年配同修へ注意を喚起する
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子 

 【明慧2021年3月26日】大法が世に広く伝えられてすでに二十数年が経ちました。法を得た当初、中年世代の学習者は現在は既にお年寄りの仲間入りをしています。今、年配の大法弟子は全体の大法弟子の大半を占めています。

 一部の年配の大法弟子は着実に修めてきたため、実年齢が70代でも50代にしか見えません。歩く足取りは軽やかで、頭の回転も速く、本当に感心させられます、法を実証する力強さも自然に一層と強くなります。

 一部の年配の同修は「老」と言う低次元の魔の束縛から抜け出せません。知力と体力、心理的な面、いろんな面において多少とも衰えました。これらの現象を修煉者は認めていませんが、しかし、これは客観的な現状であり、邪悪が大法弟子を迫害する要素も含まれています。しかも、邪悪が更に憚りなくこの隙に乗じて迫害を加えるのです、このような迫害はここ数年特に目立ちました。

 私の地域にいる数人の年配の同修に相次いで正しくない状態が現れました。ある同修はこの世を去り、ある同修は寝たきりになりました。長い修煉の道を一緒に歩んできた仲間なので、私の心はとても痛みました。振り返ってみれば一部の年配の学習者には正しくない状態が確かにありました。

 同修の健康状態に何かが起きたと聞いて、無意識に自分のことを思い浮かべる人がいます。それは自分の考えの中に魔による幻想が送り込まれ、旧勢力の妨害が働きかけたからです。また自分のマイナス的な思惟と「自分も同修と同じ状況に置かれたらどうしよう?」等々の恐れる心があるためです。無意識のうちに旧勢力の妨害を認め、受け入れたからです。寝たきりになったある年配の同修は娘に自分が病気になった時に、病院へ連れて行かないようにと話しました。一見正念のある言動ですが、実は正念を持っていません。その同修は自分が既に病気にかかると決めてしまったのです。修煉者それぞれの状況が異なり、どんなことが起きるのかはその背後に各自の要因があります、決まった形式はありません。他人に起きた出来事が自分にも起きるとは限りません。求める心は邪悪が隙に乗じる場を提供したのです。

 一部の年配の同修の寿命は師父が伸ばしてくださいました、間違った考えを持つことは非常に危険です、邪悪はこれを迫害の口実にします。一部の年配の同修は身体に何か健康の問題が起きると、すぐさま「持病が再発したのではないか」と考えます。思考は以前の記憶を辿り、完全に常人の思考様式であり、まったく自分を修煉者とみなさず、内に向けて探していません。数日が過ぎても健康状態が改善されないのを見て、正念もまったく持てません、仕方なく命の危険から逃れようと病院へ行きます。このような出来事は常人の観念を取り除く為に起きたものかもしれません。魔難に面と向かって乗り越えることが出来ず、その勢いに流されて克服できないことは大変残念なことだと思います。

 一部の年配の同修は情を比較的重く見ています。同修との情、子供との情、夫婦間の情ばかりでなく、男女間の情さえ重んじます。情を重んじているため、問題に対する見方、人と接する時に、法に沿うことが出来ません、それに応じて人に頼る心、求める心、怨恨心もあります。一部の年配の同修は当初、病気治療を望んで法を学び始めたのです。法を得て、健康な体になりましたが、理性的な面は法について来られませんでした。師父と法に対して感謝、感激の気持ちを抱き続けました。常人の情が強すぎて、甚だしきに至っては理性を失うほどです。ある同修は焼香することに執着して、線香をたくさん上げて、一日中線香を焚き続けました。全財産を線香代に費やし、師父の写真と四面の壁が線香に燻され真っ黒になりました。しかし家の中は実に見苦しいのです。その同修の思惟は固く、自己中心的で、かなり偏っています。彼女の状態を誰が目にしても理解できないのに、法を実証していると言えるでしょうか? 彼女の行動は法に泥を塗り、破壊していることに等しいのです。これほど深刻な問題を邪悪は見逃すでしょうか? その同修自身の身体にも問題が起きました。

 年配の同修は自分が年配者であるので、「警察は多少加減してくれるだろう」という僥倖に頼る心理があります。同修の家族もこのような話をしていました。しかし、明慧ネットに掲載された迫害の実例から、迫害を受けたのは年配の学習者が大多数を占めていることがわかります。邪悪は人間性を喪失し、悪魔であり、いくら年寄りであっても、容赦しません。邪悪が大法弟子のことを気にかけるでしょうか? 死者を出し、大法弟子を死なせることは迫害の目的なのです。外へ出て真相を伝えに行かなければ、警察に不当に連行される危険に晒されなくて済みますが、家から出なくても邪悪は迫害を加えるので、同じく致命的なのです。修煉に対する要求と基準は高齢であるからと言って変わることはありません。年配の学習者の苦労に対する同修達の慈悲や理解と考慮があっても、客観的な基準が下がっている訳ではありません。このような考えを持つことは漏れでもあるので、邪悪もそのすきに付け込むのです。

 年配の同修の大多数は時間に余裕があり、精進して学法煉功に励んでいる人が多いのですが、悟性がついてこられないこともあるようです。年配の同修の学法は子供の読書のように頭に詰め込むだけで、法理をしっかり理解できず、魔難に遭遇した時に法理に基づいて行うことができません。自分を法に照らし合せることが少なく、法から悟り得た理が少ないのです。自分の修煉の体験を交流する場も少なく、今までの人生の中で形成された習慣や固有観念が多く、見分けが付かないのです。これらの観念を変えず、何かに遭遇した時に相変わらず自分のやり方で行い、それに拘って、いつまでも自分のやり方を通そうと、そのやり方にすがりつけば、たとえ僅かな向上、変化を得たくても、容易なことではありません。

