神韻を観賞することで正念を発することを考える
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年3月9日】神韻の古典舞踊は世界中の芸術家たちに衝撃を与えました。個々のダンスは魂の花のようであり、18人の生き生きとした舞踊の変幻はめまぐるしく、優雅で予測もできないくらい、まるで流れるように一つ一つが組み合わせられているのです。神韻は尽善尽美であり慈悲なる巨大なエネルギーを感じさせてくれます。

 イ族の少女にしても、チベットの少女にしても、凌波仙子(りょうはせんし・天国に住み、水仙の化身で有名な古代中国の神話や伝説の登場人物)にしても、月下の美人にしても、英雄的な青年にしても、女真民族の猟師にしても、儒学者にしても、そして山の修行者にしても、男性は男性らしく、女性は女性らしく繊細なのです。陰陽は両方が正であり、庶民は素朴で、仙人は高尚で優雅です。手足、頭、首、肩、背中のすべてが千言万語を話すことができます。長袖、スカート、扇子、ハンカチ、弓矢、包丁、鍋、スプーンなどのすべてを踊ることができます。誰もが踊りの世界の名手なのです。さらに称賛に値すべきは、全員が一体となって、この上ない独創的な奇跡を生み出していることです。

 神韻の修煉者たちは、どのようにして上手く協力できているのでしょうか? この疑問について考えてみました。

 第一に、彼らは妥協することなく、すべて芸術監督の取り決め通りにやっているに違いありません。多くの人がいて、多くのバリエーションがあって、それに合わせた楽譜があって、わずかなズレでも混乱してしまうことになります。

 第二に、個人個人全ての人が、すべての動き、すべての瞬間に全力を尽くしていることがわかりました。ある写真家が、神韻を絶賛していたのを覚えています。「他では不可能なことですが、神韻は一瞬一瞬が絵になるのです。みな自己顕示することはないのです。しっかり自分の役割を果たすことで、全体の力を成し遂げているのです」と話していました。

 神韻の古典舞踊を通して、私は考えてみました。大法弟子にとって最大に協力できることは、4回の正時での正念を発することではないでしょうか。振り返ってみて、自分はよくできていたでしょうか? 夜の12時に寝てしまうこともあるし、何かを書いていたりしていて、時間になっても忘れてしまうこともあったりして、いつも自分は取るに足らないと感じています。たくさんの人がいるので、私だけではないと思ってみたりもしていました。しかし、私や私のような修煉者は、瑣末なことに追われるため、統一の正念を発する時間を逃し、全体的の威力に影響を与えているのです。

 20年の長い時間の中で、私たちは全員同じ時間に正念を発しているでしょうか? これまで中国共産党は、本土では「ゼロ行動」という名目で大規模に大法弟子に嫌がらせをし、逮捕、刑罰を与え、正義の弁護士や覚醒した人々を迫害し、海外ではしばしば混乱を引き起こし、神に選ばれた人々でさえも攻撃されたり、盗まれたり、不当に非難されたりしてきました。それに対して、私たちは自分の執着を探して、それで終わりにすることはできません。ましてや悪いことを良いことにして、それで終わりにすることはできません。では、法を正す時期の大法弟子の責任はどこにあるのでしょうか?

 自分から始めて、今この瞬間から始めて、法を正す時期の大法弟子の正念を発します。毎回の発正念の時間を見逃したり、いい加減にしたりすることは、全体に影響を与えます。そのように考えてみれば、舞台上で一人の役者が間違っていたら、全体の完成度が崩れてしまい、一人の役者の位置がずれてしまったら全体の効果は得られないでしょう。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/23/421200.html)
 
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