内に向けて修めることこそ、法に同化する唯一の方法
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2020年12月22日】大法弟子の修煉過程は法に同化する過程であり、自分自身を探す過程でもあります。いかに大法に同化するかということは、私たち一人一人の大法弟子がいかに正しく悟るかの過程でもあり、また、いかに各次元で偽の自我を取り除くかのことでもあります。

 一.無条件に内に向けて修めてこそ、大法に同化することができる

 修煉の中で、大法弟子は皆、内に向けて修め、内に向けて探す法理を知っています。しかし、実際に修煉する中で、完全に内に向けて修め、内に向けて探すことは容易なことではありません。なぜなら、形成された沢山の観念が人の思想の中に残されているからです。これらの観念は他の空間では全て霊体であり生命があります。人が修煉するには法に符合していないこれらの霊体を一つずつ消滅しなければなりません。これらの思想霊体が消滅されそうになる時、そのまま受け入れるでしょうか。それらは手を尽くして人の大脳をコントロールし、人の大脳を占拠しようとします。それによって主観思想が無条件に大法に同化することを妨害し、大法の威徳が修煉者の身に現れないようにさせます。

 人の表面に反映されると、それらが人の思想をコントロールして、外に向けて見る、内に向けて探さないようにさせるのです。なぜなら外に向けて見ればそれらは身を隠すことができるからです。それによってそれらは命を伸ばすことができるのです。逆に修煉者が一旦、内に向けて見れば、観念で構成された偽の自我が暴露され、大法によって取り除かれます。それによって主観思想が無条件に大法に同化し、法に溶かされます。神の奇跡、法力、慈悲も修煉者の身に現れるのです。

 修煉者が本当の自我を探し、偽の自我とはっきり区別しようとするには、いかなる環境、いかなる状況下でも、無条件に内に向けて探し、内に向けて修めることができれば、修煉の中で、各次元において本当の自我と偽の自我をはっきり分別することができます。外に向けて見ることは、偽の自我が残ることを容認することであり、内に向けて修めることは偽の自我を取り除くことです。このように内に向けて修めることと外に向けて見ることは、実際修煉の中にそれぞれの現れがあります。内に向けて修めることの現れとして、心の中は慈悲で恨みがなく、満面に涙があふれ、真心でこのような環境を利用して、自分の人心を捨てて上昇するいいチャンスを与えてくださった師父の巧妙な按排に感謝します。外に向けて見ている現れとして、心の中では辛く感じ、恨みが絶え間なく出てきて、時々絶えず涙を流しますが、それは辛く感じたために流す悔し涙なのです。

 ですから修煉者は修煉の中で、常に外に向けて探し、外に向けて見ようとする考えがあってはならず、それは偽の自我に操られている状態であり、魔の道を歩むことであり、その道には慈悲がなく、恨みしかありません。私たちがいつも偽の自我に操られたら、いかに大法に同化して法の粒子になれるでしょうか。それらから抜け出す唯一の道は無条件に内に向けて修め、内に向けて探すことです。私たちの空間場の範囲内に現れる法に符合しない現象は、いかなるものも全て私たちのこの粒子の空間場が純粋ではないからであり、よって私たちの空間の範囲内に正しくない状態が現れるのです。実際確かに私たちのこの生命に責任があります。師父は「佛光が遍く照らせば、礼儀が圓明となる」と説かれました。もし私たちが法に符合している状態で、やるべきことをすべて行い、全てをしっかりやり遂げられたら「礼儀が圓明となる」はずです。

 師父は説法の中で私たちにこう忠告されました。「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を優先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするためには、考えなければならないのです!」 [2]法から私たちは、旧宇宙の生命は全て私のためであり、また他人を変えることだけを考え、自分を変えようとしないことを知っています。このような考えを持っていては新宇宙に入ることができません。師父が法を正す特殊な時期にのみ、私たちにはこのような万古の機縁が与えられました。修煉を通じて、私のため我のためという本質が取り除かれ、未来の新宇宙の生命は成就することができます。

 二.無条件に内に向けて修めることこそ旧勢力を根本的に否定することです

 邪悪な旧勢力が大法を迫害して20年以上になります。根本から言って、私たちの中の、一部の大法弟子は師父と法を本当に信じることができていません。修煉上の現れとして、師父が要求された通り、無条件に内に向けて修めず、私たちの本性が出ておらず。大法に対する信念も金剛不動になっておらず、大法の法力が私たち修煉者の身に現れ難くなっています。現れたのが全て私の心であるため、旧勢力に迫害の口実を与えてしまいました。当然ながら、邪悪な迫害の前で私たちは正念を持って迫害を否定することができます。迫害を否定したからと言って、人心が取り除かれたことではありません。また内に向けて修め、迫害の原因を探してからこそ、根本的に迫害を否定することができます。旧勢力が私たちを強制連行して刑務所で迫害するにしろ、また私たちの身体を迫害するにしろ、あるいは様々な環境で私たちを引きずり降ろそうとするにせよ、その根本的な原因は、長期にわたり内に向けて修めなかったことにより、大法に符合しない人心が生じたからです。大法の真の意味は本当の自分が法に溶かされ他人のための生命体になり、何事を行っても他人のことを考え、すべてのことにおいて自分を反省し、少しでも自分のための念を残さないことです。そうすれば旧勢力はもはや存在できません。

 正法の最後の時期に、残された大法に符合しない全ての心は、無条件に内に向けて修めてこそ、法に同化することができ、そして、はじめて慈悲の源、智慧の源に繋がり、金剛で永遠に存在する大法が作られた正法正覚を成就することができます。以上はただ現在の次元での認識であり、法に符合してないところについては同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/11/19/415287.html)
 
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