なぜ精進しないのか?
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年7月10日】私と同修は修煉の最後のところで精進できず、しかも下に落ちている現状を発見し,どうしてこのような状況が現れたのかについて考えました。以下は最近、私自身が体得したことを皆さんと交流します。

 一、なぜ、精進できないのか

 師父は「修は己にありて、功は師にあり」[1]と教えてくださいました。宇宙の中で、人間は無能なものですが、一面では最も貴いのです。人には修煉の願望があるからです。私達は師父の助けがあってこそ、修煉ができます。そうではなければ一切はただの空想です。

 もし、師父をしっかりと信じなければ、師父の言われる通りに従うことはできず、このような修煉は、物事に深く取り組まず、表面的なものとなります。

 勇猛精進できるのは、師父のご加持と自分が先天に持っている根基の作用があるからです。ただ、一旦本当に本質に触れると、その人は向き合いたくなくなるのかもしれません。

 師父はどんなときでも私達を助けてくださいます。しかし、私達が修煉すべきところは絶対に自分で達成しなければなりません。そうではなければ、修煉とは言えません。

 多くの人は法の中に自分がよいと思った一面を探しています。例えば、修煉は大法弟子に災難の回避や幸福をもたらしますが、修煉の本質は昇華して、すべての人間のもの、欲望、好きなもの、あるいは人の観念を放下しなければなりません。生まれ変わるとは何でしょうか。自分の内面から変わらなければ、その修煉は上辺だけのものになり、円満とは言えません。

 しかし、内面から変わることは決して簡単なことではありません。まず、千百年に形成された人間の理は私達の思考の中で揺るぎなく深いのです。私達の以前の本性は「私のため」を基礎としているので、多くのことをやった同修でも、残酷な迫害を経験した同修でも(迫害を経験することは法の中で深刻な認識があるからではない)本当に徹底的に人のものを放下したとは限りません。

 しかし、私達が最初降りて来た時の一念は純粋で、衆生を救うと誓い、大法弟子になれたのです。私達の当時の一念は新しい宇宙の特性の一歩でした。新しい宇宙の特性は「私のためのもの」ではなく、他者のためのものです。

 このような誓約を持って私達は一歩一歩降りてきました。師父はずっと私達を見守ってくださり、私達が大法弟子になるために、私達には見えないいろいろなことをして、誓約を果たす基礎を作ってくださいました。現在は一つ一つの実践と実修の中で、「私のため」の本性を新しい宇宙の標準である、「他者のため」に変えているのです。

 人間が全力でやっても出来ないのは、人間の状態だからです。私たちは「神」の状態に達しなければならないので、要求はさらに高くなります。すべての考えが法に符合しなければなりません。誰もが大法に同化しなければなりません。

 私達も知っている通り、人が病気になる原因は表面でみれば潰瘍や炎症です。ミクロでみれば気が通じていないのです。もっと深く見ればそこに黒い気があり、さらに深く見れば、もっと深い空間の中に悪い霊体があります。では、なぜこの悪い霊体があなたの空間に存在するのでしょうか。それはあなたに「黒い業力」の場があるからです。なぜこの悪い場があるのでしょうか? それはあなたが以前悪いことをしたからです。ではなぜ悪いことをしたのでしょうか? それはあなたに「私の心」があるからです。最終の原因はこの「私の心」です。この「私の心」はとても高い空間まで貫いていて、私達の生命の本性にまで融合しています。

 この最も表面的な不正な状態を変えようと思えば、必ず私達は「私のため」という古い観念を変えなければいけません。あなたが内心でこの「私のため」を固守していれば、表面を正すことは不可能です。

 精進できない原因は人の欲望、名利、観念を放下していないからです。これが多くの困難を乗り越えた同修が最後まで精進できない原因の一つと私は考えます。

 二、どのようにさらに精進するか?

 修煉者にはまず、自身を高めたい、悪い状態を変えたいという気持ちが必要とされます。そうでなければ、一歩も踏み出すことができません。師父は「その心を正そうとするには、まずその意を誠にすることを、修煉者は覚悟しなければなりません」[2]とおっしゃいました。このような誠意がなければ、それは口でいうだけです。自らを欺き人をも欺く結果は、人を害し己を害してしまうのです。

 そして、苦を恐れないと覚悟しなければなりません。あなたは「私は修煉したいのですが、苦しみに耐えたくありません」というのでは、修煉したいと思っているだけです。私達は矛盾が生じる中で主意識を修煉しています。あなたは安逸を求めています。それは修煉したくないことと同じです。欲望を切り捨て、観念を転換することはもちろん苦しいのです。人を救うことは大変です。修煉者の誰が苦しくないというのでしょうか。

 業力だらけの人間は神になりたくても、苦しみに耐えたくないというのは愚かで無知で、妄想です。決意とはなんでしょうか? それは過去と決別する心です。あなたはだらだらとしていて、曖昧であればどうやって修煉しますか?

 また思想の中で自分の退路を残してはいけません。大法弟子には退路がなく、修煉の成功の道だけです。そうでなければ、後の結果は恐ろしいのです。

 あなたはどこへ逃げるのですか。あなたが常人の中で良い人になっても、自分の誓約を果たさないのであればそれは罪なのです。あなたの修煉状態がめちゃくちゃでも罪なのです。それはあなたが師父の期待に背いて、あなたが救うと誓った衆生への期待に背いたからです。

 川の流れに逆らって舟を力いっぱい漕いでも、少し力を緩めると千尺も後退してしまいます。修煉は努力しなければ後退するのです。修煉は適度に、いい加減にできることではありません。そして修煉はなおさら待ってはいけません。前進し、少しのことでもあなたは一心に力を入れなければなりません。少しの功を伸ばすのもあなたが本当に心性を高めることが要求されるのです。

 時間は緊迫しており、機縁は得難く、私たちは精進するしかありません。他の選択はないのです。

 最後の最後になるほど、さらに肝心で、同修たちが全員勇猛精進し、共に勝利の対岸に到着するよう希望します。

 注:
 [1] 李洪志先生の著作;『轉法輪
 [2] 李洪志先生の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/18/330161.html )
 
関連文章