだろう、必ず重い判決が下される」という考えを認めてしまっているのです。「同修がすぐに釈放されるのではなく、ある程度の期間拘束され続ける」と考えるからこそ、お金を届けるような行為をするのであり、これは邪悪を間接的に支持し、同修への迫害を重くすることになります。同修は迫害されるべきではなく、すぐに釈放されるべきであり、これこそが法に則ったことでした。自分の認識を私が同修と共有すると、同修たちも「お金を届ける」というこのやり方がおかしいことに気づきました。
四、自分の一思一念を修正する
同修がとても質の高い神韻芸術団の公演DVDを私に贈ってくれました。仕事から帰宅した時、自宅のマンションの入り口に4枚置きました。翌日仕事から帰宅すると、誰もDVDを持って行っていないことに気づきました。私はとても無力感を覚え、世間の人々はあまりにも無感覚で、抵抗感があるのだと思いました。こんなに素晴らしい公演DVDを見ないなんて、とても残念でした。一体どのような要因が人々が真相を得ることを妨げているのでしょうか? 私は人々に対する邪悪な按排を全面的に否定しましたが、効果はありませんでした。
私は自分自身を探し始め、近隣の人々に対する自分の態度を探しました。近隣の人々の一部は三退しており、大法がすばらしいことを知っており、私が良い人間であることも知っています。しかし、同修たちが配布する真相資料を一度も受け取ったことがなく、私は近隣の人々はあまりにも法輪功に対する関心が薄いと考えました。私のこのような態度は、真相に対する近隣の人々の抵抗的な態度を暗黙のうちに認め、彼らはそういうものだと決めつけ、あきらめや無力感を生み出していました。私はまず近隣の人々の態度を認め、それから彼らが法を得るのを妨げている邪悪な要素を取り除こうとしましたが、実際には魔難の中で迫害を止めようと活動しているため、他の側面が見えなくなってしまい、結果として私の観念が彼らの真相の理解を妨げていました。
近隣の人々はみな法のために来た生命であり、本来ならば無条件に大法を支持し、大法に同化するべきです。きっと邪悪要素が私の思考の隙を突いていました。私は観念を転換し、邪悪な旧勢力のすべての按排を全面的に否定し、正念で取り除かなければなりませんでした。3日目、3階の窓際に置いておいたDVDが誰かに動かされた形跡がありました。4日目の朝、3階と1階のDVDを誰かが持って行きました。5日目には、2階と4階のDVDを近隣の人々が持って行きました。近隣の人々がDVDを持って行ったことを通じて、私は自分の観念が人々に及ぼす影響を認識しました。何の観念も持たずに真相資料を配布することで、より多くの人々を救うことができるのです。
もう一つの出来事があり、最近、私の家の新唐人テレビが信号を受信できなくなるという現象が頻繁に起こりました。大晦日には、信号強度がゼロになり、映像が全く映らなくなりました。階下の一般家庭(私と同じアンテナを使用)で信号の品質を確認したところ、こちらもゼロでした。技術担当の同修がこの情報を知り、貴重な時間を割いて点検してくれることになり、表面的には強風でアンテナの角度が変わったためだとわかりました。
私は自分の考えを整理しました。当時、窓の外の強風を見て、アンテナが影響を受けるのではないかと心配していました。それからというもの、新唐人テレビの放送が頻繁に途切れたり、正常に視聴できなくなりました。「強風でアンテナが影響を受ける」というこの自分の考えがテレビの受信不良の根本的な原因であることを私は理解しました。根本的な原因を理解した後、再度新唐人テレビを見ると、すべてが正常に戻っていました。隣の家の信号の品質は59%、私の家は63%で、大晦日にはどちらの家も新唐人テレビの新年祝賀祭を問題なく見ることができました。
正しくない思想や念が妨害を引き起こす教訓はあまりにも多く、不必要な妨害を減らすためには、常人のいかなる観念や正しくない考えも放棄しなければなりません。
私が不当に留置場に拘束された時、私がいた監房の刑務官長は、大法弟子を迫害する四大悪人の1人であり、明慧ネットに公表されていました。私は刑務官長について次のように認識していました。地球上の人々はみな法のために来た生命であり、多くは大きな困難や危険を冒すことも厭わない強い意志を持って法を得るために降りてきたのです。ただし、旧勢力は人々に対して、大法弟子を迫害することで人々を滅ぼすように按排しました。これは旧勢力の按排です。師父は旧勢力の按排を認めませんし、大法弟子の私も認めません。私は自分の最大の努力を尽くして刑務官長を救い済度したいのです。
予想外なことに、刑務官長は私が心から彼女に良くしていると感じていたようで、私の前では一度も悪態をつきませんでした。刑務官長が私と話す時、いつも私の考えに影響を受けていました。刑務官長が監房で会議を開いて話す内容の多くは、私が彼女に話したことでした。刑務官長は何度も私に「どういうわけか、あなたに大声で話しかけると罪悪感を感じるのです」と言いました。私はこれが法の威力だと知っていました! その後、刑務官長はさまざまな方法で私への敬意を表しました。逆にある同修は、刑務官長は淘汰されるべき対象だと決めつけており、刑務官長は明確な理由もなしにいつもこの同修に腹を立てていました。
私の案件を担当している捜査官と地元の派出所で対峙した時、私は「自分のいかなる間違った考えや執着も、警官が大法に対して罪を犯す原因となることを絶対に許さない、彼らの生命を大切にし、彼らの未来に責任を持とう」と自分自身に約束しました。邪悪な迫害が始まってからの数年間、地元の派出所は私のところに一度も嫌がらせに来ませんでした。中国共産党第17回全国代表大会(訳注:2007年10月に北京で開催された中国共産党の全国大会)前後に、中共が大法弟子に対して再訪問を行おうとした時、私は夢の中で他の空間の光景を見ました。それは、地元の派出所の警官が私にとても親切で、私が遭遇した問題を彼らが自主的に解決してくれたというものでした。私は、自分の正念が作用し、自分の空間場を浄化し、私の空間場にいる警官がみな善化されたのだと悟りました。派出所からの嫌がらせを受けなかったこと、そして警官が問題を解決してくれた夢、これらの実例を通じて、私は大法弟子の正念がいかに重要であるかを認識し、真に修煉する弟子として、自分の一思一念と厳粛に向き合わなければならないと感じました。
休憩するたびに、休憩時間を学法のために活用し、私は学法の時間を延長します。そうすることで、自分の修煉における不足を見つけることができるだけでなく、師父が私に何を求めていらっしゃるのか、どのようにするのが最も法に合致するのか、そして私が何をすべきか、どのようにすればより良くできるのか、なぜこのようにするのか、といった法理を悟ることができます。それによって、修煉の道で多くの回り道をせずに済むようになりました。
以上が、私が法を学ぶ中で得た小さな体験です。法の要求に従えば私はまだはるかに遅れています。私はさらに精進し、着実に修煉し、自分の修煉に後悔を残さないようにいたします。
(完)