自分の欠点を認めることは向上につながる
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年1月3日】先日、仕事から帰ってきて車を車庫に入れようとしていた時のことでした。車庫のドアの前にバリケードが4つあって、それを動かすために車を降りるのが嫌だったので、ゆっくりとバックしたのですが、それでもバリケードの1つを擦ってしまったので、車を降りてバリケードを動かしてから車庫入れをしました。

 家の中に入ると、舅が「窓から見てましたよ、他の人は車庫の側面に車を寄せて一気にバックできるのに、あなたの入れ方は、結構時間がかかりましたね、どうしたのですか? なんで早くバックできないのですか?」と怒って言いました。

 私は、舅の声のトーンに驚き、考え込んで、最後に「車庫入れが苦手なんです」と答えました。

 言い終わったあと、自分の答えの控え目さに驚きました。今まで、自分の欠点を言い訳せずに素直に認めたことはありませんでした。

 それについて考えると、以前は、突然の紛争に遭遇すると、私はすぐに外を見て、口争いをしたかもしれません。過去の私なら、必ずこのような言葉を口にします。「車庫の門が狭いの。あなたが試してみたら? あなたは何もしないのに、粗探ししかできないですね、自分の車を、慎重に車庫入れしないで壊したら、どうしますか? お父さんが車の修理代を出してくれるのですか? 車庫に入れればいいのではないでしょうか、確かに私は車庫入れが苦手ですが、夫のように車庫の門の枠を壊したわけではありませんよ!」

 車庫入れの突然の小さな騒動は、私が初めて自分の欠点を認める勇気があったこと、それが、自分に感銘を受けさせました。私は自分の弁解と反論する物質が見えたかのように、法に基づいていない闘争心がなくなっていました。この件は大きなことではありませんが、自分では向上しているのがわかりました。

 師父は「修煉はほかでもなく、内に向けて探すことであり、自分が正しくても、正しくなくても自分の問題を探すべきです。修めることは、ほかでもなく、常人の心を取り除くことです。いつも批判と指摘を受け入れず、外に向けて人を批判し、相手の意見と指摘を批判しているのであれば、それは修煉なのでしょうか? あなたはどのように修煉していますか? いつも人の不足ばかりを見ていて、自分を見ることを重視しておらず、相手はよく修煉できましたが、あなたはどうなるのでしょうか? 師父はあなたの修煉が良くなることを望んでいるのではありませんか? なぜいつも、意見を受け入れずに、ほかの人ばかりを見ているのでしょうか? なぜ、内に向けて修めず、自分を探さないのでしょうか? 自分のことを言われると、なぜ機嫌が悪くなるのでしょうか? ここに座っている皆さんの中に、突然誰かに名指しされて罵られたとき、平然としていられる人が何人いるのでしょうか? ほかの人に指摘され、批判されたとき、心が動じることなく自分の原因を探す人が何人いるのでしょうか?」 [1]と説かれました。

 修煉者は外に目を向けてはいけません。自分の欠点を認めることが向上につながります。新しい年を迎えるにあたり、私をはじめ、より多くの修煉者が、より良く、より良い修煉ができるように、師父の慈悲深い済度と衆生の期待に応え、使命を汚さず、師父の笑顔が私達の唯一の願いです。

 師父、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス法会で説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/28/417127.html)
 
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