トロントで神韻宣伝を行う中で向上する
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文/カナダの大法弟子

 【明慧日本2018年5月8日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は2009年に修煉を始めて以来、ずっと神韻の宣伝に携わり、パートタイムからフルタイムまで、今は全力で神韻宣伝をしています。2016年の夏から、トロントの神韻宣伝チームのメンバーは少し変わりました。協調人は突然ネット上で神韻を宣伝する仕事を私に担当させました。次に、ネットで神韻を宣伝する中での修煉体験を皆さまに報告します。

 市場調査を行ない、ネットで神韻の宣伝をする

 協調人の任命を受けた最初、私はあまり嬉しくありませんでした。今まで私は新聞広告と屋外広告を担当して、経験や人脈を蓄積して、仕事に習熟してきました。その仕事を他の同修に引き継いで、教えるのは時間がかかり、同時にネット宣伝のやり方を私に教える人がいなくて、一から自分で模索しなければなりませんでした。

 私は人と付き合うような仕事が得意です。交渉や演説や、これまでずっとそういう仕事をやってきました。毎日綺麗な洋服を着てお化粧をしてから出かけて、常人に神韻の素晴らしさを伝えました。突然、外出もせずにパソコンを相手に仕事をするなんて、最初はたまりませんでした。毎日大量の数字や報告書を見て、神韻の視聴者はどのような年齢層か、どうしてAの方法はBの方法より効果があるのか、どうしてCの方法はDの方法よりコストが低いのか、どんな時間帯にどんな広告をすれば見る人が多くなるのか、などを分析しました。データ報告を見て頭がいっぱいになると、どうして私はこんな仕事を担当させられたのか、「適材適所」ということを協調人は分からないのか、と心に不平不満が生じました。

 そして、師父が説かれた言葉を思い出しました。「去年のチケット販売が困難だったことの理由を皆さんは知っており、さらに一部の学習者は集まって正念を発していました。正念を発したのはもちろん、人を救うことを阻む邪悪を取り除くためであり、実は邪悪はすでにそれほど多くはありません。邪悪を取り除くのはもちろん良いことですが、たくさんの人が正念を発して作用がないのでしょうか? あります。しかし、一部の人は正念を発するとき、何を発しているのでしょうか? 座って手を立てていますが、考えは正念ではありません。『今年はなぜこのようにしないといけないのか? 去年は良く売っていたのに。なぜ私にここで正念を発するようにと要求したのか? なぜ私をチケット販売に行かせないのか? なぜ主流社会をやらないといけないのか? こんなに高くて誰が買うのか?!』という具合です(皆笑って)。皆さんは今聞いて可笑しいと思っていますが、非常に普遍的に存在する現象なのです。分かっていますか? 発したこれらのものは全世界で粘々としたものを形成し、少ない邪悪で皆さんを妨害してしまいますが、皆さんは取り除くことができず、直接大法弟子のチケット販売と本当に正念を発している大法弟子を妨害し、皆さんはそれを取り除くことができません」[1]

 私の考えは粘々としたものを放っており、早く消去しなければならないと、やっと目が覚めました。愚痴る心を抑えて、協調人がこのように手配したので無条件に協力しよう、と心を改めました。

 マーケットを調査するため、私は数人の同修を誘って高級団地に行って、主流社会の住民の生活習慣や情報入手のルートを調べました。ネットワークを使用する人数が年々増えて、情報の受発信のルートも様々です。住民に神韻の宣伝ビデオを見せたら、半数以上の人はとても良い反応を示しました。ネットで30秒の神韻宣伝ビデオを放送することは効果があり、新聞やテレビに広告を出すよりもコストが低いのです。

 ネットで神韻宣伝を行なうことは今後の新しい傾向になると分かっていますが、ネット上の世界はとても乱れ、あらゆるものが溢れています。どうやってその中から救うべき人と出会えるのでしょうか。以前、インターネットで広告を出すことを私は少しやりましたが、全面的にネット広告で神韻を宣伝するに当たって、本当に何の経験もありませんでした。どうしたらよいでしょうか。

