修煉の苦しさについて
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 (明慧日本)以前から修煉とは苦しい事だと言われてきており、私もそういうことだと思い込んでいました。しかし、よく考えてみると実は修煉とは苦しいことではなく、かえってこの上なく幸福なことだと分かりました。これは現次元での私の真実の感想で、書き出して同修と交流したいと思います。

 修煉が苦しいというのは、二種類にほかならないと思います。つまり心を修める時に感じる苦しみと、毎日煉功をすることの苦しさです。常人社会で奪い合ったり、騙し合ったり、個人のわずかな利益のために人を傷つけたりすることに比べれば、心を修めることの苦しさはそれほどではありません。しかも法理を悟った修煉者が執着心を取り除く時、内心から感じるその喜びは、言葉では言い表せません。また次元が昇華するに従い、低俗なものが自分に対して作用を起こさないときの状態は、本当に美しいものです。煉功の苦しさについて言いますと、だるい、しびれるといった身体上の苦痛にすぎないのです。これは常人の病気の苦しさと比べると、どれほど楽なことでしょう! 「常人は苦しみの中から解脱することができない」ということを、学法を通じて分かりました。それには全てに因縁関係があるもので、高次元まで修煉して初めて解脱することができるのです。修煉は生命の根本的な問題です。

 正法時期の大法弟子として、私はこの上なく幸せを感じています。私たちは個人修煉とともに衆生を救い済度するという使命を背負っていて、これはどれほど光栄なことでしょう 師父は、正法時期の大法弟子に威徳を樹立する機会を残してくださいました。真相を伝える中で、世の人々が「三退」を選択してくれる時、私は非常に嬉しく思い、一回一回心から師父に感謝しております。修煉を始めてからの2年間、ずっとこのような感覚で修煉を続けてきました。ですから私は、修煉は苦しいことではなく幸せなことだと思います。

 さらに、偉大なる師父が私たちを見守ってくださり、修煉を指導し、高次元へと導いて下さいます。何の苦しみがあるというのでしょうか? なぜ一部の同修は修煉が苦しいと感じるのでしょうか? いったいどこが苦しいでしょうか? それは時間の推移の中で、自分がその次元の法の要求に到達できず、心性の向上が緩慢で、自分が師父の要求をしっかり行なっていないために焦りだし、感じる苦しみです。真相をしっかり伝えていないことと、定時の発正念を見逃したことで後悔し、苦しみを覚えています。これらは全て自分の修煉上の苦しみで、精進できないために生じた苦しみです。

 同修たちが迫害されるとき、それは相当な苦しみではないかと思う同修もいるでしょう。確かにそれは血の涙が出るほどの苦しみです。今回の迫害を私たちは認めません。私が思うにはその苦しみは修煉者たちが受け入れるべきではない苦しみです。修煉は厳粛なもので、大法には慈悲と威厳がともに存在しています。師父は末法時期の私たちに、法輪大法、性命双修の功法を伝えてくださり、本当に千辛万苦(せんしんばんく)され、弟子と衆生のため巨大な業力を肩代わりしてくださいました。師父のその苦しみと比べると、個人修煉の苦しみはたいしたものではありません。師父の法をしっかり覚えておきましょう! 「圓満となって佛果を得る、苦を嘗めるをもって楽と成す」洪吟』「その心志を苦しめる」

 以上は私の浅はかな悟りで、不足の部分は同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/15/250575.html)     更新日:2011年12月25日
 
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