迫害に対する反省と悟り(二)
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——拘置所での三十数日間

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2025年4月21日】(前文に続く)

 3、慈悲と穏やかな心理状態を保つこと

 これまでずっと、大法弟子を迫害する警察を思い出すと、彼らはとても哀れだと思っていました。結局、人の仕事は自分で選べるものではなく、彼らを済度すべきだと感じていました。しかし、今回実際に警察と向き合った時、自分がそのような心理状態ではないことに気づきました。心の底から彼らに抵抗感を抱いており、その抵抗感は本能的なもののように感じました。

 さらに、私は今回初めて直接警察に向き合ったため、どう対応すればよいのか分かりませんでした。ただ、明慧ネットでの交流を思い出し、同修たちがどのように警察に協力しなかったかを考えたり、公義フォーラムで「警察の考えに沿って話してはいけない」と書かれていた投稿を思い出しました。ですから、警官に質問されたとき、「それは事件とは関係ありません」と答えました。

 結局のところ、私は修煉者らしい穏やかな心理状態を持っておらず、行動も同修たちのやり方や言葉をそのまま模倣しただけで、自分自身が修煉者としてどうあるべきかを心から理解していたわけではありませんでした。当然、私の言葉は邪悪を震え上がらせたり、警察の善念を呼び覚ましたりするどころか、逆に彼らを非常に怒らせ、場の雰囲気は一時的にとても険悪になりました。実際のところ、いろいろな面から考えると、あの日私は家に帰ることができたはずでしたが、自分自身で自分を送り込んでしまいました。一つには、前述のように根本的に旧勢力を否定していなかったこと、もう一つには、自分の心理状態が完全に修煉者としての状態ではなかったことがあります。

 その後の30日間以上、私はずっと警察との関係を正しく捉えることができませんでした。法理では、警察を対立する存在として見てはいけないことは理解していました。一つには、彼らも救われるべき存在であり、たとえ救われなかったとしても、それは彼ら自身が淘汰を選んだ結果であること。もう一つには、大法に対立する資格を持つ者など誰もいないということです。しかし、実際に警察を見ると、心の中でその抵抗感を拭い去ることができませんでした。

 後になって考えてみると、もし私が別の場所で用事を済ませるとしたら、例えば銀行のロビーにいるマネージャーに手続きを頼む場合、私はどうするでしょうか? まず、私は笑顔で彼に呼びかけ、少し雑談を交わすでしょう。そして、大法弟子としての善良さや美しさを自然に示すはずです。では、なぜ警官に面して、それができなかったのでしょうか? 私は彼らを呼ぶことさえせず、「警官」や「所長」といった呼び方をすることが邪悪を認めることだと思い込んでいました。しかし、もしそのとき私が師父が『転法輪』の中で修煉者に求めている「平素から慈悲の心と、穏やかな心理状態を保たなければなりません」という教えに従っていたならば、私は事態をここまで悪化させることはなかったでしょう。

 別の視点から見ると、私たちは警察が大法弟子を迫害することが間違っていると知っています。しかし警察にとっては、案件を処理することが職務であり、ただこの案件を扱うべきではないものの、少なくとも「銃口を1センチ上げる」くらいの配慮はすべきでした。では、私たちが彼ら個人への尊重や仕事への理解を示しつつ、この案件をどうすべきか、と真相を伝える場合と、彼らに反発し対立する態度で真相を伝える場合では、どちらが彼らに受け入れられやすいでしょうか? 私たちは、「衆生が真相を受け入れること」を最優先に考えるべきではないでしょうか?

 二、その他に悟ったこと

 1. 苦しみを恐れず、正念で対処する

 37日が近づくにつれ、部屋の中の常人たちは毎日事件の行方について話し合っていました。「もし釈放されなかったらどうするのか?」と心配する声もありました。部屋の管理人は、「もし37日経っても出られなかったら、他の部屋に移されることになる。そこは環境が非常に厳しく、人も多い。しかも、最低でも半年は裁判の判決を待たなければならず、その間は出られないかもしれない……」と言いました。

 ある日、私も出られないのではないかと心配になり、気持ちがとても沈んでしまいました。理性では「これは感情に過ぎない。流されてはいけない」と分かっていましたが、それでもこの感情の支配から逃れることができませんでした。私は拘置所に入って以来、一度も涙を流したことがありませんでしたが、その日の昼食時は必死に涙をこらえました。昼休みの間、私は「なぜこんなにも気分が悪いのだろう?」と自問しました。あれこれ探してみると、結局「苦労を恐れている」のだと気づきました。本当にこの過酷な環境で長期間過ごすことになるのが怖かったのです。

 しかし、苦しみを恐れることもまた人心です。私は「無為」の境地で心を動かさずにいるべきです。心を動かさず、恐れないことは、邪悪の按排を否定することと何の矛盾もありません。言い換えれば、私は「大法弟子だからこそ邪悪の按排や迫害を否定する」のであり、それは「逮捕を免れるため」でも「苦しみを避けるため」でもありません。

 さらに言えば、私は師父の按排に従うべきであり、すべては師父が決められることであって、自分で考えるべきではありません。もし私が人心を動かしてしまえば、それが師父の邪魔をしてしまいます。それはまるで、旧勢力が独自の考えを持ち、師父の意図を妨害し、大きな試練を引き起こし、多くの衆生を滅ぼしてしまったのと同じです。これらのことをはっきりと理解できたとき、私も恐れがなくなり、すべてを冷静に受け止めることができるようになりました。

