「情」への執着に気づき そこから解き放たれる
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文/フランスの大法弟子  

 【明慧日本2025年4月25日】修煉を始めた初期のころから、私は自分が情に深くとらわれていることに気づいていました。だからこそ、それを手放すべきだと強く感じていました。子どもたちはすでに成人していますが、何度も、子どもへの執着のために苦しみ、心が張り裂けそうになることがありました。その当時、私の心の中にはいつも「家庭への、特に子どもへの執着を手放さなければならない」という声がありました。

 師父はこうおっしゃいました。「親族の情に執着するならば、必ずそのために疲れ、まとわり付かれ、魔がさし、情の糸をつかんで一生をかき乱されるのですが、年を取って、悔いてももう遅いのです」(『精進要旨』「修める者の忌」)

 この経文を初めて読んだとき、私はすぐにこの問題に気づきました。しかしそれでも、「情」は次々に湧き上がってくるのです。最近になって、私はこの情を正面から見つめる決心をしました。発正念のときに、それをしっかりと見極め、徹底的に取り除こうと思ったのです。

 私には、すべての執着がまるで積み重ねられたブロックのように見えました。非常に高く積まれていて、不安定で、いつ崩れてもおかしくない状態でした。その光景を見て、私は「これは慎重にやらなければ」と思いました。まだよく見ていないこれらの執着を一気に崩してしまえば、あちこちに散らばって、私に干渉してくるかもしれない。私は「ちゃんと見極めるまでは消し去ってはいけない。一つひとつ確認してから、順に取り除くべきだ」と思いました。それが、当時の私にとって空間場を清める最も効果的な方法に思えたのです。

 私はその「情」を見つめ始めました。それは執着の山の一番上にありました。その中には、母性愛、子どもに悪いことが起きるのではという不安、そして恐怖がありました。私にとって、表面的に現れてきたこれらの情だけでも、克服できない難しいものであると感じられましたが、さらに近づいて見てみると、その奥にはもっと大きな心が隠れているように感じました。

 長年にわたり、私は家庭内の衝突に向き合うのを恐れてきました。家庭内の葛藤は、私にとってとてもつらいものでした。しかし今回は、これらの執着にきちんと向き合い、取り除こうと私は決意しました。

 内に向かって探し、何度も考えを巡らせ、同修たちの修煉体験文章を読み、交流を重ね、法を学び、発正念を続けた結果、私は衝撃を受けました。これらすべては単なる「母性愛」ではなく、もっと大きな「私心」だったのです。不幸が降りかかることを恐れ、子どもや家族が苦しむことを恐れていたのです。実際には、私は他人の苦しみを気にしているようでいて、もっとも気にしていたのは「自分」だったのです。「自分がこの状況に耐えられるかどうか」だったのです。

 それを理解したとき、私は驚き、恥ずかしさを感じました……。けれども、その「恥ずかしい」という気持ちをさらに見つめると、そこにもまた「私心」がありました。「優しく慈愛に満ちた母親」というイメージをもう保てないことに対する恥だったのです。

 私はようやくこれらすべての心は、黒く、汚れていたものであると悟ったのです。

 最近、私はある同修の交流文章を読みました。その中で、同修はこう語っていました。「自分はもしかすると最も劣った大法弟子かもしれない。でも、それでも大法弟子であることに変わりはない」。私はこの言葉を何度も思い出しました。とても心を打たれたからです。同じように、私も自分が至らない弟子だと感じています。それでも、私はやはり大法弟子なのです。では、どうすればよいのでしょうか? 大法弟子として、何をすべきなのでしょうか?

 気持ちが落ち着いたあと、私はこの執着を取り除かなければならないと思いました。しかしその瞬間、私はまた自分のために考えていることに気づきました。心から周囲の人のことを考えていたのではなく、「この執着をなくせば子どもに問題が起きず、それによって私はもう彼らのことで心配しなくて済む」と思っていたのです。

 このとき初めて、私は自分の多くの行動が「私心」から出発していたのだと分かりました。たとえば、スーパーでレジに並んでいるとき、私はよくレジ係と少し会話をします。仕事中も、私は誰に対しても丁寧に接します。清掃員にも親切にしています。でも、私は本当に彼らのことを気にかけているのでしょうか? それとも、ただ「大法弟子はいい人だ」と思われたいだけで、そういう理想的な姿を演じているのでしょうか?

 こうして文章を書いている今も、私は胸が高鳴り、狡猾な「私心」を前にして涙があふれそうです。でも、私は大法弟子です。打ち負かされたりはしません。必ずこれを取り除いてみせます。

 両親は私に礼儀を教え、人の立場に立って考えることを教えてくれました。これは社会における良い教養です。しかし私は大法弟子です。常人社会の基準、たとえ良いものであっても、それは私の基準にはなりません。私の心は本当に正しい位置にあるのでしょうか? それとも、ただ外見を取り繕っているだけなのでしょうか?

 このとき、私は再び「私心」を強く突き刺されるように感じました。

 これは、私の修煉における大きな障害でした。私は数日間かけて、発正念の中でようやくはっきりとそれを清めることができました。最初は、この「私」という心を感じることができませんでした。つかみどころがなく、よくわからなかったのです。でも後になって、それはまるでゴツゴツした大きな石のように感じられ、身体がとても重苦しくなりました。ようやく、私はその清理に取りかかることができました。私はこの執着を完全に、余すことなく取り除き、逃げ場のないように根絶する決意をしました。

 また、この経験から私は修煉について一つ悟ったことがありました。私は大法弟子だからこそ、こうした執着を見つけ、それを消すことができるのです。もし修煉していなければ、自分の中にこれほど否定的なものを見ても、きっと絶望してしまい、立ち直れなかったでしょう。これは本当に貴重な機会であり、私の修煉の道を妨げてきた執着を見極め、消し去るためのチャンスなのです。これができるのは、大法弟子だけです。

 これを悟ったとき、私はようやく、自分が従うべき基準は常人よりもはるかに高いものだと理解しました。

 以前の私は、「一つひとつ執着を見つけ、それから順に取り除こう」と思っていましたが、それではうまくいかないことが今は分かります。なぜなら、それぞれの執着は互いに関係し合っていて、注意しないと、それらはまるで蜘蛛の巣のように絡み合い、私たちを包み込み、息苦しくさせるのです。しかも、ある執着はより攻撃的であるようにも感じました。しかし私は、それらを根絶する決意をすでに固めました。

 私は「修は己にありて、功は師にあり」(『轉法輪』)という言葉を深く信じています。どんなに困難なときでも、師父はすぐそばにいてくださると感じます。情であれ私心であれ、それらは私の中で最も根深い執着かもしれませんが、私はそれらを取り除くとすでに決意しています。まだ認識できていない問題も含めて、すべてです。

 師父の慈悲深い救いに心から感謝いたします。そして、同修の皆さんの温かい傾聴に感謝いたします。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2025/4/4/492268.html
 
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