文/明月
【明慧日本2025年3月25日】西洋では、『旧約聖書』のヨブの物語がよく読まれています。その理由は、彼の物語は「なぜ神を敬う人が苦しみを受けるのか」という疑問を解いているからです。
『ヨブ記』は『旧約聖書』の「諸書」に収められ、ユダヤ教やキリスト教の各宗派によって正典と認められています。詩で綴られたこの作品は、知恵文学に属しており注目されています。
「ヨブ」という名前は「憎むべき者」という意味です。ヨブの人生における苦難と不屈の精神に関する経験は、この名前にふさわしい解釈を提供しています。
ヨブが生きた時代、イスラエル人の間では悪魔崇拜が流行っていましたが、ヨブはヤハウェ(エホバ、ユダヤ教の神)への純粋な信仰を守り続けました。『ヨブ記』第1章第8節に、その時代に「ヨブほど百パーセント正直な人は地上にいなかった」と記されています。
『ヨブ記』によれば、ヨブは「百パーセント正直で、ヤハウェを畏れ、悪事を遠ざける」人物でした。彼は幸せな生活を送り、7人の息子と3人の娘に恵まれ、豊かな家庭を築き、牛や家畜を多く所有し、多くの使用人を使っていました。ヨブは精神的にも豊かで、善行を愛し、周囲から尊敬されていました。しかし、これら全てが結局、ヨブが試練に立たされるきっかけとなりました。
ある日、ヤハウェが天上でヨブの忠実さに言及したところ、その場にいたサタンは、ヨブが物質的な利益のためだけにヤハウェに仕えている、幸せな生活が奪われればヨブはきっとヤハウェへの忠誠を捨てるだろうと主張しました。ヤハウェはサタンの挑戦を受け、ヨブの体に害を与えない前提で、サタンにヨブの持つ全てを奪うことを許可しました。その結果、何も知らないヨブは次々と不幸に見舞われました。彼の財産は奪われ、10人の子供たちが揃って嵐で命を落としました。
これら厳しい試練を経ても、ヨブは「ヤハウェの名は讃えられるべきだ」と信じ続けました。そこでサタンは、もしヨブの身体を傷つけることができれば、ヨブを神から離れさせることができると言い張りました。ヤハウェはサタンにヨブを傷つけることを許しましたが、命を奪うことは禁じました。
その結果、サタンはヨブに非常に恐ろしい病気をもたらしました。ヨブの体と口から悪臭がして、そのため彼の妻や親戚、友人たちは避けるようになりました。ヨブの妻は、彼がこんな状態でもヤハウェに忠実でいることを見て、「まだ純粋さを保っているのですか、信仰を捨てて死んだほうがマシです」と迫りましたが、ヨブは妻を叱りました。
失敗に失敗が続いたサタンに新たなアイデアが浮かび上がりました。サタンはヨブの三人の友人を使って、いわば「慰める」役をさせました。彼らの名前はエリファズ、ビルダッド、ゾファルです。彼らは最初、ヨブの変わり果てた容姿を見て大声で泣き、それから土を頭にかけて、ヨブと共に地べたに座って、一言も話さずにいました。7日間の沈黙の「慰め」の後、ヨブはついに口を開き、彼らと長い弁論を始めました。
弁論の最初に、ヨブは自分の生まれた日を呪い、生き続ける理由をヤハウェに問い質して、これに対し、エリファズはヨブが神に対して忠実でないと叱りました。エリファズは、正直な人は滅びる運命に遭うことがない、ヨブの苦しみは神からの「しつけ」だと語りました。
ヨブは、自分のうめき声は極限の苦痛を耐える時に誰でも自然に発するものであり、死によってのみ解放を得られる、と述べました。そして、友人たちがわざと自分を苦しめているとヨブは叱りました。
次に、ビルダッドが弁論に参加しました。彼は、ヨブの子供たちがヤハウェを怒らせたかもしれないし、ヨブ自身もそれほど正直ではないとほのめかしました。そうでなければ、ヤハウェはきっとヨブに恵みを与えるはずだと言いました。
