私たちは人を救う道を歩み続けている
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年2月16日】私は1999年7.20前から法輪大法の修煉を始めました。20年以上の修煉の道を振り返ると、感慨深いのです。法を正す時期の大法弟子になること、法を正す師に手伝うことは幸運で、そして光栄だと思います。師父が仰った通りなのです。「旧勢力は炎と血に満ちた邪悪をもって大法が乗り越えられないようにするつもりでした。皆さんは確固たる信念、この世に降りたときの神聖なる誓約、生々世々の親縁、理性から大法に対する認識を頼りに、同時に大法が皆さんに与えた正念と法力による根本的な保障を頼りに、乗り越えてきました!」 [1]

 一、福音を家々に伝える

 私の夫も大法を修煉しています。共に会社員の私たちは、いつも休日や夏と冬の休暇を利用しバイクで農村に行って、法輪功迫害の真相資料などを配りました。冬になると、夫は電動三輪車に乗り私を後ろの荷台に乗せ、乗り降りしやすくして配るために、あえて後ろの荷台を解放して真相資料もたくさん載せることが出来るようにしました。長年にわたり、私たちは一つ一つの村で配り、回る村の数は持って行った資料の数で決めます。2006年から私たちは資料を作り始め、大半は自分たちが配るほか、同修たちにも提供しています。

 2011年以前は、夫と私は昼間に大法の真相内容が入ったディスクを送ったり、次に配る所の地形などを調べたり、夜になってからは家々を回って資料を配ったりしていました。2012年から、私たちは大法の関連内容のシールを作って、それを透明テープで電柱や木などに貼りました。私たちの市は地方レベルで、農民の人口が半数以上を占めています。長年資料を配る中で、市村町の情報を大分把握しましたが、それでもまだ全部回ることが出来ていませんでした。

 2018年までは、毎回400~500枚の資料を持って配りましたが、それ以降は防犯カメラが各村にまで設置されたため、資料を200~300枚しか持たず、できるだけ防犯カメラを避けるようにしています。資料を配って家に帰るのはいつも深夜になり、零時の発正念の時間に間に合うと同時に発正念をしました。冬の場合は、厚い防寒着を着ているので、電動三輪車に乗ってもそれほど寒くはないのですが、大変なのは暖房を供給してくれない初春と晩秋です。深夜に帰って来ても部屋の中は寒くて、身体が凍え、布団に入ってもなかなか温まりませんでした。しかし、私たち夫婦の心は充実していて、とても幸せでした。常人には理解できないと思います。それは次元が高まるにつれ心が浄化され、衆生を済度することを誇りに思っているからです。まさに師父が仰った通りです。「常人、我を知らず 我、玄中に在りて坐り」 [2] 

 2006年から、私たち夫婦は師父の守りの下で、市内の隅々を回って大法の真相を伝え、無事今日まで続けてきました。2006年のある日、私は夢の中で夫と一緒に大きな果樹園で収穫している夢を見ました。夫は大きくて人間界で見たこともない果物をもぎ取り、私はそれを次々と受け取りました。これは、師父が私を教え導かれていると悟りました。そして、夫も修煉し始めた頃、自分がたくさんの資料を持って歩き回る夢を見たと言いました。それが現実となり、もしかしたらこれは私たち夫婦が歩む修煉の道だったのかもしれません。

 二、中共ウイルスの疫病情勢が深刻な中で、師父は私たちに万能パスをくださった

 新年や正月のような祝日になると、普段より数倍も多い大法の資料を準備するため、私たちにとって最も忙しい時期です。この時期に親戚や友人が訪れることが多いので、妨害を生じさせないように、私たちは大法を実証することを内緒にしました。毎年の新年に当たり、私たちは当時の状況に合わせ、勧善(かんぜん:善を勧める)手紙を書いて配りました。2020年の新年には、私たちは三退を促す手紙を書き、ほかの同修と一緒に、編集、整理、印刷、そして封筒に入れ、最後に「新年あけましておめでとうございます」の印字をしてから、家々を回って配りました。

 ところが、正月に入ってから市内の雰囲気が突然緊張感に変わりました。人に法輪功迫害の実態を伝えると、誰もが距離を取るようになり、パトカーがサイレンを響かせて街中を走り回るようになりました。翌日から、いきなり町も村も封鎖されるようになりました。武漢から中共ウイルスが発生したのです。日中は自由に出入りすることができず、一つの家庭で、1日に1人が1回しか外出を許可されませんでした。外出して資料を配ることが出来なくなり、同修たちは皆焦ってしまいました。しかしその後、封鎖を行う人たちが午前7時に来て、午後6時に帰ることを把握した私たちは、夜になってから出かけて資料を配ることにしました。

 疫病情勢が深刻な期間、明慧ネットが発表した人を救う小冊子と資料が内容的にもよく、私たちはとても好きでした。それを貰うと大切に取っておく人もたくさんいました。

 しかし、衆生を救うことは本当に緊迫していましたので、限られた夜の時間だけでは間に合いません。どうすればいいのでしょうか? 師父に、人を救う私たちに、1人ずつ「1枚の万能パス」を下さるようにお願いしました。同時に、私たちが人を救う時に、すべての人と邪悪が妨害してはいけないと強い一念を発しました。すると、私たちの正念は強く師父に加持され、本当に奇跡が現れました。その後、私たちは日中も出かけることが出来るようになり、どの住宅地やマンションにも通常通り出入りができるようになり、せいぜい体温を測られたことぐらいでした。

 私と夫は毎日出かける前には必ず、防犯カメラと出入りを管理する人たちが、大法弟子に犯罪行為をしないようにと発正念をしました。私たちが大法の関連資料を持って、アパートやマンションに入ると、どこも静かでほとんど人に会いませんでした。封鎖で人が少ないため、直接法輪功迫害の真相と三退を伝えることが難しくなったので、同修たちは皆資料を配るチームに加わってきました。私たちは市内を東と西に分けて配ることにしました。西と比べると、東が少し広くて新しい住宅地が多いので、私たち夫婦は東を担当することにしました。後で合流してきた同修たちと力を合わせて、マンションの順番に資料を配り、人を救っています。

 私たちは、できるだけ一軒の家も残さずに資料を届けるようにしました。終わってから帰宅すると、汗びっしょりになっていましたが、私たちは心から喜んでいました。その喜びは修煉者だけが分かるものです。特に、以前の私は、階段を少し上がっただけでも、疲れて息が切れそうになりましたが、今では、両足が神話の中の「風火の輪」が付いたように速く、身体も軽く、夫も追いつくことができません。夫が「どうしてこんなに速くできたの?」と不思議そうに聞くので、私は「師父が助けてくださるから」と答えました。

 疫病が蔓延する中で、私だけではなく、人を救う大法弟子なら皆師父に強く加持されています。毎日出かける時、私は師父に「師父、弟子は人を救いに参ります!」と報告します。師父はいつも私の側にいらっしゃると分かっているからです。

 修煉の道での物語はまだまだあります。中国共産党による迫害が停止されない限り、私たち夫婦は人を救う足を止めることなく、これまでどおりの道を歩み続けます。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『カナダ法会へ』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「覚者」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/3/419045.html)
 
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