 若い学習者は年配の同修に気を使い、年配の同修は法理への認識、また考えや行動に於いて不適切な面が現れた時に、若い学習者が包容してしまうことは勿論良いことで、修煉環境も調和されると思います。しかし、良くない一面も生じています。年配の修煉者は継続的に、直ちに問題を解決することが出来ず、小さな問題が蓄積され、最終的に乗り越えられない心性の関に陥ってしまいます。年配の同修は、自分を厳しく律し、一思一念をよく見つめて、自分の考えの変動、情緒の起伏に気を付け、常に自分の言動を振り返り、積極的に若い学習者と交流して、自分の不足を補い、尊貴と卑しい観念を放下し、先輩面を放下し、尊大ぶった態度を放下し、体面を重んじる心を放下して、自分の至らない処に直面して、自分の過ちと不足を正直に打ち明ける勇気を持つようにしなければなりません。年配の同修は明慧ネットを閲覧することができますが、すぐそばにいる実情を良く知る同修は適切な合理的な提案を年配の同修に出すことを勧めます。

 一部の年配の同修は比較的に精進できて、長年に亘って大法のプロジェクトに携わり、仕事を上手にこなしました。しかし年齢が増すにつれて、自身の状態が以前に及ばなくなっても、今までのやり方を変えたくありません。「今までと同じプロジェクトに参加しなければ、世人を救うことができなくなり、それから離れると威徳を樹立する機会を失い、あるいは置いていかれる」等々の考えを持っているため、プロジェクトの仕事がうまくいかない時、あるいは停滞した時に、プレッシャーを感じて、焦り、人心が浮かび上がって、身体に病業状態が現れてくるのです。まるで修煉の全てをこのプロジェクトの仕事に託したかのようです。

 私の意見ですが、年配の同修はもし自身が以前のようにできなくなれば、必ず調整して、無理強いせず、プロジェクトだけにこだわることは間違いです。自分を実証して、求める心を抱く考えはもっと不純なものです。年配の同修達は高齢の為、お子さんは皆関心を寄せているのです。もし何か不適切なことが起きて、常人の理解を越えていれば、身近な人たちの大法に対する正念に支障をきたします。

 師父は「それはほかでもない、同じ法が異なる次元において異なる変化や現われ方をもち、異なった次元において、修煉者に対して異なった指導作用をなすことができる、ということです」[1]と説かれました。

 時には私達自身で臨機応変に変えることが必要だと思います、教条主義になってはなりません、絶対化してもいけません。自分で十分にこなせる能力があるプロジェクトを選んで行えばいいと思います。家から出られない同修は家で長時間発正念をして、心掛けが基準に達していれば、威徳は同じように大きいと思います。

 また、ある一部の年配の同修は長年学法をしていましたが、真剣に厳粛に取り組んでいませんでした、精進することは尚更です。修煉を一つの趣味として行い、孤独感や虚しい気持ちに占領され、のんきに暇を持て余し、テレビに執着し、健康保持に執着し、飲食に執着し、物や金銭に執着し、子や孫に執着しています。ある一部の年配の同修は色欲心が強く、まるで根本的な執着を探したことがなかったかの様です。今まで学んだ法はまったく身についていません。大法はあっても、なくてもどっちでもよいと、健康保持と精神的支えを必要とする時だけ法を持ち出して、必要としない時、あるいは自分の何かの執着に触れた時に法をほったらかしにしている年配の同修は真に自分を見つめ直したほうがいいと思います。

 師父が「人間は済度し難いものです。 どこの講習会でも五パーセントないし十パーセントの人がついて来られません。 誰でも得道するというのは不可能なことで、修煉を続ける人でも、成就できるかどうかの問題があり、どこまで修煉する決意があるかの問題があります。 誰でも佛になることはありえません」[1]と説かれました。

 この大法は確実に人を苦界から抜け出させ、人を救い済度できる佛法であり、人が修めて異なる次元の佛道神に到達させる最高の至上な宇宙大法なのです。法の中に身を置いて真に修めることが出来なければ、上辺では少し大法の恩恵を受けるかもしれず、もしくは目覚めるまで師父は暫く時間を下さるかもしれません。しかし、機会は一回に限ります。師父の慈悲を軽んじてはなりません、まして時間も限られています。考えてみてください、今はどんな時でしょうか? 邪悪はあなただけを特別扱いすることはありません、常に虎視眈々と随時にあなたを迫害する隙に付け込もうとしています。ゆえに、このような修煉者には危機が常に存在しており、真に修めることが出来ていなければ、師を信じ法を信じることもまったくできません。身体に病業状態が現れた時に「師父が見守って下さらなかった」と言いがかりをつけ、周囲にいる常人の物議の種の対象となり、結局大法にマイナスな影響を与えることになります。

 幾つかの面から例を挙げてみました、勿論まだたくさんあります、非難しているわけではありません。年配の同修の手助けになることを望んでおり、年配の同修が自分の状況に応じて、法に照らして多く考え、より早く昇華できるように望んでいます。不適切なところは慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2021/2/13/420554.html)
 
関連文章