着実に修煉して「我」を無くす
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文/中国大法弟子

 【明慧日本2013年7月6日】長い間、自分は真に修煉しており、精進していると思いながら、なんとなく自分の人心がずっと強く表現されている気がしていました。特に自我の要素が深く根付いているようで、時々でてきます。どんな良くない心でも無くさなければ、それと対応している世界の衆生も、大法の基準に符合しないため淘汰されると私ははっきりと分かっています。最近、師父のご啓示もますます感じられ、色々なことをよく分析してみたら問題だらけでした。

 たとえば、30年余りに連絡していなかった同級生が突然連絡してきて、中に一人は局長に就任しているそうです。私は電話を受けてから、「私の同級生が局長になったんだよ」と嬉しげに言い、周りも嬉しく感じました。しかし、この時「貴方にはメンツがあるね」と隣から話が飛んできました。話を聞いた私は警戒し始めました。「この顕示心とメンツの背後には何かあるでしょう。それは『我』ではないでしょうか」もっと深く掘り下げてみると、「我」の後ろには、またたくさんの人心があります。普段、同級生との飲み会で話をする時、「あなたの同級生で一番偉い官職はなんですか」と、私はよく質問しました。なぜこのような質問をするのでしょうか? 衆生は皆が平等ではないでしょうか。時には、警察に嫌がらせを受けた時にも「あなたたちの所長の誰々、局長の誰々とも知り合いだよ」と相手を威嚇します。自分は普通の人ではない、貴方たちは身の程を知りなさいというメッセージを伝えたく、自分の正念を以て相手を救い済度する気が全くありませんでした。

 昼ごはんの時に、同修である妹が台所で料理を支度していて、私は「お疲れさん」と言いました。妹は「ここには指導者はいらないよ」と言い、私は「いいえ、何もしていないよ」と言いました。妹は「いいえって? 偉そうに立って、指導者が視察しているように見える」と話しました。急に自分の「我」が深く隠れていることに気付きました。この「我」はずっと私と伴っており、修煉してからも離れていません。私はどこまでも喋ったり、評論したりして、口を修めていません。同修との交流の時にも、よく相手の話の腰を折って話したりします。長くなると、同修はいつも「あなたが先に話しなさい」と言ってしまいます。一部の同修は「あなたはよく修めているので、理性的な部分を喋って欲しい」と言います。私は口では謙虚に答えながら、心にとても嬉しく思いました。実は良し悪しは修めて現れたもので、誰々が話して良くなるわけではありません。また、私は見下す態度も強いです。交流の時に知らず知らずのうちに他人のことに言及し、まるで授業のように喋ってしまいます。特に身内以外の同修との人間関係は、なかなか上手くなりません。強い観念をもって、これらの人が精進していないと思い込みます。そして会う度に「どれだけ学法しているの? 煉功を忘れていないよね? 真相も伝えていますか? 精進しましょう」と学校の先生のような口調で喋ります。

 母は多くの教育を受けていませんが、たくさん苦を舐めて確実に修煉しています。私は毎回、実家に戻った時に母と対面で座って「修煉はどうですか? 分からないことがありますか」と聞きます。しかしいつものように、話している途中で母親に嫌われます。私は母の悟性が悪いと思い込んで、師父の言うことを聞かないと、いつも母に説教します。しかし母は「貴方はしっかり修めればよい、まだまだですよ」と反発します。

 ある日、母が松花粉(漢方薬)を食べているのを見て、これだけ修めているのに薬に頼るなんてと思いました。話をしている途中で、母に止められました。「もう分かったよ。貴方だけがしっかり修めればよい」 私は何回も考え直しても、自分のどこが悪いかがわかりませんでした。それから私は明慧週刊を取り出して、中の内容を明確に読んであげようと思いました。さらに「今回こそ分かってくれるでしょう」と強い念を加えました。しかし、途中で母に拒否されて「誰が正しいの? 大法が正しいでしょう」と言われました。私は大変戸惑いました。「私は法理に基づいて多くのことを話していて、母はあまりできていないのに、なぜ母を説得できないのか? しかもいつも母によく修めていないと言われるのだろうか」

