フィンランドの学習者 中国で受けた迫害事実を暴露
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 【明慧日本2021年4月4日】「この集会で発言できることは本当に幸運です。しかし、中国にいる法輪功学習者(以下、学習者)の中には、迫害を受けて一家離散する人もいれば、留置場で酷い迫害を受けている人もいます。彼らにはこのように発言する機会がないため、私は彼らに代わって、この人類史上最も残酷な迫害を止めるように呼びかけることにしました」

 2013年7月20日、中国から逃亡して半年ほど経った学習者の朱洛新さんが、コペンハーゲンで迫害停止の呼びかけの集会を行った際の発言である。活動当日は、ヨーロッパ27カ国からの学習者、各人権組織の代表者、そして地元市民が集会に参加した。

'图1:朱洛新(左)在芬兰参加活动,向民众讲法轮功<span class='voca' kid='62'><span class='voca' kid='62'>真相</span></span>'

 朱さんは、信仰を堅持していたため、広州公安局に懸賞金10万元をかけられた。朱さんは2001年12月3日に連行され、その後不当判決を下され、留置場で8年間迫害を受け、2009年に釈放された。そのうち2年と10カ月の単独拘禁と強制洗脳を受け、他の人と接触する事も禁じられた。長期的にひどい迫害を受けたため、命がいつも危険に晒されていた。留置場の警官に、重さ15~20キロの鉄の足枷を使って14日間掛けられたが、外された時は歩くことさえできなかったという。

拷問のイメージ図:両足と両手を鉄製の鎖に縛られる

 さまざまな関係者によって救助された朱さんは、2012年1月26日、飛行機でフィンランドのヘルシンキに到着し、11年間離れていた夫とやっと再会できた。

 李洪志先生の勉強会に参加して生き返る

 1994年、朱さんは当時29歳で香港で働いていた。ある日、朱さんは突然皮膚が痛痒いと感じた。最初は少し赤い斑が出ただけだったが、2カ月もしないうちにその赤い斑は全身に広がった。体が痒いので手で搔くとすぐに水泡になった。全身何箇所も赤く腫れていき、皮膚の痒みと痛みがひどくなっていった。病院で全身性エリテマトーデスと診断された。

 1994年12月中旬、李洪志先生の中国での最後の勉強会が広州体育館で行われた。主催者は広州市人体科学研究会であり、中国各地からおよそ6000人が参加した。朱さんはちょうど用事があって広州に来ていた。友達は2枚のチケットを購入して朱さんを誘って参加した。友達は法輪功は佛家気功でともて素晴らしい気功だと言った。

 朱さんは「私はその時、人生は大したものではないと思っていましたので、まあ行ってみようかなと思い、行くことを決めました」と語る。

 「勉強会に参加してからは、あの腫れて赤くなっていた体は痛くも痒くもなく、第5回講習会が終わった後には皮膚病が完全に治っており、健康な皮膚の人と同じようにツルツルになって痒みもなくなっていました。師父が命を救ってくださったのだと分かっていたので、心から『師父、有り難うございます』と言いました」と語った。

 家族7人のうち、6人が信仰を堅持したため迫害を受ける

 朱さんは、法輪功学習者と結婚してとても幸せな生活を送っていた。しかし、1999年7.20、中国共産党(以下、中共)が法輪功を弾圧し始めると、この7人家族のうち6人は法輪功の修煉を堅持したとして、中共に連行され不当判決を下されたり、労働教養を強いられたりした。朱さんは懲役10年、兄の呉志均さんは8年、夫の母親の呉玉ゲンさんは7年の刑罰を言い渡された。夫の呉志平さんと兄嫁は労働教養を2年、洗脳班で拘禁という判決が下された。65歳の叔母の呉玉ユンさんは毒を入れられ、辛くて苦しみの中で釈放されたがしばらくして死亡し、70歳を過ぎた呉玉ゲンさんは釈放された後、死亡した。

 迫害停止の呼びかけ活動に参加する

 中共が法輪功を弾圧した当初、朱さんと他の学習者たちは、政府側が法輪功に対して誤解していると思い、信訪弁公室に真実を伝えるために訪問した。しかし、信訪弁公室の人々は、訪問する人の意見を無視した。朱さんは、中共の唯一の目的は人を捕まえることだと分かると、次第に中共が法輪功を消滅しようとしているという邪悪な目的を認識したという。彼女は「私には、人々に真相を知らせる責任があります」と言った。

 そのころ、朱さんはやむなく仕事を失うこととなり離職した。

 朱さんは「私の命は、法輪大法から与えてもらったものです。法輪功を修煉することによって恩恵を受けたのです。師父は無実の罪を負わされているのです。良心を持って、師父のために公正な話を言わなければならないのです。本来であれば、法輪功はより多くの人が良くなれるのですが、今は政府やメデイアは市民を騙し、いいことを悪いことだと言っているのです。社会全体は逆の方向に向かっています。危害が極めて大きいのです。私は真相を伝えなければならないのです!」

