夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(五)
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 明慧日本2019年9月3日】上古三代の人々から見れば、天意と天命に従うことは天に対する感謝と畏敬の念を持ち、天に祈り求めることと同じで、それは天からご加護をいただく前提条件でもあると考えました。そのような考え方は上古三代の人々の天命観の基本要素でした。

 それなら、どうすれば天意と天命の按排に従うことが出来るでしょうか? それは天意と天命をまず知らなければならないことでしょう。一方、占いは上古三代の人々が神とコミュニケーションを取り、天意と天命を知るための最もよく使われる手段の一つでした。

 『史記・龜策列傳』の中で、このような内容が綴られていました。「昔より、賢明な君主が国家を建て、事業を興そうとした時、卜筮(ぼくぜい:占い)で成功を助けるのをしないことはあるでしょうか? 唐尭(とうぎょう)(※1)と虞舜(ぐしゅん)(※2)の以前については記述ができませんが、夏、殷、周三代の王朝の創立を見れば、すべてが占いの吉祥の兆(※3)を根拠にしたことが分かりました。禹(う:夏朝の創始者)は塗山氏の娘を娶(めと)るのを占って吉を得たゆえに、そこから、代々伝わる夏王朝を作りました。簡狄(かんてき)は燕が落とした卵を呑んで契(せつ:商王朝の創始者)を出産し、占いの兆が吉を示した故に、殷王朝が興りました。農業の神とされた后稷(こうしょく)が占って吉を得た故に、周国の君主はついに天下の王となりました。君主が難しいことを決断する時、占いの結果を参考にして最終的に決断を下すことは、不変的で伝統的なプロセスでした」

 殷王朝を例にすれば、祭祀、戦争、飲食、宴会、気象、農業、収穫、狩り、旅行、災害、ご加護、奴隷の逃亡等の難事について、殷王は殆どすべての事について占いをし、毎日占いをし、その兆によって吉と凶を判断しました。彼らにとっては、占いはとても神聖なことで、占いをする前に必ず斎戒沐浴をしなければなりませんでした。

 殷の人々から見れば、占いの結果は天意であり、上帝の命令であるため、それに反して行動してはならず、その通りに実行しなければなりません。もし、それに反して行動すれば、それは天意に背くことになり、不吉な結果につながると考えていました。

 『尚書・大誥』の記載によると、周武王(周朝の創始者:殷を滅ぼし、周を立てた)が亡くなった後、殷の紂王(ちゅうおう:殷の第 30代の最後の王)の息子の武庚(ぶこう)は、周武王の兄弟の管叔鮮(周の文王の三男)、蔡叔度(周の文王の五男)、霍叔処(周の文王の八男)とぐるになって、淮夷(古代中国東方の異民族の総称)と連携して兵を起こし、周に反乱を起こしました。しばらくの間、周王朝は内憂外患の危機に陥りました。その時、摂政王の周公(しゅうこ)(※4)は多くの意見を押し切り、毅然として出兵して東征し、反乱の平定に踏み切りました。出征する前、彼は文王(周朝の始祖)が残してくれた大宝亀を使って占いをし、結果がすべて吉の兆でした。それでも、一部の諸侯と臣下は依然として武力で反乱を平定する決定に反対しました。彼らは周公に「難し過ぎます。人心も落ち着いていないし、問題は王宮と臣下の家に起きており、しかも、一部の人は我々が尊敬する先輩と兄弟です。彼らを討伐すべきではありません。王よ! どうしてこの占いの結果に反して行動できないでしょうか?」と中言しました。

 周公は、「天は文王を表彰してくださり、この小さな国を繁栄させてくださいました。文王は占いを通じて、天から授与してくださった大きな運命を受けました。今、天は彼の臣民に私たちを助けさせておられ、しかも、私達は占いを通して天のこのご意図を知りました。あーあ! 天の明確なご意見に対して、人間は畏敬の念を示さなければなりません。あなたはやはり私たちの統治を強化するように協力してください」と言いました。そして、周公は引き続き、「天は私たちの文王に幸運を下しました。私たちはどうして占いの結果を無視し、どうして天のご意思に従わず、文王のご意思に従わず、我々の素晴らしい国土を守らないでいいでしょうか? まして、本日の占いの結果は吉ですので、私は必ず各諸侯を率いて東征します。天命は間違いがありません。卜辞(ぼくじ)はその点をはっきりと説明してくれました」と言いました。

(続く)

 ※1 唐尭(とうぎょう) 中国神話に登場する君主。五帝の1人。 暦を作り、無為の治をなした。 儒家により神聖視され、聖人と崇められた。

 ※2 虞舜(ぐしゅん) 中国神話に登場する君主。 五帝の1人。儒家により神聖視され、堯と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。

 ※3 吉祥の兆 漢字の「兆」は、元々は象形文で、「きざし」(兆候)を意味していた。動物の骨や亀の甲を焼いて占う亀卜(きぼく)の時に、骨や甲に生じる亀裂の形に象り、占いまたはきざしを意味していた。この亀裂の形によって、「兆」の字が作られた。

 ※4 摂政王の周公(しゅうこ) 周朝の王族。本名は姫旦(きたん)、周公旦ともいう。文王の子、武王の弟。武王を助けて殷(いん)を滅ぼし、武王の死後は幼少の成王を助けて政務を執り、周の支配を確立した。東方を征討して洛陽に都し、礼をもって封建制度の規範とした。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/7/390465.html)
 
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