【明慧日本2025年3月6日】(前文に続く)
私が受けた迫害
1999年7月、中国共産党による法輪功への迫害が始まった後、7月23日から8月1日まで、当時の勤務先の党書記・郭運昌らは、社内でいわゆる「法制教育学習クラス」を開きました。この学習クラスは「洗脳班」と呼ばれ、私たちはそこで洗脳迫害を受けました。
1999年12月のある夜、勤務先は、私に法輪功をやめる誓約書を書くよう強制しました。私は誓約書を書かずに家に帰りました。その後、保衛課長・龐強と正大派出所の警官らが深夜に私の家に押し入り、「なぜ勝手に帰宅したのか」と問い詰め、しばらくの間、家で嫌がらせをしました。
2000年6月、勤務先は再び洗脳班を開き、私は再度不当に監禁されました。高齢の父は、私が監禁されていることにショックを受け、心臓発作を起こして倒れました。家族が事情を説明し、私を解放するように求めたので、勤務先は調査員を派遣し、事実を確認した後、担当者を付き添わせ父を病院に連れて行きました。
2001年9月17日、私は仕事中に正大派出所の警官らに連行され、第二留置場に送られ12日間拘束されました。妻は過度な恐怖から胎盤が早期に剥離し、8カ月の胎児が亡くなりました。もしその子が生きていたなら、今20代で、私の老後はこんなにも孤独で悲しいものではなかったことでしょう。
2002年6月26日から7月10日まで、私は再び凌河区の洗脳班に監禁され、70代の両親の世話をする人はいませんでした。
この間、給料はすべて停止され、生活費として月200元しか支給されませんでした。
2002年11月、勤務先は姉に通知し、私を公職から除名しました。
労働教養を強いられた期間中、私は体調不良のため一時仮釈放されましたが、7000元を強要されました。
2004年の夏、私は放浪生活をしている間に再び連行され、労働教養所に送られました。そこで、さらに厳しい迫害を受け、2007年2月15日、ようやく解放されました。
2008年2月25日の朝、私は自宅で再び凌河区公安支局の警官らに連行され、錦州市第二留置場に拘束されました。その後、凌河区裁判所により懲役4年の実刑判決を言い渡されました。錦州南山刑務所と瀋陽東陵刑務所で、24時間監視され、強制労働をさせられ、夜には小さな椅子に座らされ、私の体は迫害により疥癬で覆われ、健康状態は深刻に損なわれました。
私が不当に拘禁されている間、母は悲しみと怒りで心身ともに過度に苦しみ、2009年の旧正月の3日に悔しさを抱えたまま亡くなりました。2010年初め、妻が足を骨折しました。2011年3月、父も息子を心配する中で意識が朦朧とした日々が続き、車の事故で亡くなりました。2012年2月24日に私はようやく解放され、家に帰って嬉しい気持ちで父を探しましたが、どの部屋にもいませんでした。後で兄から「父は亡くなった」と聞かされました。
2022年2月21日、私は自宅で錦州市凌河区紫荆派出所の警官らに連行された後、懲役1年6カ月の実刑判決と3000元の罰金を言い渡され、銀行口座から強制的に引き落とされました。2023年3月1日には錦州南山刑務所に移送されました。刑務所は、私に十分な食事を与えず、激しい運動と作業をさせられました。また、小さい椅子に座らされるなどの拷問も加えられました。
(続く)