ヨブは、ヤハウェは不公平ではない、ヤハウェは人間が思う通りに人間に対して責任を取る必要もないと信じている、自分はただヤハウェに恵みを求めている、と語りました。そして、善行を積むことは本当に価値があるのか、この世には公正な裁判は存在しないと思いました。彼は、なぜ自分がこれほど多くの試練を受けなければならないのか、そして自分が「泥から造られた人間にすぎない」ことをヤハウェに思い出させてもらいたいと願いました。ヤハウェの過去の慈悲を知りながらも、自分が正しいと思っても、自己弁護を続けることがヤハウェの怒りを招くだけであれば、むしろ自分は死を選んだほうがいいと言いました。
ヨブとエリファズやビルダドとのやり取りから、ヨブのように神に忠実な人でも、心身の苦しみが一定のレベルに達すると、周りの人々に理解されたいと思い、神が自分の願う通りに支えてくれるのを切に望んでいることが分かります。
その時、ゾファルも弁論に参加しました。彼はヨブに「自分は無実だと主張しても、ヤハウェがきっとあなたの罪を明らかにすることができます。あなたはヤハウェの考えを察することできますか」と言って、悪を捨てればヤハウェの祝福を再び受けられると助言します。
ヨブは自分の過去の正直な行いと受けた苦痛を知っているため、彼らの言葉を聞いた後、三人の友人を「あなたたちは本当に神の子ですね、死ねば知恵も一緒に滅びます」と揶揄しました。ヨブは自分の正直さを信じて、ヤハウェに自分の願いを聞いてもらうことを切に願いました。ヨブは神の怒りが過ぎ去るまで自分を隠してくれるよう祈りました。彼の主張は、人が死んだら生き返ることができないので、まずは神の怒りを避けるべきだといいます。
第二ラウンドの弁論では、エリファズはヨブの見識が浅いと嘲り、ヨブの神への忠実さを再度軽蔑しました。エリファズは、人間であれ天上の聖者であれ、神の信頼を得ることは不可能だと主張しました。また、ヨブが自己中心的で偽善者で、人を援助する行為は賄賂のような行為に過ぎないと批判しました。
ヨブは友人たちを無知だと感じ、「空虚な言葉で慰めようとすることは、かえって私の苦痛を増すだけです」と言いました。ヨブはヤハウェに訴え、ヤハウェがきっと自分の苦しみを知って、自分のために冤罪を晴らせると確信していました。
弁論はさらに激しくなり、ビルダドは激怒して、ヨブが自らの行いで災いを招き、他人の反面教師となり、結果として子孫が絶えるだろうと警告しました。ヨブは「いつまで私の心を乱し、言葉で私を押しつぶすつもりですか」と聞き返して、誰かが自分のために冤罪を晴らしてくれると信じていました。
ビルダドと同じく、ゾファルもヨブが弁論での発言で自分を侮辱し、非難したと感じました。彼もヨブの苦難は自業自得だ、悪人は神の罰を必ず受けると主張しました。ここまで弁論すると、ヨブは同情される存在から「罪がある」と見なされる悪人へと変わりました。
これに対し、ヨブは「悪人が神の罰を逃れられないなら、なぜ一部の悪人が長生きして豊かな生活を送って、災害が彼らに下していなかったのですか」と反論しました。金持ちも貧乏人もいずれ死にますが、なぜ時には悪人が安らかに死んで、善良な人が苦しみを味わうのでしょうか。
ここまで読んだら、ヨブが悪人ではないが、トラブルや根拠のない非難の前にヨブは自分の正しさを主張し続け、自己反省を拒むため、自分の過ちを見つけることができなかったことがお分かりでしょう。