 私たちの小チームは市場調査のデータに基づいてゆっくり模索しました。最初に、広告を少量出して効果を試し、効果の良い方法をピックアップすると、だんだん軌道に乗りました。しかし経験不足のため、一部の方法ではどうして効果がないのか、なかなか原因が分かりませんでした。

 クリスマスまで2~3週間しか残っていないとき、私が担当する55歳以上の年配者でできたシニアグループは、広告へのアクセス数がとても大きいのですが、しかしチケットを購入した実績がありません。私はとても焦りました。55歳以上の年配者はふつう、現地の神韻視聴者の主体を成すはずですが、このグループに向けて私は多くの時間をかけて工夫したのですが、どうしてチケットを買ってくれないのでしょうか? ネット広告に毎日毎日多くの金を投入しているため、私の心はとても苦しかったのです。自分に何か執着心があって衆生を救い済度する道を遮っているのか、と内に向けて探したのですが、見つかりませんでした。

 その日の午後、長く私に連絡していないチケット販売拠点の協調人が電話をかけてきて、販売拠点に人手が足りないので、30分でも1時間でもいいから、すぐに我が家に最も近い販売拠点に行って、手伝ってほしいと言いました。家に閉じこもって気が狂いそうになっていた私は、すぐに快諾しました。

 チケット販売のために出かける前、自分を清浄な状態にして、頭を空にさせるのは、長期にわたり私が身につけた習慣です。そのため、販売拠点に向かう途中、私の心はだんだん落ち着いてきました。突然、「求める心」という言葉が脳裏に浮かびました。見つけました! 私には「求める心」があって、55歳以上のシニアグループが早くチケットを買ってくれることを求めていました。一方、それは衆生を救い済度することなので、求めることは間違っているのでしょうか?

 今まで、販売拠点に行く前に私は修煉状態を整えて、清浄な心を以て販売に臨むようにしてきましたが、家でネット広告の仕事を始めてから直接顧客と接触しないため、仕事をするときの心構えを私はあまり重視せず、何かの執着心がチケットの売れ行きを妨げたのかと車の中でずっと考えていました。深く掘り下げて考えると、私の「求める心」は衆生を救い済度するためではなくて、自分のメンツのためだったと発見しました。ネット広告の効果が見えない時期に私は焦って、本来、シニア層は最も神韻チケットを買ってくれる有力な顧客なのに、シニア層向けのネット広告の効果が出なければ、同修の皆さんは私の仕事をどう評価するだろうか、自分のメンツは丸潰れだと思っていました。

 拠点に着いた途端にある年配者が駆けつけて、早く宣伝ビラをください、私はチケットを買いたいと言いました。彼はネット広告を見てとてもチケットを買いたいのですが、パソコンを上手に操作できないので、広告の画面でどこをクリックしてチケットを買えるかわからないというのです。彼の意見を聞いたおかげで、年配者に対して分かりやすいチケット購入案内をすることの大切さを痛感しました。例えば、「チケットを購入したい方はここをクリックしてください」と広告の最後に入れて、目立つところに置いたほうが効果的です。また、お年寄りはネットで購入するより電話をかけて購入することを好むので、広告にはチケット販売の電話番号の案内も必要でした。

 短い2時間の間に、何人かの年配者を受け付け、55歳以上のシニア層向けにどのようにネット広告を製作するかについて、私は貴重な経験を得ました。家に帰って、私はすぐシニア年齢層向けの広告を改善しました。その後の数日、一日のチケット売上枚数は倍増したそうです。

 神韻宣伝をめぐって、常人の技能を学ぶことは必要ですが、それに束縛されたら駄目だと思います。技能は修煉の中の「功能」と同じく、功能が出ると、意念がそれを指揮します。そのために、技能より自分の心を清めることがもっと大事です。神韻宣伝に携わる数年間、多くの良いアイデアは、私が頭を空っぽにして心を清浄な状態にした後に湧いてきたものでした。

