法縁を大切に 煉功を厳粛に扱う
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2021年1月9日】ある日、「なぜ早起きして煉功できないのか?」と自分に問いました。すると「横になっていた方が心地よいからだ」という答えが返ってきました。「ではなぜ数日経つとまた早起きできるのか?」と続けて自分に問いました。「よく煉功できていないので、体調が悪くなり、少し煉功すると体調がよくなったからである」という答えに至りました。ここまで考えると本当に驚きました。「もしかしたら私は体の快適さのために煉功していたのか? この安逸心のために煉功していたのか?」と反省しました。私の安逸心の強烈な原因はここにあるのだとわかりました。

 この基点で煉功するのは、明らかに自分の快適さのためであって、これはどれほど強い人心でしょうか。

 朝の煉功に参加できなくて、目が覚めてからとても悔しく思っています。自分はとても大切な2、3時間を完全に安逸心に渡してしまいました。これはどれほど悲しいことでしょうか。

 問題の厳粛さを認識し、突破しようと努力しています。チャンスがあるとき、同修を家に泊めて、お互いに朝の煉功を励ましています。しかし、これは根本的な問題解決にはなりません。師父は「ここまで、煉功しても功が伸びない二つの原因についてお話ししました。高次元の法が分からないために修煉ができないことと、内へ向かって修めず、心性を修煉しないので、功が伸びないのです。この二つが原因です」[1]と説かれました。これは外に向けて探しているので、永遠に個人修煉の問題を解決できないと悟りました。

 多く学法し、自分と照らすことを重視し始めました。『轉法輪』のほかに、順番に師父のすべての説法を心を込めて一通り学びました。師父が「この機縁を失わないでください。何か難しいことでもあるのでしょうか? 考えてみれば、やはり自分の修煉の機縁を十分重視しておらず、法および自分の生命を十分重視していないからです。本当にこれらのことが分かるようになったら、きちんと行うことができるようになります」[2]と説かれました。この段落の法を読んだときに驚きました。「自分は大法をどれほど大切にしているか、この万古にも巡り会えない修煉の機縁をどれほど大切にしているのか。一つの安逸心で簡単に煉功を阻むことは、自分が大法の修煉を第一位に置いていないことだと気づきました。

 師父は「われわれは、宇宙の演化の原理に従って修煉し、宇宙の最高特性─真・善・忍という基準に基づいて自らの修煉を指導しているのです。われわれはこれほど大きなものを修煉しているのであり、宇宙を修煉していることに等しいのです」[1]「例を挙げて説明しましょう。宇宙は運動しており、宇宙にあるすべての銀河系、恒星系も運動し、九個の惑星が太陽のまわりを回転し、地球も自転しています。皆さんよく考えてみてください。誰がそれらを回るようにしているのでしょうか? 誰がそれらに力を与えたのでしょうか? 常人の概念でそれを考えてはいけません。それはそのような旋機せんきになっているからです」[1]と説かれました。

 師父が弟子に自動的な修煉の機制を与えてくださいました。私たちはただ「気機に導かれるがままに」[1]動けば、この機を強くさせています。もしうまく煉功していなければ、この機を強くできなければ、三日坊主のように煉功をするのであれば、未来の宇宙の運行で動いたり止まったりすることが許されるのでしょうか。もし基準に達しなければ、すべて存在しなくなります。

  師父が説かれた「法が人を煉る功法」「功が人を煉る」「修は己にありて、功は師にあり」[1]の法について、過去の私は断片から意味を解釈し、偏った理解をしていたので、煉功を重視しませんでした。実際は安逸心のために言い訳を探し、自分の修煉に困難を作ってしまいました。それで学法や煉功、発正念の時に恍惚な状態になってしまい、体も長期的に妨害されました。大法を実証し衆生をたくさん救おうと思ったのですが、なかなか力が及ばないと感じていました。師父は「心性の高さは功の高さ、これは絶対の真理です」[1]と説かれました。自分がよく煉功できていないのは、心性が基準に達していないのであって、師父がどうやって功を伸ばしてくださるのでしょうか。

 24年の修煉で、風雨を経験して現在まで歩んできました。師父が自分のためにどれだけ多く心を費やし、苦を舐められたのでしょうか。自分には安逸心を除去するための十分な意志が欠けており、忍耐力と意志に関する弟子の質問に対して、師父は「法に則っておらず、正念も足りないので、認識はやはり高まらないのです。つまり、本当に法の貴重さを理解することができないから、なかなかやる気が湧いてこないのです」[3]と解答されました。

 正念は法に由来しています。私は自分の状態をできるだけ早く突破しようと思って、ある日の午前10時頃、わざわざ一人の精進している同修の家へ一緒に学法をしに行きました。双盤しながら『轉法輪』を手のひらに捧げて学法し始めました。第一講の半分まで読んだときに、左足が痛くてたまりません。まるで脈がふさがっているようでした。以前なら足を下ろしますが、心を込めて学法しているので足が痛いのはきっといいことだと思い、動かずに我慢していました。第一講を読み終わるところで、左足の脈が通るようになりました。少し痺れを感じましたが体がとても快適でした。学法は学べば学ぶほど心に入り、読めば読むほど楽になり、夜7時までに六講も学びました。学法の量、質ともに私にとってはとても大きな突破でした。

