夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(十一)
■ 印刷版
 

 【明慧日本2019年9月10日】天命は最高の存在である天から与えられるもので、また、天の意思によって移り変わることも可能であると周人に見なされました。しかし、だからと言って帝王は何もせずに、ただ天命からのご加護を待っているだけでいい訳ではありませんし、勝手にやりたい放題をしても行けません。それなら、「永遠の天命を受ける」にはどうすればいいでしょうか? それについて、周人は「天命無常」、「徳ある人だけが佑助される」のを強調した上で、さらに「徳を以て天に配する」、「徳を重んじて民を守る」との思想を提示しました。天が天を敬う帝王だけを加護してくださるならば、帝王は天に対して恭(うやうや)しく、忠実に指示通りに行なわなければなりません。天を敬うことの最も重要なのは徳を兼ね備えていることであれば、帝王は「敬徳」、「明徳」、「崇徳」でなければなりません。要するに、「徳」に於いて工夫をしなければならなりません。さもなければ、早くも天命を失ってしまうだろうと周人は考えました。

 ここから分かるように、天命は「徳」と言う礎に構築され、天の意思と帝王の行動は結び付かれており、帝王に徳があるか否かは、天命が授かるか否かの根拠となるのです。つまり、帝王の個人的徳行と政治的道徳性は政治の安定に非常に重要である、と周人はすでに意識しました。これは周人の天命観が前人より進歩したところでした。

 学界の研究によれば、「徳」が文献の中で頻繁に現れたのは周朝からだったと言います。『尚書・周書』を開いて見れば、ほとんどの文章に「徳」についての記述があり、「敬徳」、「明徳」、「崇徳」などの言葉も度々提起されました。しかし、「徳」とは何か、その内包とは何か、それについて、周人はあまり明確に定義していませんでした。しかし、当時の文献から、「徳」と言う言葉には少なくとも、帝王の道徳性と個人の品行、そして、帝王が民衆に施す徳政と仁政の二つの意味合いがあると読み取れます。

 いわゆる「徳を以て天に配する」、「敬を重んじて民を守る」と言う言葉も、帝王が自ら道徳を修め、道徳を以て私欲を抑え、民衆に道徳模範を確立すること、そして、帝王が道徳を以て民衆を教化すること、さらに、帝王が民意を理解して尊重し、民衆に仁政、善政を施し、彼らに関心を持って、彼らの生活を保障し、改善することを強調しているほかなりません。それは「民を守る」本来の意味ではないでしょうか?

 周人から見れば、殷の紂王は徳のない典型的な人でした。武王が紂を討伐した時、各諸侯に「今、殷王の紂は女のいう中傷言葉を信じ、自ら天との関係を絶ち切り、天、地、人の正道を壊し、親族や兄弟たちを疎遠し、その上、先祖から伝わって来た音楽を見捨て、低俗で雅楽を攪乱する音楽を作り、女の機嫌を取った」と言いました(『尚書・泰誓』)。『尚書・詔告』の中にも、彼が徳を重んじないことを批判し、そして、彼は生活が堕落し、苛斂誅求(※1)をし、忠臣を殺害して佞臣(※2)を重用し、法律を乱用して、管理がずさんだったと記されていました。

 紂王と反対に、周の創始者である文王は高徳な典型でした。周公は周朝が天命を受けたのは、文王が素晴らしい品徳を持っているからだと言いました。『尚書・無逸』の中で、彼は「文王が秩序よく人民を安定させ、土地を開拓させた。文王は善仁で謙虚で礼儀正しく、民心を静め、孤児と未亡人に恩恵を施した。そして、朝から晩まで、食事を取る暇もないほど働き、民衆のために全身全霊を尽くした。文王は猟や遊びに時間を費やさず、恭しく政務に励んだ」と文王の美徳をたたえました。そして、彼は成王に「王位を継承したら、文王を手本にするよう、くれぐれも自分を放縦しないよう、享楽に溺れないよう、遊びや猟に没頭しないよう、紂王のように酒色にふけないよう、民衆のために全力を尽くすよう」と戒めました。

(続く)

 ※1 苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:税金をむごく厳しく取り立てること)
 ※2 佞臣(ねいしん: 口先巧みに主君にへつらう、心のよこしまな臣下)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/14/390461.html)
 
関連文章