夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(七)
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 【明慧日本2019年9月5日】上古三代の天命観は、天および天命が最高の存在であると強調しましたが、しかし、古代の人々が王権と天命との関係についての認識は次第に変わっていき、特に、殷が滅び、周が興るのにつれて、伝統的な天命観に明らかな変化が現れました。

 殷の時代においては、帝王の天命思想では、天命が不変的で変わらないものだと考えていました。しかし、殷朝末期になると、このような伝統的な考えには変化の兆しが現れました。『尚書・西伯戡黎』の記載によると、殷朝末期、殷の紂王は酒色に溺れ、残忍・残虐で、民衆の恨みが沸き上がりました。西部の周国はその首領の周の文王の統治によって日に日に強くなり、勢力が次第に中原地域まで拡大し、殷政権が大きく脅かされました。大臣の祖伊はとても心配して、紂王に「天子、天はすでにわが殷に大きな使命を授けることを中止されました……。これは我々の先王が私達後人を見守ってくださらないことではありません。ただ、大王として、あなたは淫逸(いんいつ)(※1)し、懈怠(けたい)(※2)し、自ら天との関係を絶ち切り、だから、天は我々を見捨てたのです」と諫言しました。しかし、祖伊の言葉を紂王は聞くどころか、逆に傲慢で身のほど知らずに、「ああ! 俺の運命はとっくに天によって決まっているのだ!」と言いました。この言葉から、君臣二人は共に王朝の統治が天命によって決定されると考えているが、紂王は天命が永遠に自分に味方にして、変わらないものだと盲信していました。一方、祖伊は天が天子の振る舞いによって、その人の統治を支持するか否かを決定すると考えていた事が分かります。つまり当時、一部の殷の人は天が永遠に加護してくださるという神話について、すでに疑い始めました。

 紀元前1046年の初め、周の武王は軍隊を率いて遠征し、殷の紂王を討伐しました。僅か1カ月で、西隅に崛起した小さな周国は大きな殷朝を滅ぼし、天下の王となりました。勝利がこれほど早く来たのは誰も予想しませんでした。しかし、周武王と周公はその勝利に酔いませんでした。『史記』の記載によると、武王は商を滅ぼしてから、鎬京(こうけい:武王の建国から東遷までの周の都のこと)に戻り、夜はなかなか眠れず、弟の周公が訪ねて来て、どうして寝つけないのかと聞くと、武王は「天が永遠にご加護してくださるかどうかがまだ分からないため、眠れないのだ」と言いました。

 殷は天下の王で、万邦を統治する王朝でした。周の人から見れば、殷王朝は「天下の殷」、「大国の殷」で、自分達はただの小さな国でしかありませんでした。しかし、このような天下無敵の「大国の殷」は、牧野の戦い(※3)で滅んでしまいました。これは小さな周国にとってあまりにも驚いた事でした。もし、天下を統治するのが天命の現れだとすれば、それなら、殷と周の政権交代はまさしく当初殷朝にあった天命が今、周の人々の手に回って来たのではないか? これは天命が移転できるという事ではないか? もし、この理論が成立するならば、いつか周朝も天命を失い、天下を失う危険がある。どうすれば、このような悪運を避けることが出来るか? どうすれば、天命を永遠に保つことが出来るか? これらの事を考えれば、周朝の統治者たちは当然安心して寝られないでしょう。

 そのため、殷が滅び、周が興ってから、天命が移転できるかどうかについて、もし、移転するならば、その根拠とは何か、どうして天命を失う王朝があれば、天命を得る王朝もあるのか、そして、いかにして天命を保つことができるのか等について、武王と周公は深く考えました。特に周公は夏、殷の滅亡した教訓を深く反省した上で、王権と天命との関係について新たな思考と解釈を加え、上古の天命観にさらなる内包を注ぎ込んでくれました。

 ※1 淫逸(いんいつ:みだらな楽しみにふけり怠けて遊ぶこと

 ※2 懈怠(けたい:なまけること。おこたり

 ※3 牧野の戦い(ぼくやのたたかい)は、古代中国の紀元前11世紀に、殷の紂王と周を中心とした勢力が牧野で争った戦い。周軍が勝利し、約600年続いた殷王朝は倒れ、周王朝が天下を治めることになった。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/9/390467.html)
 
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