文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年3月6日】私は台湾で神韻公演を観に行ったことがあるのですが、客席は静寂に包まれていて、みんな神韻の世界に浸っていました。だから中国本土に帰っても、家で新唐人テレビの神韻公演を観るたびに、すっかり夢中になって、いろいろな思いを抱いています。私の家に同修が神韻を観に来たとき、私は「神韻を観ている間はしゃべったり食べたりしないでください」とお願いしました。
師父は「この空間では子供たちが演出していますが、他の空間では多くの私の法身と神が皆行なっています。(拍手)震撼力と人の変化は当時私が法を伝えたときと似ています。(拍手)ですから、人を大きく変えました」[1]と説かれました。
多くの常人は神韻を観て感動し、最初から最後まで涙を流し、神韻公演のレポートを見ても分かるように、神を見た人もいました。しかし、周りの同修と交流してみると、神韻を観ながらひまわりの種を食べたりお茶を飲んだりしている人がおり、しばらく見ていて途中で退席して眠くなった人がいました。何を体験したかと聞かれて、何の演目があったか忘れてしまったため、感想を話すことができない人もいます。一人で観ていてソファで寝てしまった人がいて、公演の内容が理解できないと言った人がいたなど、いろいろなケースがありました。
私は音楽にあまり精通しておらず、おまけに音痴で歌はいつも音程が外れています。一度、神韻交響曲を観て、そこに静かに座っていると、頭の中にエネルギーが流れてきて、まるで灌頂されているようで、とても素晴らしいエネルギーで満たされていると感じました。
神韻を異なる態度で扱うと、異なる結果が得られるということをお伝えしたくてこの記事を書いています。玄人は仕事の見どころを見、素人はうわべの派手なところに気を取られる、みんながそれぞれの肝心な所を見分けてくだされば良いと思います。
個人的な経験ですが、慈悲なる指摘を願っています。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法八』「二〇〇七年ニューヨーク法会での説法」