正念を発することの重要性について
■ 印刷版
 

文/大法弟子  

 【明慧日本2021年2月10日】長い間、私は一途に学法することができませんでした。私はある学法グループに入ってから、徐々に集中して学法することができました。しかし、このような集中できる状態は自分一人の力ではなく、同修との修煉の場にエネルギーの力が感じられました。私はよく修めている同修の助けなしには学法することができませんでした。

 私は何度も同じ夢を見ました。それは試験のとき、全く関係のない他の問題を解いていて、何が何だかわからず、悟りませんでした。それでも私は粘り強く、集中できるかどうかは別にして、学法をしていました。

 この間、目が乾いているようで、視界がぼやけてきて、特に調子が悪い時には、本を読んでからパソコンやスマホを見ると、その文字がかすんで見えていました。外に出てみると、目があまり見えなくなっていることに気づいて悲しくなりました。たとえ目が見えなくても、私はまだ法を学びたいと思っています。法を学べないのなら、何のために生きているのか? 目に痛みを伴うこともありました。自分ではどうしようもなく、目が痛くて学法ができません。

 外に出かけるときに、バスに乗らなければならないことがあるので、途中から目をつぶったまま、頭の中でずっと正念を発する口訣を唱え続けていました。

 家に帰ってきてまた法の勉強をしてみると、また違った感覚で、すぐに集中して法を勉強することができました。こんなことが何度かありましたが、その規律を見つけました。私はなぜ、外に出たときに限って、長く正念を発することができるのか? と考えました。

 ある日、私は「これから1日1時間を利用して、ずっと正念を発していこう」と思いました。最初、正念を発しながら「しばらく正念を発して、法を勉強しに行こう」と思いながら、また一方では、「いや、必ず1時間は堅持しないといけないので、続けてやりましょう」と思っていました。正念を発し始めた頃はパワーがほとんどなかったのですが、長く発していると、どんどんパワーが湧いてきました。学法に戻ってきたら、自分の心が静かになったことに気がつきました。

 日々正念を発し続けて、今では以前よりもずっと良い状態になっています。集中して法を学べるようになると、目が痛くなくなり、長い時間、本を読んでいてもかすんでいないことに気がつきました。

 私は自信が持てるようになりましたし、師父が教えてくださった法は、私達の修煉上の最も有効な手段であり、それを有効に活用していかなければならないのです! 本当に感謝しています。

 私はこの記事を書いて、同修が私と同じように正念を発することを重視してくれることを期待しています。正念を発することは本当に効果があります。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/7/419641.html)
 
関連文章