 朱さんは明慧ネットから資料をダウンロードして、印刷してから市民に配布することにした。

 2001年5月末、朱さんの夫の呉志平さんは、大きなスピーカーを他の学習者に渡そうと出掛けたが、なかなか自宅に戻らなかった。夫を一夜待っていたがだんだん心配になり、きっと夫は危険な目に遭っていると思い、翌朝自宅から離れた。彼女は「一晩中ずっと待っていました。夫が今すぐにでも目の前に現れないかと心から願っていました。ずっと気持ちを落ち着かせようとしましたが、その晩は本当に長く感じました」と言った。そのとき朱さんが思いもしなかったことに、その日を最後に、会えるまで11年にもかかってしまった。

 不当に拘禁された

 その時、広州公安局は朱洛新さんを捕まえるために10万元の奨励金を出した。それを見た朱さんは考えれば考えるほど、法輪功のために真実を伝えることは、政治に参与することだとは思えなかった。「市民は真実を知る権利があります。市民に真相を知ってもらって、どのように判断するかは自分自身によるものです。必ず真相を知ってもらう機会を与えるべきです。相手が法輪功を修煉するかしないかは別として、少なくとも法輪功が一体何なのかを分かってもらいたいのです。

 2001年12月3日午前、朱さんが他の2人の学習者と一緒にタクシーに乗った時、警察に追跡され、広州中医薬大学付近で連行された。連行された後、警察は拘禁する場所など家族に教えず、会うことさえも許さなかった。

 その日から、朱さんは広州白雲留置場に監禁されるようになった。朱さんを鉄の椅子に縛った10数人の警官らは、順番に24時間絶えず拷問し、他の学習者の居場所を聞き出そうとした。朱さんは答えることを断ったため、トイレに行きたくても警官に「我慢しろ、トイレに行くことは禁止だ」と言われた。

酷刑演示:铁椅子

拷問の再現:鉄の椅子

 朱さんは「自分は無罪であると固く信じていたため、このように侮辱され、虐待されることは理解できないので、断食で抗議しました」と言った。警官は、断食抗議中の朱さんの前でわざと弁当を食べたが、朱さんは動じなかった。

 最も辛かったのは夜だった。鉄の椅子に縛られ、何日にもわたって拷問されたため、眠くてたまらなかった。警官らは、交替で朱さんを見張り、ちょっとでも動いたり、眠くて目を閉じたりしたら、すぐに揺すり起こした。体の何箇所にも痛みが出たり、出血したりし、常に頭痛と目まいを感じていたという。朝3〜4時頃、朱さんの意識がぼんやりした時、警官は力を入れて足枷されている足を蹴り、「あなたに連絡している者は誰だ? あなた達はその資料をどこまで配布したのか、話せ! 全部話したら、拷問をやめてやるよ」と言った。

 他の学習者に関する情報を何も話さなかったため、14日間の断食で命の危険に陥ってしまった朱さんに、警官らは灌食しようと決めた。迫害を受けている学習者の中には、灌食により死亡した人がいたが、警官らは止めようともしなかった。なぜなら、警官らは朱さんが死なない限り、いつかは他の学習者に関する情報を話すと思っていたからである。

 灌食を強いられる

 その日は、意識が朦朧としていた朱さんだったが、2、3人が歩み寄って来る足音を聞いた。その後、彼らは朱さんを持ち上げると、受刑者用シャワー室に運ぶと、顔を上に向けて体を押し付け、1人が頭を押しながら目を覆い被せ、もう1人はチューブを鼻から胃に強引に入れた。朱さんは痛くて苦しくて拒否しようとしたがいきなり灌食された。

酷刑演示:野蛮灌食(绘画)

拷問のイメージ図:乱暴に灌食される

 最初、朱さんは何回ももがいたりしたが、しばらく経つと体が反り返ったり震えたりして、鼻と胃は焼かれたような痛みを感じた。その後1人が「もういいだろう」と言うと、チューブを強く引き抜いた。それは耐えられない痛さだった。警官と他の受刑者は、朱さんの苦しんでいる姿を見て笑いながら、その中の1人が「まだ言わないのか? 死なせないよ。ずっと生きて、その苦しみを存分に味わうんだな!」と言った。その後、彼らは立ち去った。朱さんは、コンクリートの地面に横になったまま少しも動けず、涙が止まらなかった。何時間も経ってから朱さんは部屋の中に運ばれた。「何日経ってもすべての内臓が痛かったのです。元気が出ず、痛くて何も話せませんでした。なぜこのように扱われているのか理解できませんでした。頭が完全に真っ白でした」と言った。

