知られざる彼女たちの運命は何を物語っているのか?
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 【明慧日本2021年5月3日】張愛玲(アイリーン・チャンさんは、半世紀以上前に中国共産党(以下、中共)の本質をはっきりと認識していた、数少ない知識人女性の一人である。彼女を記念してあるインターネットユーザーは、「私たち多くの人にとって、張愛玲さんは前途の一筋の光であった」と書いている。

 2020年は張愛玲さんの生誕100年に当たり、インターネット上では 「張愛玲さんが2020年まで生きていたならば、何を書いていただろうか?」 という書き込みが見られた。才女を追想するファンの間でホットな話題となっている。また、伝説的な才女への追憶は、その時代の紅(共産主義)王朝の有名な女性たちの異なる運命についての深い考えを呼び起こしている。

 「すでに破壊の過程にあり、さらに破壊が進む」

 張愛玲さんの祖父は張佩綸さんで、祖母は清朝末期の大臣・李鴻章の長女である李菊耦さんである。 彼女は子供の頃から伝統文化に育まれ、才能に恵まれていた。 1940年代に入ると、彼女は上海で人気のある女流作家となった。

 張愛玲さんは本能的に共産党左派の流れを警戒して抵抗し、「五・四運動」を暗に批判し、一人一人の声をまるで自分の声のように変えたのである。 共産党政権の初期、張愛玲さんは祖国への愛着から中国を離れず、共産党の統一戦線の標的となった。紅い喧騒な「新政権」に丸め込まれ、張愛玲さんは疑心暗鬼の心情で、『十八の春』、『小艾』と二部作の『無産階級』小説を書いた。この小説のあらすじと結末は、共産主義初期の主旋律の要求に合致していたが、それでも彼女は小説の中で「政治がすべてを決める」と大胆にも暴露している。 政治に関心がなくても、政治はあなたを巻き込むのだとも書いた。

 1950年、中共の按排で、張愛玲さんは上海の文芸代表団に同行して江蘇省北部の農村に行き、2カ月間の土地改革運動に参加して革命的な生活を体験した。わずか2カ月の経験が張愛玲さんの生涯の運命を変えた。張愛玲さんが見聞きしたことは悲惨であり、彼女は苦しみ悲しんだ。彼女は「英雄物語」や「土地改革への賛美」、一般的に言われている「記念碑的作品」は書けないと思い、書こうとも思わなかったと話す。

 後に、彼女は革命の傍観者に助けられ革命と決裂した。彼女は、いわゆる中共の「自己教育」と「知識人に対する思想改革」に耐えられなくなり、 1952年7月、32歳になった張愛玲さんは、中国を脱出して香港に向かった。そして張愛玲さんは、今でも中共が出版禁止にしている『秧歌』と『赤地之恋』の小説を香港で書いた。

 女流作家は、共産党の暴力的な土地改革、血まみれの「三反」運動と、朝鮮戦争を背景に、共産党の全体主義的な支配による中国国民への拷問とマインドコントロール、人間性と人権の極端な破壊を如実に描いた2つの小説を発表した。この小説の中で、張愛玲さんは中共について非常に先見性のある予言をしている。 彼女は、「時代は慌ただしく過ぎてゆく、すでに破壊の過程にあり、さらに破壊が進むだろう」と書いたのである。

 張愛玲さんは、後にアメリカに移住した。 1960年代から1970年代にかけて、香港や台湾、華僑の世界で再び人気を博した。1980年代には中共から中国訪問の誘いがあったが、彼女は断った。 1995年、張愛玲さんは長い闘病生活の末、アメリカで亡くなった。

 中共に生涯を蹂躙された女流作家・関露さん

 潘柳黛さん、張愛玲さん、蘇青さんとともに「中華民国の四大才女」と呼ばれた関露さんは、中華民国ではよく知られている。もし中共に騙されなければ、歴史に残る女流作家になっていただろう。関露さんの父は満州族の知識人で、彼女と妹は幼いころから読み書きできるようになった。上海中央大学で学んでいる間に、彼女はすでに文壇で頭角を現した。 その後、左翼作家同盟や中共に加入した。

 前世紀30年代、関露さんは中共の潘漢年の命令を受け、スパイとして日本の諜報機関に潜り込んだ。 その目的は日本に対するスパイ活動ではなく、日本軍についたと思われた李士群と丁默村の2人を丸め込むためだった。そして、関露さんは最後まで、李と丁が中共とすでに接触していることを知らなかった。日本が降伏した後、関露さんは1946年から36年間、中共に収監され、検閲を受け、裏切り者と呼ばれ続けた。関露さんは、中共に対して、自分は地下組織に所属していたことを公表するよう何度も求めたが、中共はそれを拒否した。

