夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(十)
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 【明慧日本2019年9月9日】天命が転移する根拠は帝王が天を敬うか否かによるとするならば、天命を長く保つには、天を敬わなければなりません。しかし、天はいったい何を根拠にして、天を敬うか否かを判断し、どうすれば天を敬うことと言えるでしょうか? 

 周人から見れば、帝王が徳を持っているかどうかは最も重要なことでした。帝王に徳があれば、それは天を敬うことで、天より命を受けることができますが、帝王に徳なければ、それは天を敬わないことで、天命を失うことになるだろう、と彼らは考えました。ですから、周公は「天命は移り変わるものです。天は誰にも親しくならず、徳のある人だけを助けます」と言いました(『尚書・蔡仲之命』)。このような考え方は、天の意志を帝王の行動と結びつけ、天と人間との間に対応関係を形成させました。これは周人が天命観に対するもう一つの大きな貢献でした。

 もしかすると、一部の人は「周人は天命を論じる時、天を敬うことを強調し、徳があることも強調する。両者は矛盾していないか?」と疑問を持たれるかもしれませんが、実は全く矛盾していません。なぜならば、徳は天が帝王に対する要求で、帝王として合格するかどうかを判断する基準でもあります。そのため、徳があることは天を尊敬する具体的な現れとされ、天を敬うことは徳があることに帰結するとされました。言い換えれば、「徳」は天と人間の両者を結びつける絆です。そして、徳の重要性を強調することによって、天を敬うことは抽象的なものではなく、十分中身のあるものとなったからです。

 周人から見れば、夏と殷がかつての天命を失ったのは、他でもなく、夏桀と商紂が天を尊敬しなかったからです。一方、彼らが天に敬意を払わない理由は、正しく彼らに徳がなかったからです。そのため、彼らは天からのご加護を失いました。『尚書・周書』によれば、周朝初期の成王は洛陽に遷都しようとして、先ず召公(※1)を視察に送りました。召公は周公を通して成王に、「我々は夏と殷の失敗を繰り返しては行けません。彼らは徳を重んじず、早くも福運を失いました。夏と殷が頂いた天命の長さ、そして、その国運がさらに延長できるかどうかについて、私には詳細にはわかりませんが、彼らが徳を重んじず、それがゆえに、早くも自らの天命を失ったことだけは、はっきりと分かっています」と上書しました。『尚書・多士』によると、周公は殷の遺民たちに「天は大きな使命を徳政に励まない人物には与えないでしょう。世の中で滅亡した小さな国を見ても、大きな国であっても、すべて天に対して尊敬の意を持たないため、天に処罰を与えられたからです」と言いました。周人の価値観では、徳があるか否かは、徳を重んじるか否か、それはその国の存亡にかかわる最も大事なことだと判断しました。

 それでは、徳は周人の価値観の中でどうしてこれほど重要なのでしょうか? 『尚書・金縢』によれば、周の武王は殷を破って病に伏しました。周公は璧(※2)や圭(※3)を持って先王に、武王の代わりに自ら王になろうと祈り、その祈祷文を金縢(※4)に入れて保存しました。その後、武王は全快しました。しかし、武王が亡くなってから、成王は流言(うわさ、デマ)を信じ、しばらくの間、周公のことを疑って冷遇しました。結果、天は怒り、「稲妻が走り、雷が落ち、禾が倒れ、樹木も折れた」と周公のために不平を鳴らしたということでした。周人から見れば、天は最高で全能な存在だけではなく、天は道徳性を持っており、しかも、愛と憎しみの区別がはっきりしているのです。言い換えれば、徳は天の内在的本性と本質でもあります。ですから、人間の世界には「不徳」のような出来事があれば、天は必ず不吉な兆しを下して人間に警告します。そして、天に選ばれ、佑助(ゆうじょ:たすけ)される帝王は、必ず高徳な人物であることを容易に想像できるでしょう。

 (続く)

 ※1召公(しょうこう)は、西周の政治家。太公望や周公旦と並ぶ、周建国の功臣の一人である。周初で最も長く活躍し、文王・武王・成王・康王の四代に仕えた。

 ※2璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。 多くは軟玉から作られた。 形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。

 ※3圭(けい)中国古代の玉器の一種で、権威を象徴した。

 ※4金縢(きんとう)大切な文書を保管する金の帯封をした文箱。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/12/390470.html)
 
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