 灌食を強いられた後「生きたい!」という意識が朱さんを支えた。「法輪功への迫害は必ず終結します。師父が教えてくださったことはすべて正しいのです。自分には過ちがないのです。生きたまま出たい!」

 15〜20キロの足枷が足に食い込む

 留置場で、警官はさまざまな卑劣な手段を用いて朱さんを迫害したが、朱さんは断じて他の学習者の居場所を言わなかった。彼女は李洪志先生が説かれた法を頭の中で繰り返し読み、真・善・忍に従うことは間違いないことだという意志を固めた。

 警官らは、朱さんを特別な標的として扱うようになり、重さ15〜20キロの足枷をつけコンクリートの床の釘に繋いだ。何日経ったかも分からなかった朱さんは、両足の神経が足枷に圧迫され、しばらくすると痛みが出た。朱さんは痛みを減らすために、体を動かしたりしたが足が酷く腫れてしまった。足首、膝、皮膚、骨まで痛くなって痺れ、体が震えたりした。その辛さは言葉ではとても言い表し難いものだったという。

酷刑演示:脚镣

拷問のイメージ図:鉄の輪

 「最も恥ずかしめられたことは、留置場の何十人もの受刑者の目の前で大小便をすることでした。監視カメラの下で、自分の細かい動きまでもがはっきりと見えていたのです。自分は子供のころから大人までの人生はずっと順調で、家庭環境もよかったのです。大学を卒業してから、外資系企業で働いていましたが、このような侮辱を受けた事はありませんでした。中共にその侮辱を舐めさせられたのです」

 15日目、1人の受刑者が独房に入って来て朱さんの足枷を解錠しようとした時、その受刑者が驚きながら「なんでこんなことになったのですか」と聞いた。その足枷は朱さんの肉に食い込み、足全体が腫れてまるで太腿のように見えた。その受刑者は朱さんに同情の気持ちを込めるように言った。「必ず歩くことを習ってください。ちょっと辛いかも知れませんが、ゆっくり歩いていけば良いです。そうしないとあなたの足は障害になってしまうかも知れません」、そしてその受刑者は「本当に酷い! 死刑囚に付けられている足枷はあなたの足枷より細いです。その彼は歩けるのです。法輪功に対してあまりに酷すぎます!」と言い、首を横に振りながら「信じられない」という表情をした。

 足枷を外されたが朱さんは歩けなくなっていた。彼女は足をゆっくり動かそうとしたがコントロールができないほど震えた。それでも足を少しずつ動かし、壁の伝い歩きができるようになった。朱さんは「必ず生きる! 死んではいけない、命をこのまま終わらせはしない、生きていけるはずだ。不治の病になった時に、師父に救ってもらった。人間として信仰を持つべきだ。信仰こそ自分を支え続けることができる」と思ったという。

 出来る限り心の中の善を守る

 2年間にわたって拷問を受けた朱さんだが「法輪功を修煉することは正しい」と言っていた。警官は朱さんを2、3平米の部屋に拘禁し、夜になると他の受刑者が皆寝ているにもかかわらず、警官は朱さんに法輪功と李洪志先生を中傷するビデオを見ることを強要した。ビデオの内容は暴力に溢れ、しかも音量が極めて大きかった。朱さんが目を閉じると、麻薬犯罪者の2人が彼女を殴り始めるのだが、朱さんはその時、一念を持っていた。「ビデオの内容は誹謗中傷だ。聴いても、見てもいけない。師父は真・善・忍という真理を種のように自分の心の中に植えつけてくださったのだ。根ごと抜かれてはならない!」

 彼女はずっと精一杯断った。長期的に迫害を受けていたので、彼女の体はますます弱っていったが中でも聴力が最も酷かった。どんな音を聴いても、ぶんぶんという耳鳴りがして、頭痛を伴った。夜は、わずか、3〜4時間しか寝ることが許されなかったが、耳鳴りがぶんぶんと大きく鳴り響いた。熟睡することができないため、目を閉じてリッラクスさせるしかなかった。

 14日間に渡って監禁室でひどい洗脳を受けた後、拷問され、その後はまた洗脳された

 警官らは交代で朱さんに拷問を加えたり、洗脳教育を施した。繰り返し虚言を用いて、朱さんの意志を変えようと図った。虚言を重複するたびに神経への酷い刺激となる。朱さんは過去の生活において、守ってきた一つ一つの全てを思い出すことによって心の中の善を守り、その虚言に抵抗した。その虚言を断るために、彼女は過去の起伏の人生を思い出すようにした。「突然お母さんがいなくなったとか、不治の病を患ったとか、師父に会えたとか、人生は花が咲く様に再度生まれ変わったとか」出来る限り心の中の善を守っていたという。