 自分を放下し、チームに協力する

 カナダに「ネット上の神韻宣伝」小チームがあって、私はチームの協調人になりました。私を除いて、ほかのメンバーはみんな常人の会社でフルタイムの仕事をしているので、学法と交流は平日の夜もしくは週末に設けています。私たちは週に2回、学法と交流の時間を決めました。決めた当初、みんなはまだそれほど忙しくないため、比較的みんなは時間通りに学法と交流をしていました。しかし12月に入るとみんなは忙しくなって、だんだんと学法時間に遅れたりして、数週間にわたって参加しない人もいました。

 学法と交流に欠席する同修に対して、私は別途その同修に電話して交流の内容を伝えなければなりません。欠席者が多ければ多いほど、別途連絡の時間も増えます。自分もとても忙しくて、毎回の交流に議事録を作って、また交流後の進捗状況もフォローしなければならず、ちょっとイライラしました。私は実は単独行動が好きで、協調の仕事があまり好きではありません。しかし今年私が小チームの協調人になったのは、きっとそれなりの理由があります。個性が強く、指摘されるとすぐ機嫌が悪くなる(口に出さないが、心の中で怒る)などの不足を改めさせようと、師父は私を協調人にさせられたと私は悟っています。

 ある日、学法交流によく参加しない同修のAさんは、自分が本当に忙しすぎて、私に手伝ってほしいと言ってきました。私は広告の対象を設定して、Aさんは広告を作ってネットにアップするように2人の分担を決めました。私が担当する仕事を終えて、Aさんに送信すると、数日経って、Aさんは「私の英語はあまり上手ではなく、広告の作成をあなたが代わりにしてくれないか」と相談してきました。Aさんはカナダに来てから年数がまだ少なくて、英文の広告を作成するのは確かに彼の得意分野ではありません。そう考えて、私はまた広告作成を引き受けました。そこで、私は広告対象を設定して、広告のシナリオも英文で書いた後にAさんにメールで細かく報告して、早くネットにアップして効果を観察してくださいと頼みました。

 2日経ってからAさんは広告用の映像が見つからないので、映像を送ってほしいと連絡してきました。私は本当に腹が立ちました。映像は共用フォルダーに入れたことを交流のときに何回も言っており、他のメンバーはみんな使っているのに、Aさんはどうして今さら映像の置き場所もわからないのでしょうか。私は広告の対象を設定して、広告のシナリオを作り、その後のやるべき事をメールに細かく書いてAさんに送り、また彼に映像を送って説明もしなければならず、そんな時間があれば倍の仕事も完成できたはずです! 神韻は衆生を済度する仕事で、時間を無駄にしてはいけません。しかしAさんは本当に忙しい人で、神韻に関する連絡もいつも22時~23時にやっと私に電話をかけることができるのです。そこで、私は彼に協力しようと心を決めて、前段階のいくつかの仕事を私が全部やるので、彼は広告の効果だけを確認すればよいとAさんに話しました。

 私は広告をアップして、数日後、いくつかの広告の効果があまり良くないことに気づいて、確認してみたら、故意の悪評が書かれており、2日経っても削除されていなかったのです。私は心でAさんに大いに怒りました。悪評はネットに存在する時間が長ければ長いほど悪い影響を出すので、チケットを買おうとする衆生が騙されたらどうしますか? 衆生を救い済度することはもともと容易ではなく、前段階のことを私が全部やって広告の効果を観察することだけを頼んでも、悪評を素早く削除するぐらいの簡単なこともできないなんてと、私の怒りは頂点に達しました。