 2. 功能で姿は消えないが、正念で邪悪を取り除くことはできる

 以前、私は『封神演義』に登場する多くの神仙が「土遁」や「水遁」を使っていたことを思い出しました。また、真に修煉している老婦人が、手で指すだけで錠を簡単に開けることができた話もありました。では、なぜ同修たちは迫害を受けたときに、功能を使って脱出することができなかったのでしょうか? ある日、法を暗唱しているうちに、その理由が分かったように感じました。それは「私たちは常人社会の秩序を壊してはならない」からです。

 同時に、私はこうも考えました。もし真相を伝える過程で悪人に捕まった場合、私たちは功能を使って相手を動けなくし、その場から脱出することができるかもしれません。なぜなら、それは影響範囲が小さいからです。しかし、もし私たちが監視カメラの前で堂々と姿を消してしまったら、どうなるでしょうか? もちろん、誰も大法弟子を迫害できなくなるでしょう。しかし、それは「人間社会における迷い」を破ってしまうことになります。それでは、生命が大法に対してどのような本当の態度を持っているかをどうやって見極めることができるでしょうか?

 したがって、神通力を使うとしても、このような方法ではなく、「別の空間で人間を操っている邪悪な生命を取り除く」ことこそが、正しいやり方なのです。人間は邪悪に操られるべきではなく、師父の按排に従うべきなのです。

 3. 人間の思考に囚われず、佛・道・神の基準を目指す

 私は中学生の頃(1999年の迫害以前)を思い出しました。あるとき、数日間まぶたがひどく腫れ上がったことがありました。友人は「私だったら学校を休む」と言いましたが、私は内心とても嬉しかったのです。「これは師父が私の業を取り除いてくださっているのだ、なんと素晴らしいことだろう!」と考え、「病気になった」とはまったく思いませんでした。なぜなら、その当時はまだ年齢が若く、固定観念が形成されていなかったからです。師父がおっしゃることをそのまま純粋に信じていたからです。

 私はこう理解しています。私たちは迷いの中にいるため、目に見えるものはすべて幻であるということです。また、私たちは佛や道、神の基準に向かって修煉すべきだと考えています。たとえ私たちが人間の中で修煉していて、人心が残っているとしても、佛、道、神の基準をもって自分を絶えず律するべきです。では、佛、道、神は「毎日心配して、果たして(拘置所から)出られるのだろうか? いつ出られるのだろうか?」と悩むでしょうか? もちろんそんなことはありません! それならば、なぜ私はこのような思考の妨害を完全に排除できないのでしょうか?

 結局のところ、それは本当の自分ではなく、後天的に形成された「常人の観念」に過ぎないのです。本当の私は師父の法を正すことを手伝うために来た存在であり、邪悪の迫害に直面したときは、邪悪を取り除き、否定するためにここに来たのです。

 この間、私はたびたび「本当に自分はここから出られるのだろうか?」と疑念を抱くことがありました。そのような考えが浮かぶたびに、それを否定するようにしていました。「すべては師父が決めることだ」と自分に言い聞かせていました。しかし、この否定はどこか受動的で、消極的なものだと感じていました。つまり、この思考が時には湧き上がり、それを完全に根絶することができず、ただ否定し続けるしかなかったのです。「なぜ私はこの心配を完全に手放せないのだろう?」と悩んでいました。しかし、今ようやく理解できました。

 つまり、「私がそう考えてしまい、考えそのものが間違っている」のではなく、その考え自体が「そもそも私のものではない」のです。それは後天的に形成されたものであり、さらには旧勢力によって強制的に植え付けられたものなのです。

 これらに気づいたとき、私は神聖で厳かな感覚と抑えきれない喜びを感じました。同時に、私は強く感じました。私はここを出るべきだと、この1〜2日以内に出るでしょう。すると、本当に2~3日後に私は拘置所を出ることになったのです。

 その翌日の早朝、私は夢を見ました。夢の中では、たくさんの学生がいる部屋に私もいて、ある先生が何かを私たちに伝えていました。その瞬間、私はハッと悟り、自分に向かってこう言いました。「なんだ、結局私だけが師父について下りてきたんだ。私は誰々で、◯月◯日生まれだ」。そして目が覚めました。その夢を思い返してみると、夢の中で言われた名前も誕生日も確かに自分自身のものだったのです。この時、私はこう思いました。これは師父が私に啓示をくださったものです。昨晩、自分は正しく悟ることができました。結局、自分だけが師父について下りてきたのであって、それ以外の考えはすべて自分自身のものではなかったのです。

 まとめ

 私たちに人心があること自体は問題ではありません。大切なのは、自分の人心と向き合う勇気を持つことです。 たとえすぐにその心を取り除けなくても、たとえ一度で物事をうまく成し遂げられなくても、何度でも努力し続けます。これこそが修煉者の状態です。「人心を取り除くこと」に重点を置き、純粋な心で神聖なことを行うべきなのです。

 結局のところ、やはり修煉の問題です。もし私たちが本当に着実に修煉することに目を向け、形式にこだわらなければ、迫害も大幅に減るのではないでしょうか。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/3/27/444412.html
 
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