 父親からの励み

 2001年、連行されてから、重刑を言い渡され、広州の韶関留置場に拘禁されるまで各種の拷問を受けたり、精神的な打撃を与えられたりしても、朱さんは「修煉をやめる」と言ったことはなかった。警官は家族の訪問も許さなかった。2003年4月25日、朱さんは広東省女子監獄に送られた。2004年の年末、警官は意外にも父親と会うことを許した。

 その日、警官は彼女をある一つの部屋に連れて行った。その部屋の対面にはもう1つの部屋があり、真ん中に壁が隔てられていた。突然対面の部屋が開けられると、彼女の父親が車椅子に乗って部屋に入ってきた。体調が非常につらそうに見え、娘を見た父親は涙が止まらなかった。朱さんはびっくりした。父親が朱さんの目の前で、涙を流しているのを見て、心がまるで切り裂かれたかのように痛く感じ、過去のいろいろなことが一つ一つ現れて来た。

 朱さんの父親は糖尿病を患っており、その日は病院の先生と予約していたにもかかわらず、610弁公室の警官に強引に連れて来られた。

 「父がマカオで働いていたのは、私にマカオの大学に入れるためです。父は私が皮膚病を患っていたので、私のために貯金を使い果たしました。病気の回復は、法輪功を修煉することによるものだと知って、父は心から喜んでくれました。李洪志師父は私の命を救ってくださった大恩人です。父は人生を大事にしなさいと言ってくれました。その父が、目の前に現れてびっくりしました」

 父親に会い、朱さんはとても辛く感じ、涙が出た。本来であれば父の側にいて、親孝行をすべきであるのに、信仰のために、真実の話をしただけで拘禁されてしまい、心よりすまないと感じた。父はこんな歳になっているのに、ここに連れられて来たことに、本当にすまないと思うと涙が止まらなかった。朱さんが頭を上げた時、父は支持する目つきで自分のことを見ていると気づいた時、父が「生きていてくれ!」と言っている励みだと感じた。その時、父の隣にいた警官が「言え、早く言え」と促したので、父はその人の目を見てからは何も話さず首を横に振った。父は悲しそうにしていたが、すぐに外に連れ出された。

 その日は朱さんが拘禁されてから、初めての家族訪問だったが、朱さんが釈放された後知ったことは、その日610弁公室の人が父に言わせたかったことは「修煉を諦めさせる」だった。

 単独で拘禁され、洗脳を強いられた2年10ヶ月

 朱さんが知らなかったのは、彼女が頑張って洗脳教育に抵抗してた時、夫から支持されたということだった。夫は、朱さんに手紙を書き、諦めない様に励ましていたのだが、手紙を1つも受け取っていなかった。

 留置場で警官は朱さんへの洗脳を強化し続けた。2007年の年始まで、およそ2年10カ月にわたって単独で拘禁され、洗脳された。警官は彼女に人に接触させなかっただけではなく、どんな情報も得させなかった。時々、警官は麻薬犯罪者に指示を与え、誹謗中傷の資料を朱さんに読ませた。朱さんの聴力が悪いと分かっていたので、彼らは大きな声で読んでいた。その後、彼女は視力までも悪くなり、常に速い心拍や、冷や汗、悪夢などの症状が現れたが、自分のことは過ちがないと固く信じていた。

 長期にわたる拷問を受け、心身ともに苦しみ疲れ果てた朱さんだったが、彼女の頭の中に1994年の李洪志先生の講習会に参加した場面とか新しい生命を得たその幸福なシーンが現れたきた。もっとも過ごしにくい日々の中で「その奇跡を私は感じることができました。師父は私に、道徳レベルが高い人になるように命を救い済度してくださったのです」

 「人生はいつも順風満帆になっているわけではありません。苦難に遭遇した時、人間としての原則を忘れてはいけません。私は心の中の助けを師父に求め願っています。時間が経つにつれて自分の意志が強くなってきたのです。さらに心の中には未来と希望があります」

 結び

朱洛新さんは中国から抜け出し、自由な世界で11年ぶりに夫と再会。これからは夫婦2人で、海外で共に迫害停止の呼びかけ活動を始めるという

 2021年新年の前後、およそ200人の法輪功学習者は中共に連行され、不当判決を言い渡された。今年の国際ホロコースト記念日に、朱さんは感想を発表した。「22年にわたり、中共政府は法輪功の学習者、及び他の信仰団体への弾圧を施し、甚だしきに至っては『生体臓器狩り』という悪行も発生しました。今なお続いています。私たちは国際社会に中国の人権状況に注目し、直ちにこの残忍な迫害を止めるようにして欲しいと呼びかけます。中共は、全世界で法的裁きと正義なる審判を受けるべきです」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/8/421551.html)
 
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