「厳粛な声明」について
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年1月3日】2020年は本土各地で、いわゆる「ゼロ行動」が行われ、私たちの地域の大法弟子は、程度の差こそあれ、嫌がらせを受けています。恐怖心やその他の執着心に駆られて、悪に騙されたり、サインを強要されたりした修煉者もいれば、より協力的な修煉者もいました。

 どのような事情があったにせよ、大法弟子がやるべきことではないことを知っていた彼らは、基本的に「厳粛な声明」を書いて、その後、明慧ネットに掲載しました。しかし、一部の修煉者は「厳粛な声明」を弁解の手段として受け止め「大法に与えた損害を倍に補うことになります」と声明に書かれていることをやりたがらなかったのです。「サインしましたか? サインしたら、厳粛声明を書いて明慧ネットに投稿すればいいのです」という言い方もあります。まるで声明文を書くことで、大法への裏切りが帳消しになるかのように思いました。

 師父は「あなたが懺悔をする目的はなんですか? 懺悔は自分の間違いを知り、さらに良く行なおうとするもので、懺悔をしながら悪いことをするということではありません。今日殺人をして、寛大にみてもらい、明日にまた殺人を犯して許しを求めるとしたら、誰が許してくれるでしょうか? こういう道理ではないでしょうか? あなたが悪いことをして懺悔をし、後に再び行なわず、真にそれをしなくなり」 [1]と説かれました。 

 私たちは神仏が人々の心を見ておられることを知っています。世の人が、偽名を使って「三退」を行う理由は心から共産党の組織から脱退しようと思っているため本名で声明を書いたとしてもそれは誤りです。修煉者としては、これで声明の趣旨を果たすことができるのでしょうか。声明を発表した者に対して、他の同修はその声明の意義も把握して、法や同修にも責任が負えるように、注意を払うべきではないでしょうか。

 今まで伝統文化は普通の人が学ぶもので、普通の人が到達すべき基準だと思っていたのですが、伝統文化は私たち修煉者がやるべきことでもあるのだと最近気づきました。例えば、「義」と「忠」、桃園の誓いと岳飛と楊家将の朝廷への忠誠心など。共産党文化の影響を受けている我々大法弟子は、古代人にも及ばないのです。修煉の間、師父は常に私たちを見守って下さり、皆が大法の恩恵を深く受けてきました。自分、夫婦、息子や娘、孫が大法から恩恵を受けた時、師や大法に感謝していますが、悪がこれらの恩恵を利用して威嚇すると、仏恩を忘れて悪と妥協してしまいました。私たちは人間以上の存在になりたいという思いはおろか、人間の「義」や「忠」ですら達成できていません。

 中には毎週の週刊誌に「厳粛声明」を発表した人がどれだけいるか、関心を持っている同修もいました。今まで、私は三つのことをうまくできなかったこともありましたが、心の中では緩めていなかったと思い込んでいました。しかし、思い込むことと事実は違います。私はまず、大学を受験する夢を見たのですが、普通の高校受験生としてではなく、職業高校受験生として、夢の中で、私は「せめて大学受験ぐらいはできるでしょう」と思っていました。目が覚めても自分の修煉状態を変えようとせず、数日後には大学に入れなかった夢を見ました!  終盤になると厳粛で要求も厳しくなるのは理解していました!  

 私の周りには、数年前から法の勉強をせず煉功もしていない修煉者がいましたが、今年、彼女がきちんと修煉しようとすると、自分の席がなくて床に座らなければない、教室に残っている夢を見ました。最初、私は「どうして、自分は彼女よりも劣っていたのか」と思いました。その後、それぞれの生命にはそれぞれの原点があり、使命や誓い、責任があり、法はそれぞれの人に異なることを求めていることに気がつきました。また、自分がよくできていたところと同修がよく修めていないところを比べるべきではありません。

 以上は個人的な認識であり、適当でないところがあれば、同修たちの慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/21/416795.html)
 
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