 その後しばらくの間、自分が何かに遭遇した時は、基本的に法に従って行っていると思います。何か問題が出たときに、頭の中でそれと関係のある法理を思い出せます。とてもうれしく思っています。煉功するときでもリラックスできるようになりました。以前双盤での学法や第五式の功法をやるときに、いつも左足が痛くなります。足を下ろさなくても、左足が少しでも楽になるように動いたりして、痛みに対抗していました。つまり心の中では痛みがよいこととしていませんでした。現在、真にそれをよいことと見直してから、坐禅をするときに左足が痛くなくなりました。

 ある日の朝、「神通加持法」を煉功したとき、体全体が空になったと感じて、腕、足、体のほかの各部位もなくなり、まるで自分がそこに座った輪郭だけが残ったように、卵の殻の中に座ったような美妙を体験できました。涙が絶えず出てきました。

 煉功に対する正念が強くなるにしたがって、体にとても大きな変化が起きました。以前私の腰の左側の痛みが3、4年も続いていました。1年半前に左足の痛みと腫れも現れました。私は相変わらず三つのことをし、やるべきことをやって、旧勢力の按排を認めませんでした。だんだん足の腫れがなくなったのですが完全に正常に戻っていないし、腰の痛みも減っていませんでした。今回同修と一緒に心を込めて学法した後、私はある程度の安逸心を突破しました。学法も煉功も発正念もみな以前よりさらに心を込めるようになりました。私は絶えず師父の法で自分を照らして自分を正し、法を実証する時に全体に協力して自我を放下できるようになりました。腰と足の痛みを忘れた後、ある日急に思い出しましたが、左足がとても軽く、すべてが正常に戻りました。3、4年も痛かった腰も奇跡的に治りました。

 きっと私がこの次元の要求に達したので、師父が別空間で良くない物質を取り除いてくださったのでしょう。

 正念で煉功を扱うことに対して師父はずっと自分を悟らせて下さり、大法小弟子の天目を通して煉功することを絶えず励ましてくださいました。三年前、我が家の小弟子は三歳になったばかりでした。「貫通両極法」をした時に、彼は「ばあちゃんのお腹にずっと回っているものがあるよ」と言いました。法輪であることを教えてあげました。「ばあちゃんの腕にも、体全体に回っている法輪があります」と言うとい、急いで「ばあちゃん、私の体にもある?」と聞きました。「あなたも一緒に煉功するのであればあなたにもありますよ」と答えたら、彼も私を学んで煉功しました。私は「抱輪」をした時に、彼は「ばあちゃんの後ろに五匹の竜がいるよ」と言いました。後に彼に竜はどのような模様ですかと聞いたら、彼が手で回旋して飛んでいる動きの真似をしながら、口でこうなっているよ、そういう感じだよと言っていました。

 また「頭頂抱輪」の時、彼は「ばあちゃんの頭上に抱えているのは大きい法輪です」と言いました。そして「両側抱輪」の時に、彼はまた私の頭上と両手と耳の間を指さしながら、「ここには一個の黄色い法輪、ここには一個の青い法輪、ここには一個の紫の法輪があります」と教えてくれました。

 半年前私は小弟子が宿題をやるのを見ていましたが、彼に「ばあちゃんの煉功音楽が流れてるよ」と言われて、私は小さいスピーカーを持ってきました。すると彼は「師父がばあちゃんに煉功させているのかもしれないね」と言ってくれました。「そうですね」と私は喜んで答えて、すぐに第三と第四功法を補い始めました。

 ある日、彼に「大法の音楽を聴きませんか? 以前あなたが『普度』『済世』を聞いたときに、草が芽生えたり薔薇が咲いたことや、師父が来られたことを見たのではないですか」「またあなたが雲の中にいると言ったこともありますね」と話しました。大法音楽を聞くと彼は、「私はとても広い芝生が見えました。師父が坐禅して煉功しています。師父の隣にとても太くて高い木があります」と話しました。しばらくすると、私を呼んできて「たくさんたくさんの大法弟子が師父と一緒に煉功しています」と教えてくれました。

 師父が大法小弟子に示してくださった大法の美妙と殊勝は、自分が大法小弟子とともに精進することを励まして下さいます。私はさらに大法を大切にし、修煉の機縁を大切にするようになりました。過去に道を修める人は山や森の中に入り、ひたすら苦をなめて煉功しても、必ずしも功が伸びるとはいえないのに、現在の私たちは世俗を離れる必要もなく、師父の按排に従い最高の佛法を修め、新宇宙の王になるのに、どうして大切にしないのでしょうか。

 現段階の正念で煉功を扱う体験と悟りを書いて皆さんと交流しました。私の以前の状態と似ている同修に役に立てればと思います。法に従っていないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
 [3] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/12/18/415753.html)
 
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