文/黄双翼
【明慧日本2025年4月17日】厳延年は、漢の時代に名を馳せた酷吏(こくり)で、東海郡の出身です。酷吏とは、法律を威にかざし、人に罪を被せて処罰、処刑する役人のことです。彼が河南郡の太守を務めていた時、冬になり処刑の時期が来ると、彼は各県から囚人を郡に集めて一斉に処刑し、血が川のように流れることがしばしばありました。河南郡の人々は彼を「屠伯(惨殺を施す者)」と呼んでいました。
ある日、厳延年と一緒に年末の祭りを行うために、彼の母親が東海郡から来ました。母親は洛陽に到着した時、ちょうど囚人の処刑に遭遇しました。その場面を見て母親は大変驚き、郊外の旅館で立ち止まり、彼の公邸に入ろうとしませんでした。厳延年は旅館まで母親に会いに行ったのですが、母親は門を閉ざして会おうとしませんでした。厳延年は門の外で帽子を脱ぎ、頭を地につけて長い間謝罪しました。やがて母親は息子に会い、「あなたは幸運にも郡の太守となり、広大な地を一人で治める立場にありながら、仁愛の心で民を教育し、安定をもたらすこともせず、逆に、刑罰に頼って多くの人を殺し、それで威信を築こうとしています。官僚とは民の親のような立場にある人ですが、あなたの行いは本当にそうあるべきです」と彼を叱責しました。厳延年は何度も頭を地につけて謝罪し、自ら馬車を運転して母親を公邸に迎えました。
年末と年始の祭祀が終わった後、母親は厳延年に「悠々たる天道と神々が上にいて、人を殺す者は必ず人に殺されます。私が老いた時に、中年の息子が刑罰を受けるのを見ることになるとは、思いもよらないことです。私は帰ります、故郷であなたのために墓地を準備しに行きます」と言いました。
母親は東海郡に戻った後、厳延年の兄弟や同族の人々に上記の言葉を伝えました。1年余り経って、厳延年は本当に処刑されました。東海郡の人々は皆、母親の賢明さと知恵を称賛しました。
厳延年の死は、彼自身が招いた因果応報です。彼の悲劇は、今日の中国人にとって大きな警鐘でもあります。多くの人が中国共産党に従って法輪功を迫害し、その結果、多数の法輪学習者が命を落とし家庭が崩壊し、中には学習者の臓器が生きたまま強制摘出されるケースもあります。これらの行為を行った人々の罪は、厳延年が犯した罪よりもはるかに大きいのです。なぜなら、厳延年が殺害したのは罪人で、中に非常に悪質な犯罪者もいたかもしれませんが、法輪功の学習者はみな善良な人で、仏の修行をしています。
修煉者を尊重する人はきっと神々の守護を受けて、修煉者を迫害すると、その罪は大きいもので、きっと悪の報いを受けます。歴史上、そのような事例が多くありました。古代ローマの暴君ネロがキリスト教徒を迫害した例や、中国で仏教を滅ぼそうとした「三武一宗」の例では、最終的には迫害を行った君主は自らの命を落とし国も滅び、その報いは非常に厳しいものでした。法輪功を迫害してきた人々に、すぐさま迫害行為を止めて過ちを正せば、神々はあなたの罪を許すでしょう、と伝えたいです。