第三ラウンドの弁論では、エリファズがヨブに対して再び強烈な攻撃を仕掛け、ヨブの過去の行いを悪行として責めました。ヨブが邪悪な人で、飢えた人に食べ物を分けず、孤児や寡婦を虐待し、私生活も自分が主張するほど清廉ではなくて、これがちょうどヨブが現在苦しんでいる理由だとエリファズは述べました。
ヨブを知る人なら、エリファズが指摘したヨブの悪行は事実ではないと分かりますが、ヨブ自身は「自分は完璧な人間ではない」ことに気づいたのでしょうか。いいえ、なぜならエリファズの指摘した問題は全くヨブの実際の状況と異なるからです。
そのため、ヨブは自分を守り、エリファズの不当な非難に対して事実で反論しました。自分のことをヤハウェの前でさらしたい、ヤハウェは自分が正しいことを知っているヨブは言いました。しかし、ビルダドは直ちに「ヤハウェの前には清い者はいない」と反論しました。
ビルダドの見解は実はとても賢明ですが、ヨブには受け入れ難いものでした。この時、ヨブはサタンによってもたらされた激しい苦痛状態にあり、彼が耳にしたのはビルダドの不当な非難だけで、自分の中の不純な部分を冷静に見つめる余裕はありませんでした。
それでも、最終反論でヨブはヤハウェの智慧について語り、それは彼の心におけるヤハウェの神聖さを示しています。彼は、「ヤハウェの智慧は宇宙、地球、雲、海、風など、人々が目にすることができる事物に現れています。これらは全能者の行いのほんの一部であり、全能者の偉大さの一端を示しているに過ぎません。人類は智慧をずっと探していますが、智慧はお金では買えません。ヤハウェだけが天と地の隅々まで見渡し、風の重さが分かり、雨と嵐を支配することができます」と語りました。
ヨブは「ヤハウェを畏れることこそ知恵であり、悪を遠ざけることは聡明であります」と述べました。彼は自分が無罪であると信じ、「私は死ぬまでヤハウェへの忠誠を放棄しません」と宣言しました。
苦難に満ちたヨブは人生を振り返り、かつて神との間にあった親密な関係を取り戻したいと強く願いました。彼は困っている人々を助け、皆が彼の教えを待ち望んでいました。しかし今、彼の名誉は失われ、若者にさえ嘲られるようになり、若者らはヨブの顔に唾を吐き彼を攻撃しました。
ヨブは自分をヤハウェに捧げた者と自認し、主であるヤハウェに自分を裁いてもらうよう求めました。また、自分を非難する人々に、自分の生涯の中から罪を見つけてもらうように求めました。ヨブのこの弁明は、その場にいた三人の友人に言葉を失わせました。
その時、エリフが口を開きました。エリフはずっとこの弁論を聞いていましたが、年長者はより多くの知識を持っていると考えているので、これまで黙って聞くだけでした。しかし、人間に道理を理解させるのは年齢ではなく、理解は悟性によるものです。ここまでの弁論を聞いて、エリフはヨブと三人の友人に対して怒りを感じました。ヨブが「自分を正しいと考える」程度が「ヤハウェを正しいと考える」程度を超えたのを見ました。また、ヨブの三人の友人に対しても、彼らは無知であり、ヤハウェに対して根拠のない探りをしていることに怒りを感じました。
エリフの言葉は熱意に満ちて誠実でした。彼は冒頭に、自分を創造したのがヤハウェであることを認め、次に、ヨブが自分とヤハウェとの関係を正しく捉えていないことを指摘しました。ヤハウェがヨブに一つ一つ答える必要はないにもかかわらず、ヨブはヤハウェと弁論しようとしました。
ヨブが忠誠を保つことは無意味だと言ったことに対し、エリフは「ヤハウェは決して悪事を働かず、全能者は決して不正を行いません。人々がしたことに応じて神は報いを与えます。ヤハウェは極めて公正でありますが、ヨブは自己の正義を過剰に主張しました。知識の不足から軽率な発言をしてしまったヨブに対し、ヤハウェは忍耐で対応しました」と指摘しました。
