文/中国の大法弟子 駱駝
【明慧日本2020年10月8日】子供の頃に幼く無知だった私は、親の愛情を恩着せがましく思い、勘違いして反抗的になることさえありました。そのせいで親がいつも憂うつで気落ちし、悲しんでいることが多く、生きるのにもすでに疲れている様子の親に対して、私は思い煩うことが増えていきました。この時、祖父母はいつも「あなたはもっと親のことを考えたら、どうなの? わがままを言うのではありません!」と、よく諫(いさ)められました。
修煉するにつれて正念がますます強く冷静になり、理知で判断する上でますます分別がつくようになると、自我という狭い範囲から跳び出し、ふと気がつくと、今まで大法の要求から遠くかけ離れ、自分はこんなに駄目だったのか、意気地のない私は、師父の慈悲なる苦しい済度に全く応えられず、師父にご心配をかけていました。師父は私のために多くのことを耐えられ、私のために多くの力を尽くしてくださいました!
よく「子供は親の最愛の人」であるとよく言われますが、どの大法弟子も師父の最愛の弟子ではないでしょうか? 考えてみてください、私たちの修煉において常に師の要求に従って、修煉者として自分を律し、堅実に修煉して精進しているでしょうか? 特に魔難の中で、自我という狭い範囲の中で身動きが取れず、人心を掴んで放さずにいます。あるいは、安逸の心に駆り立てられ「愉しみながら、死んでいく」ことになります。この時、私たちは師父のために考えたことがありますか? 師父にどれほどの痛みと苦しみをもたらしているか、分かっていますか?
ご存知のように、師父は全知全能で慈悲深い創世主です。私たちに伝えられた大法もまた、無限の威力と智慧があります。しかし、師父は「常人の理に、一般の大覚者はめったに干渉しません。次元の高い覚者ほど、常人の理を壊さず、まったく干渉しません」 [1] と説かれました。言い換えれば、弟子がうまくいかないときは、師父もうまくいかないのです。
私たちはある理を悟ったことにより、修煉の中で一歩一歩向上して来たのです。この理は、私たちが同化した法であり、堅実に修める中で悟りを得て、修め遂げることが出来れば、それは真の修煉です。そうすれば、私達の執着心を取り除くことができ、しっかり昇華して向上し、常人の中でのトラブルや妨害が少ないと思います。修煉の中で、すべての人心は邪悪に利用されて隙に乗じられ、それを口実に大法弟子を迫害したり、魔難を大きくしたりします。人心を掴んで受動的に苦しみに耐えながら、心の中で師父に懇願している時、師父の心がどれだけ痛んでいるか、師父がどれだけ耐えておられるか、私達にはわかるはずです。私達は常人の空間の表面的な痛みだけを消極的に受けていますが、実際にはその何倍もの大きな苦痛を、師父が私達のために受けておられます。しかし、これは邪悪に強制的に加えられた苦難ですが、それは受けるべきものではないものです。
師父は「眼を閉じて 鼾をかけば思い悩みを断つ 目覚めれば万事に煩わされてやまず 天地をば法を正す道を阻み難し 只、弟子の人心により遮る」 [2] と説かれました。
修煉中のすべての妨害やトラブルは、私たちの執着によって引き起こされ、私たちは魔難に遭うとき、早く内に向かって探して修煉状態を正し、本物の勇者のように魔難に直面すべきです。そして消極的に苦しみに耐えているとき、師父に大きな痛みと苦しみをもたらすことを知るべきです。最後の修煉の中で、私達が師父のためにもっと考えれば、堅実に修煉して精進する意念が固められるかもしれません。自我という狭い範囲から抜け出しやすくなり、一歩一歩をより冷静に合理的に歩むことが出来るようになるのではないでしょうか!
わずかな悟りなので、適切でないところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「煩わし」