文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年1月18日】私は幼い頃から、感傷的で傷つきやすく、情を重視していました。両親が早くに亡くなっていたので、兄と姉と同居していて、彼らによく面倒を見てもらい兄と姉を頼りにしていましたし、とても感謝していました。結婚してからは、私の家の方が生活環境が良く、いつも兄と姉を助けていたので、恩返しのようなものでした。何年も前に亡くなった親戚のことさえもよく覚えています。
大法を修煉した後、私もこれらの情を手放さなければならないと思っていましたが、手放すことができず、手放すと常人の中にいられなくなるし、圓満成就の時、自然と手放されるだろうと自分に言い訳をしていました。
私の夫が亡くなり、今までは普段の生活において常に夫に依存していた私ですが、完全に修煉者であるべき状態を失っていました、終日悲しくて、涙が止まりませんでした。亡くなる前の夫はすごく痩せて外貌も変形していました。法理からこの世間での縁が終わり、情もなくなり、すべてが消えてしまったことは理解しています。でも、どうしても抜け出せないのです。何を見ても、何をしても、いつも彼と繋がっているので、よく彼を見て(天目が開いている)、彼の夢を見て、その光景はリアルなものになっています。泥沼に落ちていく人のように、あがけばあがくほど深く陥っていきました。
ある時は寝室の床にある新しい棺を見て、またある時は、夢の中で数人の黒い服を着た人が土の中から腐った空の棺を掘り出し、土穴の横にある新しい空の棺を見ました。同じ光景が2度も現れてきました。師父は私の命を延ばしてくださっていたので、私はすでに危険な状態になっていることはわかっていました。旧勢力はこれを口実にしていつ命を奪ってもおかしくないと思っていました。彼が死ぬ前の10日間の間に3回も同じことを言っていたのを思い出しました。夫は「私たち2人はどちらが先に死ぬかは分からないですね」と言っていました。その時は心に留めていませんでしたが、今思えば、彼も私を引きずり下ろしたかったのでしょう。
この現状を変えなければならないのですが、その話をするのはとても簡単で、師の法を何度も何度も繰り返し暗唱しました。師父は「すなわち、人の本当の生命は元神なので、元神を生んでくれた母親こそあなたの本当の母親です。六道の中で輪廻する間、あなたの母親は人であるのもいれば、そうでないのもおり、数え切れないほどいます。そして、生まれ変わる度ごとにあなたがどれくらい子供を持ったのかも分かりません。誰が母親で、誰が子供なのか、死んでしまえば、お互いに誰も分からなくなりますが、造った業だけは相変わらず返さなければなりません。人間は迷いの中にあって、どうしてもそういうことにしがみつきます。亡くなった子供がどれほど可愛かったかと言って、どうしても忘れることができない人がいます。あるいは亡くなった母親がどんなにやさしかったかと言って、悲しみに暮れ、残りの人生を捨てて後を追いかねない人もいます。よく考えてみてください。それはまさにあなたを苦しめるためのものではありませんか? そういう形で、あなたを楽に暮らさせないようにしているのです」 [1]と説かれました。
法を暗唱しているうちに、自分の状態は良くなっていましたが、根本的な問題は解決していなかったのです。時々分かったり、時々ぼけたり、仕方がなく、師父にお願いするしかなかったと思いました。慈悲なる偉大な師父だけが私を救うことができると知っていました。師父は全能ですから。
私の以前の学法グループに、ある中年夫婦がいて、普通のことをしていても、法を勉強していても、とても仲が良くて、離れず寄り添っている仲の良い夫婦でした。ある時、私はこんな夢を見ました。夢の中では、どの世のことか分かりませんが、私は幸せな家庭を持っていて、夫は上記の男性の同修でした。彼は半分壁にもたれてベッドに座り、私は彼のふくらはぎに頭を乗せて横になっていました。夢の中で幸せを感じていたので、その幸せを語ることはできませんでした。
目が覚めた時には悔しくて、年をとってもまだこんな情けない夢を見ていたのですか! そして、大法弟子は生々世々の中で、どの世に誰と縁があったかは誰にも分からないと思いました。数日後、その夫婦を見て、その仲の良さを見て、師父の法のその部分を思い出し、その夢を思い浮かべて、目の前のそれを見て、ふと、師父が教えてくださっていることに気がついたのです。私は心の中で苦笑しながらすべてを理解しました。どっちが本当なのか? それはすべて情の幻です。ドラマなのに、信じ込んでいた私は痛みと悲しみの中にいました。私はバカではないでしょうか? それ以来、夫への情は完全に放下することができました。師父、ありがとうございます!
どんな情も魔です、夫への情を放下してから、知らず知らずのうちに、私の子供たちへの情はまた草のように生えていました。この子のことも心配し、あの子のことも心配したり、2日に1回は電話しないと安心できません。電話の後でも、しばらく様々な心配事を考え、やっと心が落ち着くようになります。実際、子供たちはみんな私よりお金持ちです。高級住宅を持ち、それぞれが高級車に乗り、行きたいところへ行き、ほしいものは手に入ります。常人では、年を取れば取るほど、心配事をするのが好きになります。それが常人で、修煉者はそうであってはならないです。
ある日、用事を済ませた後、学校が放課後になったばかりの頃、バス停まで歩いていたところ、人ごみの中で、ふと見ると、娘と孫娘が屈んで何かを言いながら、子供のランドセルを取って肩にかけていました。娘は半分抱き合って、半分傾いて、道の左側を曲がってていきました。流されていく2人の背中を見ていると、急に目の前のものが何もかも自分とは関係がないかのように、遠く離れているような不思議な感覚に襲われてきました。この気持ちがずっと心に残っていました。
その後、私は別の夢を見ました。親戚の家に30代の若者がいて、彼の母親は私のことを誤解していて、それを説明したくてもする機会がなかったのです。夢の中では、私とあの息子は親子関係で、お互いに頼りにしていました。夢の中では、とても従順な彼は、母親である私のそばにいつも居てくれました。しかし、実際には今この母親の息子で、今の母親を「お母さん」と親しく呼んでいますが、私のことは、ほとんど気にせず「おばさん」とも呼ばなかったのです。
前世、現世、良いことも悪いことも、六道の輪廻転生にはたくさんの役割があり、そのすべてに因縁関係が絡んでいます。どっちが本当なのか? 全て偽物です!
情は人間のもの、人は情のために生きています、修煉者はそうではありません。まさにその逆です。師父は「情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」 [1]と説かれました。
情はやはり人心や執着の根源です。大法の修煉は、人心を直接指し示すことであり、修煉の過程で、人心と執着を取り除き続けるうちに、この情の糸を少しずつ、少しずつ、途切れることなく、絶え間なく切っていきます。その時、私たちは人間から完全に切り離され、神になるのです。
個人的な認識であり、法に基づいていない場合は、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
最後に、師父の『洪吟五』「蒼穹に上る」という詩を修煉者の皆さんと復習して、一緒に励ましあいたいと思います。
人は何のために、忙しいのか
世に来るときも、去るときも、何もない
名、利、情、仇で、一生忙しく
振り返れば、心身ともに傷ついている
末後の大劫は、天地を荒し
衆神は世に下り、人となる
輪廻は、創世主を待つためであり
済度され、再び造りなおされ、蒼穹へ上る
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』