「口を修めていない」という自分の問題点を見た
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文/中国の大法弟子 复一新  

 【明慧日本2021年2月7日】以前、私は師父の『轉法輪』の中の「口を修める」という教えを重視して、三つの段落の法を何度も書き写したり、何度も暗記したりしましたが、あまり深く考えずに自分の行動に応用しなかったため、この三つの段落が自分の心に入ってこず、同化の次元に達していなかったのです。今日また「口を修める」の一節を暗記しました。

 この一節の法は普通に暗記でき、簡単に暗記できたはずだと思っていましたが、なかなか暗記できていませんでした。私は一旦暗記を止めて自分のことを深く考えてみました、自分は口を修めることをやり遂げることができたのか? それとも、できなかったのか? 少し反省した後、答えは「できていなかった」です。

 私は法を暗記するのを止めて、真剣に自分を反省しました。22年間の修煉の中で、私は修煉者の基準に達したのでしょうか? 答えは次のとおりです。「修煉者の基準に達していなかった」です。普段から自分の修煉に注意を払っていないし、話をするとき多くの場合、法に基づいていなかったのです。

 常人の仕事から見ると、私は学校の先生というだけあって、話し方が上手いと感じるので、どこに行っても人気があります。しかし、修煉者の立場からみると、逆です。上手に話すことができることで、私自身の修煉にいくつかの問題が生じ、何人かの同修を傷つけたことがあります。

 上手に話をすることができるので、いつも同修のことを勝手に判断することが好きでした。常人社会の悪い癖のように、他人の話題を口にしていました。言っていることは修煉に関することを言っているように見えますが、実は、修煉者の上達を助けようとしているわけではなく、この修煉者がどんな執着心を持っているのか、その同修がどんな心を持っているのか、ということを一種の顕示心を持って、感情の発散をしていたのです。自分の中には、他人のことを陰で語るという重度の党文化がありました。自分はいつも、他人よりもよく修めている、他人の問題がはっきり見えると思っていましたが、実際はそうではないのです。修煉者の実態は、師父以外の誰にも見透かされず、理解できないものです。実際に同修の執着を見ることができるということも師父が按排してくださっているので、同修に誠実な気持ちで指摘することは、本当に同修を助けることであり、他の修煉者と陰で話し合うことは人心の働きです。それはまた自分自身にも口を修めないことで業力を作ることにもなります。実際、同修の執着を見たならば、それは私たち自身の執着の反射と現れであり、自分自身を修めるためのものです。我々は認識することができれば、内に向かって自分自身を修めるために探して、自分自身を改善することができます。

 昨日、同修の家に資料を取りに行き、少し話をしたところ、私が言ったことが相手の気分を害したようで、相手の表情が急に非常に不快なものになりました。当時、私が言ったことは彼女とは関係のないもので、当時の自分の意見に過ぎませんでした。振り返ってみると、実は自分の口調が問題だったのではないかと思いますが、私の言ったことは断言するようなもので、疑う余地もなく、強い自我を背負っていたので、聞き手は気分を害していました。以前にも似たようなことがありました。

 確かにそうです。口を修めるという問題は本当に重要です。今日は自分の問題点に気づきましたが、今後は法の基準を守り、全てにおいて他人の気持ちを考えて自分の口を修め、本当に自分の口を修めるという法理を身につけていきたいと思います。改めて同修と交流するときには、同修の長所だけを見て、欠点は自分が修正しなければならない問題として捉え、修煉者の立場から同修を見るようにします。

 個人的な認識ですので、法に基づいていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。ありがとうございます!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/1/29/419222.html)
 
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