 潘漢年が以前、関露さんに言った言葉は、「将来、誰かがあなたを裏切り者だと言っても、自分を守るために弁解してはいけない。もし弁解すれば最悪の結果になる」と話したという。関露さんは組織の按排に服従し、「私は弁解しない」と言った。中共の外交官である王炳南はかつて関露さんへ自分の気持ちを伝えていたが、関露さんが潜入活動を終えたとき、中共は、王炳南が李士群と中共との秘密の関係を関露さんに暴露することを恐れて、関露さんと別れるように王炳南に命じたのである。中共の革命の必要性の前では、人間性を意のままに粉砕できる一握りの塵にすぎない。

 1955年から関露さんは3年間収監され、自分は裏切り者としての生涯を自供するよう求められた。1967年、60歳になった関露さんは、秦城刑務所に8年間収監された。1982年、社会復帰を果たした関露さんは、名誉回復後に自殺したのである。 生前の関露さんは、すでに寝たきり状態で10平方メートルの小屋に横たわり、力が尽きペンを持つ力もなかったという。

 父の「不忠実で義理がない、我が家の恥だ!」の罵倒を悔やんで悟る

 1946年に国民党と共産党の交渉が決裂すると、中共は傅作義さんの娘である傅冬菊さんに、父の金庫からすべての機密文書を盗み出すように命じた。傅冬菊さんは数個のチョコレートを使って、5歳の弟をなだめすかして金庫の鍵をうまく手に入れ、最も重要な軍事資料を写真に撮り、中共に渡した。

 傅作義さんはもともと中共に幻想を抱いておらず、共産党は残虐、恐怖、専制をもたらすと公言していた。傅冬菊さんの裏切りにより、傅作義さんの軍事作戦の多くは失敗を繰り返した。傅冬菊さんは、機会を伺って父の共産党への投降を勧め、さらに情報を中共に流していた。 結果として傅作義さんは中共との秘密和平交渉の申し出を受け入れざるを得なかったのである。

 1949年2月、娘が自分を裏切ったことを知った傅作義さんは、「不忠実で義理がない、我が家の恥だ!」と娘を罵倒した。

 1949年以降、傅冬菊さんは『人民日報』の記者となった。 文化大革命のとき、共産党は彼女に「反党」と「階級反逆者」とレッテルを貼り、公開の場で酷く批判された。 彼女が父を見舞いに行ったとき、自分の身さえ守れない彼女の父は、「もう来なくてもいい」と彼女にと言った。 1974年4月、傅作義さんは病死した。

 晩年の傅冬菊さんの生活は貧しく、わずかな退職金では医療費や入院費を捻出することができず、自費での病気の治療ができなかった。 中共は、彼女に高官待遇病棟での治療を許さず、1日400元の「特需病棟」での治療を受けさせた。「特需病棟」の看護師2人の給料は月に数万元かかり、傅冬菊さんには支払う能力がなかった。何年か前、公営住宅の改革が行われたとき、個人がお金を払えば住宅を購入できるようになったのだが、彼女には購入できるお金がなかった。 国務院機構事務管理局は、彼女に何度も家賃を支払うよう迫った。しかし、彼女の父が多くの私有地を中共に引き渡したにもかかわらず、中共は見て見ぬふりをした。

 晩年の傅冬菊さんは、「当時の父が言った言葉を徐々に理解できるようになった」と語っていた。 2007年、傅冬菊さんはこの世を去ったのである。

 結びの言葉

 中国の伝統文化には、「穆桂英、元帥となる(楊一族の息子たちが国を守るために戦死した。母親の穆桂英が未亡人になった嫁たちを率いて戦場に出向き戦いに臨んだ物語)」、「ムーランが父の代わりに戦場に出向き戦う」などの正義のために戦う感動的な物語があり、女性が男性に劣らない古来の物語を展開したものである。そして、中共は共産党の性質を用いて人間性を代替えし、勢力のある家族や才能のある女性を政治の道具として使い、彼女たちに虚言を言わせる中で、自分らの道徳や良心を失わせたのである。

 人民文学出版社の元社長・韋君宜氏は、娘に「自分が革命に参加したとき、すべてを犠牲にする覚悟はできていたが、自分の良心まで犠牲になるとは思わなかった」と語ったことがある。

 より多くの中国人が、中共の欺瞞から目を覚ますことを願っている。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/31/422754.html)
 
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