 私がAさんに電話をかけるとつながらなくて、メッセージを送っても返事をもらえません。Aさんはどう見てもこの仕事に心を込めていないようでした。それならば、彼を使わずに自分でやろうと私は自分に言い聞かせました。私はかんかんに怒りながら、すべての書き込みに目を通して、削除すべきものを削除し、返事すべきものに返事して、数時間過ぎました。広告の結果をチェックするのも簡単な仕事ではなくて、こんなに時間かかると実感しました。

 その時、Aさんから折り返し電話をもらいました。会社に急な出張を命じられたため、過去数十時間はずっと移動中で、電話も圏外状態でネットにも接続できなくて、出発する前に私に連絡する余裕もなかったのです。悪評を全部削除したと伝えたら、Aさんも「ごめんね、こちらは忙しすぎて」と謝ってくれました。

 過去数時間、忙しくしていたおかげで私も冷静になり、Aさんもたいへんだなと思うようになりました。Aさんを「ネット上の神韻宣伝」チームに誘ったのは、彼が技術者でネット関連の仕事に慣れていると考えたためで、彼の勤務時間や英語能力を考慮に入れていませんでした。また、簡単に見える小さなことでも、自ら行なうと、見た目より遥かに複雑だということを再度痛感しました。私はAさんに「大丈夫、あなたが忙しい時期に広告の効果を観察するだけでよい、前段階の仕事は私に任せて下さい。2人がふだんちゃんと連絡を取り合って、ちゃんと協力すればよい」と言いました。それからの数カ月の間、同修の間で良い協力関係を築いてからの良い結果も私は実感できました。

 反応の良い広告をネットにアップすると、視聴者からたくさん良いコメントが書き込まれると同時に、わざと悪く書くような悪評も増えます。そのため一時、影響の良い広告がアップされるのを見たら、また悪い人たちが邪魔しに来るのではないかと心配します。学法するときに「困難を大きく見れば見るほど、問題が難しくなり、相は心から生じるのですから、問題はますます厄介になります。相は心から生じるという言葉にこの意味もあります。なぜなら、あなたはそのことを重く見ており、自分を見下したからです。それをたいしたことではないと思い、人を救うという大きなことなので、行なうべきことをして、心を落ち着かせ、気に障ること、気に入らないことにぶつかったり、聞いたりしても気にせずに、正々堂々と行なうべきことを行なえば良いのです。邪なものに妨害されず、それに動かされなければ、良くない要素は自分のところから生じることはなく、邪悪は微々たるものになり、皆さんは大きくなり、正念が強くなるのです。本当にいつもこの情況です」[2]を読みました。

 そうですね、どうして心配しますか、私は正々堂々と行なうべきことを行なえば良いのです。それから、私は心を落ち着かせて広告をアップするようになりました。悪い書き込みがあるとき、削除するか、若しくは第三者の立場から良いコメントを書き込みます。みんながとても忙しくて悪評を直ちに削除できないために数時間も残した場合もありますが、そのとき、悪評の下に、神韻を観たことのある視聴者は神韻を絶賛するコメントを書いてくれたことも多々あります。

 私たちは行うべきことをしっかりと行なって、本当にとても忙しくて悪評を直ちに削除できない場合、衆生に悪評を見せないように師父にご加持を願いましょうと、ある同修は私に言いました。私たちの心がますます純粋になるにつれて、ネット広告の効果もますます良くなってきました。

 結び

 瞬く間に、修煉を始めて神韻宣伝に携わって、なんと8年も過ぎました。振り返ってみると、だらけるとき、どうやって心性を高められるかと困惑するときが多々ありましたが、「師父は我々のために既に最も良いものを手配された」と信じる心は動揺したことがありません。修煉者として喜ぶとき、辛くなったとき、怒るとき、つまり心が動じたときは、そこに修めるべきもの、除去すべきものが必ずあります。修煉の中で、私心を除去して師父が我々に求めておられることを最優先にして、自分の願望の前に置き、何をやっても衆生を救い済度するという出発点を忘れてはならない、と私はよく自分に言い聞かせています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法・十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」

 (2017年カナダ法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/28/351750.html)
 
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