夏、殷、周上古三代の天命観について考察する(八)
■ 印刷版
 

 【明慧日本2019年9月6日】前人と比べれば、周人の天命観は主に四つの革新的な側面がありました。まず、「天命恒常」と言う考え方から、「天命無常」、「命は常なし」と言うものに変化しました。

 夏と殷の帝王は天命が永遠不変なもので、自分がいったんそれを手に入れれば、失うことがないと考えました。しかし、歴史の移り変わりはそうではありませんでした。

 先ず夏朝を見ましょう。夏朝末期、夏の桀王は極悪非道で、徳行が墜落しました。『帝王世系』によると、一回、伊尹は桀王に諫言し、「王は臣下達の意見を聞き入れず、亡国の日はもう遠くないでしょう」と言いました。しかし、桀王はそれを全く気にせず、「おまえはまた妖言を用いて人を惑わすのか。俺には民がいることは、空に太陽があるのと同じなようなものだ。太陽がなくならなければ、俺も滅亡しないのだ」と笑い飛ばしました。しかし、間もなくしたら、桀王は殷の太祖湯に敗れ、亡国の君主になりました。それは歴史上有名な「湯革夏命」でした。「革」と言うのは取り除く、変えると言う意味で、「命」は天命のことです。「湯革夏命」と言うのは、つまり、天が夏王に与えた天下を統治する使命を回収し、そして、殷の湯王が天意に従って、夏の桀王の天命を取って代わったという事でした。

 次に殷朝を見ましょう。夏の桀王と同じように、殷の紂王も天命が不変的で、永遠に自分を味方にしてくれると考えました。その結果、殷の紂王も亡国の君主となりました。天命の栄光を受けた王朝が天命を失い、普通の国に降格するのは、「墜厥命」と言い、普通の国は天命を授かり、天下を統治する王朝に昇格するのは「受厥命」と言います。殷が滅び、周が興ることはまさしく殷が天命を失い、周が天命を授かる過程でした。

 要するに、夏の代わりに殷になったのも、殷が滅んで周が興るのも、いずれも「天命恒常」と言う伝統的な観念を徹底的に覆すことでした。この現実の前に、周公はこれまでの考え方を一新し、大胆に「天命無常」と言う新しい概念を提起し、つまり、天命は不変的で変わらないものではないことを提示しました。

 周の成王(せいおう:周朝の第2代の王)が即位した後、康叔(※1)は反乱を平定するのに功績があるため、衛君に封じられ、古都の朝歌に赴任しました。就任する前、周公は彼に「天命は不変なものではなく、変わるものだ。この忠告をしっかり心に刻みなさい」と言いました。

 殷の旧臣達に対し、周公は天命が夏から殷、そして周へと移り変わる歴史を繰り返して話しました。『尚書・多士』の記載によると、周公は彼らに「天は享楽を制止したが、夏の桀は享楽に溺れました。天は彼に戒め教え、忠告したが、桀はそれを聞かず、依然と放縦しました。結果、天は厳しい罰則を下し、夏の天命を廃止し、あなた達の祖先の湯王に桀王と取って代わらせました。湯王から帝乙(ていいつ:殷朝の第29代王)まで、殷の先王達は誰でも徳政を行なうよう力を尽くし、祭祀を謹んで行ない、天意に背くことをせず、天の恩澤に合わせて行ないました。しかし、その後の紂王は天に尊敬の意を持たず、天意と民意を顧みないで、酒池肉林(※2)の楽しみにふけりました。そのため、天は彼を加護しなくなり、災いを殷に下しました。我々周国は天命に佑助され、天の威厳ある旨意を遂行し、王者の処罰を執行し、殷朝の天命が天によって廃止されたことを宣告しました。我々のような小さな国が殷に取って代わろうとしたのではなく、それは天が天命を悪徳の人に与えず、天は我々に協力してくださったからです」と言いました。

 天命が夏から殷へ、そして周へと移り変わったとするならば、天より命を受けた周は同じ失敗を繰り返すことがあるのでしょうか? 周公はこのような可能性を排除できないと考えました。『尚書・君奭』の記載によれば、彼は召公(しょうこう:周の政治家)に、「天は亡国の災いを殷に下しました。現在、殷の人々は彼らの天命を失い、我々周はその天命を受け継ぎました。しかし、周の王業が永遠に続くことも、そのような宿命から逃れることも断言できません。もし、周の子孫が民をしっかり管理できず、先王のように天を敬う伝統を継承しなければ、彼らも永遠に天命を失うことになるでしょう」と言いました。

(続く)

 ※1 康叔(こうしゅく:生没年不詳)は、衛の初代君主。周文王の九男で武王の同母弟。

 ※2 酒池肉林(しゅち‐にくりん:池のように酒をたたえ、林のように肉をかけ並べ、ぜいたくをきわめた酒宴)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/8/10/390468.html)
 
関連文章