エリフは、ヤハウェがいかに様々な力を駆使して自然をコントロールするのかを語って、ヤハウェの偉大さを讃えました。ヨブに対して、ヤハウェの壮大な栄光と威厳は人間に計り知れないものだということを忘れないようにと説きました。ヤハウェは神を敬う人に心を配りますが、自分を賢いと思い込み謙虚さを欠く人には関心を示しません。
そこで、ヨブは再びヤハウェに返答を求めました。神様の真の姿は人間には見る資格がないので、ヤハウェは旋風となって降り立ち、威厳をもってヨブに返答をしました。
ヤハウェはヨブに一連の問いを投げかけ、人間の無力さを思い知らせました。「私が大地を創造した時、あなたはどこにいたのですか。地の基礎を置いたのは誰ですか。その時、明けの星は歌い、神の子らは喜び叫びました」。これらはヨブが生まれるはるか以前の出来事です。
ヤハウェはさらに海、雲、夜明け、死の扉、光と闇などについて触れ、「これらは、あなたが生まれた時に知っていたことですか、あなたの長い人生で学んだものですか」と問いました。またヤハウェは嵐、霜、雹、星、雷、雲、稲妻、さまざまな動物についても言及しました。
ヨブは「私は取るに足らない存在です。どうやって答えればいいのでしょう。手で口を塞ぐしかありません」と謙虚をもって認めました。ヤハウェはヨブに正面から向き合うよう命じました。ヨブは自分の考えが間違っていたこと、無知な言葉を口にしてしまったことを素直に認めました。今、彼は悟りの目でヤハウェを見ることができ、「病気を和らげるための塵と灰の中」で悔い改め、以前に言った無知な言葉を取り消しました。
ヤハウェはエリファズと他の二人の友人が虚偽の言葉で彼について言及したことを責めて、ヨブに彼らに代わって祈るよう指示しました。その後、ヤハウェはヨブの苦境を回復させ、彼に倍の祝福を与えました。そうして、ヨブの兄弟、姉妹、以前の友人たちはお土産を持って和解しに来ました。ヤハウェはヨブに倍の牛、羊、ラクダ、ロバを与え、さらに10人の子供を授けました。その後、ヨブは140年も生き、子孫を四代にわたって見ることができ、最後に「満足のいく長い人生を送り」、亡くなりました。
ヨブが亡くなる際、ヤハウェは彼を不憫に思って、「彼を地獄から救い出し、私は彼の命の代価をもう払いました。彼を子供のような柔らかい肌をもって若返らせてください」と使者に命じました。
ヨブの物語から、神様は人間に対して慈悲深く、人間の感情や考えに囚われずに慈悲を施すことが分かります。人間が神様を敬うこととは、その人がどんな状況でも神様の期待に応えられるとは限りません。人は誰でも間違いを犯し、業力は苦しみを通じてのみ軽減されます。そして、人間の予想外の原因も存在します。例えばヨブの話のように、サタンの挑戦や神様の許可により、善人が苦しみを経験することもあります。人が神様への敬意と忠誠を保てば、どんな過程であっても、最終的には自分の品格にふさわしい福を受けるでしょう。
自分が無神論者だと言う人もいますが、では、福の報いを信じますか、または天上の神の存在を信じますか。実際、信じなくても構いませんが、信じないことで生じる結果は自分で負う必要があります。宇宙の法則は客観的に存在し、誰かが信じないために消滅することはありません。
今の快適の生活だけが欲しくて、死ぬ時になるともう何もかも遅すぎると言う人がいます。しかし、「人が死ねばすべてが終わる」という考えが間違っていると分かったら、来世の幸せを守るために、現世をでたらめに過ごすことをしなくなるでしょう。