【明慧ネット2021年2月3日】二十数年間の修煉を振り返ってみると、何度も戸惑いや困惑が現れ、人のあらゆる観念や人心が暴露されてきました。心を静めて学法していくうちに、全ての答えを見つけ、法の中には既に遭遇したこと、遭遇すること及び起こったことの教訓等が明白に書いてあることに気づき、一生懸命考えなくても、心を静めて学法すれば「学法を怠らざれば」 [1]を続けることができれば、全てが解決できます。
最近、人間社会の変化の中には、全世界の疫病やアメリカ大統領選を含み、自分も人の観念や人心に触れました。特に自分が期待した「正の結果」が現れなかった時に怨恨、疑い、失望、損得等々が現れて来て、法に沿って見るべきだと知っていますが、どうしてもコントロールできませんでした。
真に大法の要求に従い、内に向けて探し、人心や人の観念を取り除く時、すぐに師父が自分のこれらの腐敗物や良くないものを浄化して下さったと感じ、身体に大きい振動を受けました。心を静めて学法する時、これらの現象を法で見ることができ、これらの全てが師父の按排と希望であることが分かりました。しかし、この過程での具体的な結果は大法弟子や衆生の振る舞い及び選択によって決められます。師父は力がないわけではなく、実は師父はこの迫害が起きないようにすることもできますし、もしくは邪党を1日も経たずに解体することもできます。師父は「弟子正念足りれば、師は回天の力有り」 [2]と説かれました。
もし、全てを師父にやって頂ければ、師父にとっては簡単なことであり、一念で全てできてしまいます。しかし、大法弟子を含め、全ての衆生を救わなければなりません。自分自身が救われるだけでなく、衆生を救わなければならないのです。これらの事は必ず大法弟子と衆生が自分で責任を持ってやることで、自分で選択する部分であり、そうすれば救われて認められます。でなければ師父の一念だけで全てができて、それは私たち大法弟子に救われるのを待っている衆生とは関係もありません。
師父は衆生を慈しみ、一人でも多くの衆生を救うこと、大法弟子が圓満成就することを望んでおられるからこそ、大法弟子に法を実証する道を残して下さり、衆生に選択する機会を与え、これは私たち大法弟子が自分で責任を負う部分です。師父が望まれたことや按排されたことを教えて下さいましたが、しかし具体的な過程は私たち自分で成し遂げなければなりません。これは法を実証すること、衆生を救うことこそ私たちが担う部分であり、師父が全ての大法弟子に圓満することを按排されたように、最後まで行けるかどうかは学習者自身にかかっています。
師父は「修めることは自身のことで、代われる人はなく、師となる人は表面ではただ、その法理を教えるだけです。 心を修め、欲を断ち、智慧を明らかにして惑わされないようにするのは、自らに対して責任を負うことです」。 [3]と説かれました。実際の修煉の中では「智慧を明らかにして惑わされないように」 [3]ということをできるかどうかは、自分が修めなければなりません。大法弟子一人一人の振る舞い、法に対する認識度、法を実証する、三つのことを行うこと、精進する度合いが世間の顕現の過程に大きな影響を与え、更にそれを決定するものであり、世間の真の歴史となり、大法弟子が法を実証するために歩んだ道が引き起こした状況となるのです。
法に書かれたことの中に、実現していないものがあると感じており、それは大法弟子や衆生が実行できていないことが原因に違いありません。またこれは必ず大法弟子と衆生が自分でやらないと認められない為、これが時間の繰り返される遅延、現れるはずだったのに実現しなかった多くの現象の根本的な原因となっています。
もう怨恨はいらない、戸惑わない、どんなことに遭遇してもまず内に向けて原因を探し、必ず見つけるのです。心を静めて学法し、心を動ぜず、外部からの影響を受けずに、師父が要求された三つのことをしっかり行い、世間の結末は三つのことの達成度合いによる具体的な反映なのです。
世の中で起きたことは鏡のように大法弟子の修煉の度合い、どれだけ多くの衆生を救うことができるかの度合いが映っているのです。責任は衆生ではなく、師父でもなく、私たちにあります。当然、正法の全ての流れや結末等、これらは全て師父の支配下にあり、師父が行われることは完璧であり、大法は如何なることに対しても無辺な威力があり、疑うことはありません。師父に言われたことを実行し、一人一人の大法弟子は実際の行動から始めるのです。
現在の個人の悟りであり、不適切なところがあれば、ご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「精進正悟」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒恩」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「堅定」