 夜寝る前に、私は深く自分のことを探しました。次第にたくさんの問題があると分かりました。まず人を助ける中で、自分を修めるということが分かっていませんでした。何かの心をもって人を助けてあげることは、一つのレベルです。母を助けようと思っても、無私無我で母のためではなく、自分が母より良くわかっていることを表現し、善の力がなかったので、人の心を打つことができません。しかも私がいつも母の不足ばかりを見て、交流の時に発した物質は、かえって母を気持ち悪くさせました。ここまでわかって、私は悲しく思い、自分は母より劣っていると分かりました。

 母は80歳を越えて、修煉前には文字さえ読めなかったものの、今は師父の法を朗読できて、消業のときに数日寝ずに昼間、法を続けて学習していました。さらに隣近所の人に真相を伝えたりしています。母は消業の間につらくても煉功し、立たずに座ったままで抱輪(第二式)をしていました。これだけ精進しているのに、さらにどこまで要求しようとしているのでしょうか。私はわかりました。それから再び母を見ると、母は親切で優しく、精進している人だと思い、心を一つにして一緒に交流できました。

 昨日、私は小さい椅子を持ってきて、母のそばに座り、落ち着いてたくさんの修煉上の体験を交流しました。急に、十数年来、自分がこのように母と心からの交流をしたことがなかったと感じました。母はもう松花粉を食べなくなり、食べるとかゆくなり、自分が悪かったと話しました。また、正念をもって様々な病業の難関を乗り越えた事実を聞いて、本当に母はよく修めたと認識しました。

 先日、明慧ネットの文章『明慧ネットに投稿する体験』を呼んで大変啓発されました。文章の簡潔さと内に向けて探した分析および無私無我の境界をとても感じました。翻って、私も数年来よく明慧ネットと正見ネットに投稿していて、大体採用され、時々トップページに使われます。しかし、時間が経つにつれて、私の「我」が膨張して、自分が平凡ではないと時々思います。ある天目が見える同修に、私がいついつ誰々で、文化界の有名人だったとの話を聞いて、余計に自分が偉く思いました。しかし、文章を書くことを利用して修煉するのではなく、反対に書いたら自分は向上したと思い込みました。自分が文章書くことと次元の突破を一緒にして、代償を払ったと勘違いました。

 大法からたくさんのものを得て、師父からたくさんのものを授けられました。しかしこのすべては、私がよく修煉して、旧宇宙の「我」を無くし、人間界の物を洗って天国に戻るためです。しかし私は頭の中で、すべて「高い所から降りた、使命が大きい、威徳が大きい、果位が高い」と考えています。少しでも大法のことをしたら、すぐに自分がどこどこまで突破したと欲張ります。「宇宙体系の最終的な大きさですが、一兆層の巨大な宇宙を一つの範囲とし、一兆の範囲を一兆の兆に並べ、一兆の兆を一つの空気の分子とし、会場のいたるところにこのような粒子があり、これほど多くの宇宙でも宇宙のある空間の目立たない小さな粒子に過ぎません。法を正す中で、私は最後まで進んだとき、生命の形式も下の次元の生命が認識するようなものではないことに気づき、昇華した法理は低次元の神でさえ理解できなくなり、あの境地とあの状態に到達しても、これも宇宙の一つの塵芥に過ぎないと分かったのです」(『二十年説法』)

 新宇宙の巨大天体の一つの塵芥、一粒になってもすでに莫大な福なのに、まだ何を放下できないのでしょうか。この最後の最後になって、私は法に要求された基準に達していないことに焦っています。しかし、私はいつも気になっている「我」の根が、すでに小さくなったと感じました。私は周りの同修にこう話しました。「同修がどんなプロジェクトを行なっても、私は絶対に一番良い物を用いて圓容してあげます。黙々と、自我を堅持せずに相手に無理をさせません」

 最近の体験ですが、同修と分かち合いできればと思います。ご慈悲に指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/1/3/267306.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/1/30/137296.html)
 
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