文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年10月30日】数日前、Aさん(同修)は用事で私の家に来ていました。会話の中でAさんは、他の同修のことを言っていました。夫はその同修のために弁護しましたが、Aさんは聞く耳を持たず、夫の言ったことは役に立ちませんでした。私はAさんをよく知っており、そういう人だから彼女と交流する必要はないと思い、何も言いませんでした。
Aさんが帰った後、私は夫に彼女の様々な執着心やよくないところを話しました。私がAさんへの不満を言ったのはこれで2回目です。1回目の時、夫に私が間違っていると言われました。私は納得できず、イライラを解消するために夫の粗探しをしました。
しかし今回は、話し終わった途端に心の中に不安感が出てきて、必ず自分に問題があると思いました。師父は『轉法輪』の中で「外に向かって求めれば、魔道に入ると言われます。本当の修煉は心を修煉しなければならない」と説かれました。私は内に向かって探しました。まず彼女への不満の心を放下して、Aさんの表面的な欠点を一つ一つ見つけ出しました。そして、Aさんの不足を自分に照らしてみると、まさに自分に全部当てはまりました。Aさんの様々な執着は、自分では容易に見つけることができない全ての執着を、映し出す鏡ではないかとやっと気づきました。
映画「あなたのためにやって来た」の中で、「私達は一緒に世に降りていき、聖道を修行しましょう」というシーンを思い浮かべて、恥ずかしくなりました。本当に情けないです。私は自分に「私は同修まで嫌いですか? 師父の弟子まで嫌いですか?」と問いかけました。師父、申し訳ございません。同修へ、本当にすみませんでした。千年、億年にわたって私達は共にいましたが、今も困難の中で修煉の道を歩んでいます。決して容易なことではありません。私達はお互いに包容しましょう。
私の次元で悟ったことです。慈悲なる指摘をお願いします。