真の超越を目指して
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年5月10日】私は長い間修煉してきた中で、疲弊し、魔難が絶えませんでした。そのため、何度も自分の執着心を探しましたが、なかなかその状態から抜けられませんでした。今になって、ふと気づいたことがあります。私はずっと、本当に自分自身を修めておらず、外部環境を重く見ていました。いつも外部環境が良ければ、物事が良い方向へ進んでいくと思い込んでいました。他人が良くしてくれたら、自分が関を乗り越えられると考えていました。

 実際、私は誤った方向へ行ってしまったのです。これでは、求める心を抱いて修煉し、求めていたものは常人と何の違いもありませんでした。外部環境が以前と変わらず、他人からも以前と同じようにひどい扱いをされ、物事も良い方向へ進んでいないかもしれませんが、その中で自分の心性が向上できれば、真に関を乗り越えたことになると思います。外部環境がどうであろうと、自分は終始、穏やかな心理状態を保ち、慈悲と善の念で周囲のすべての人や物事に対処するべきです。このようにできれば、周りの人や物事が自分にとって有利な方向へ動いているならば、関を乗り越えられないと思わなくなるのです。

 病業の中の同修も同じように、健康を取り戻したら、病業の関を乗り越えたと強調しすぎていると思います。同様に、病業の同修に対して発正念する私たちも、その病業の同修が元気になったからこそ、病業の関を乗り越えたと思いがちです。実際、病業の同修は体の状態がどうであろうと関係なく、大法と師父を堅く信じ、自分の信仰に対して敬虔で、力のある限りやるべきことをやり、自分の体に対する執着を放下し、まったくその病業があるかないかにも執着せず、死に直面しても、「法輪大法は素晴らしい」と唱え、師父に対して敬虔な心を持っている事が出来れば、関を乗り越えたと私は思っています。私たちは魔難の中の同修を助けるとき、同修の心にかけている鍵を解かすべきで、その具体的な物事や病気に陥ることではありません。それで同修が昇華することさえできれば、関を乗り越えたと私は思っています。それ以外のものは、私たち大法弟子が追求するものではありません。

 常人は幸せな家庭、順調な仕事、健康な体、立派な子供など、追求しているのですが、それは私たち修煉者にとって修煉がよくできているかどうかの標準ではありません。

 師父は「最も複雑な人間の群れ、最も複雑な環境においてこそはじめて高い功を修煉して得ることができるのです」[1]とおっしゃいました。私たちが修めているのは、常人から抜け出ることで、他の誰かを変えようとすることではありません。

 人間社会は複雑で混沌としているように見えますが、実はすべて因果応報の中で、業を返しているのです。貧富に関係なく、すべての人がそれぞれの困難を抱えています。修煉者は、この複雑な環境の中で自分を修め、汚染されないように泥んこから抜け出ることです。どんな複雑な外部環境であっても、修煉者の心はより純粋で清らかで、外部的なものに心を動かされないのです。

 師父は「覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[2]、「名利情を修し去り 圓満して蒼穹に上のぼる 慈悲をもって世界を看みれば、ようやく迷いの中から醒める」[3]と説法されました。

 修煉者の心を本当に常人から切り離すことができれば、常人のものに妨害されたり、駆り立てられたりすることがなくなります。それによって、私たち修煉者はすべての人の苦しみや辛さを理解し、衆生がみんな苦しんでいるのを心から感じ取れるのです。個人の円満成就のためではなく、衆生のために、法輪大法の真相を伝え、衆生が大劫難から乗り越えられ、未来へ進めるようにと心から願うのです。

 次元が限られており、不適切なところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「功成って圓満」

【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/25/423735.html)
 
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