最大の善の心を持って「病業」の同修を助ける
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文/湖北省の大法弟子 

 【明慧日本2021年5月17日】先日、法輪大法を二十数年学んでいる、遠く離れて住む同修を訪ねました。その同修から「ここ数年ずっと、薬を飲んでいます」と告げられました。

 私は五年前、私の足の指2本に爪白癬の症状が出たため、薬を買って2カ月ほど塗りましたが、効果はありませんでした。それでも悟らなかった私は、民間療法を使って、1週間で治りました。しかし、一年後に再発しました。それで、私はまた、民間療法で3日間で完治しました。1年後にまた再発したので、私はやっと、「これは病気ではない、業力と妨害だ」と悟りました。

 それから、私は自分の体に「私の体の中の細胞、分子、原子などの微粒子はみな、私の生命の一部分で、私の命令と指揮に従わなければならない。今、私の体の各層の粒子を妨害する邪悪生命の要素と業力を漏れなく消滅させる。『法は乾坤を正し、邪悪は全滅する』」と発正念しました。3~5回発正念したところ、2年あまり患った爪白癬が治りました。その後、2度と再発したことはありませんでした。

 大法弟子は一つの全体で、同修のことは自分のことです。私たちは力の限り、魔難の中にいる同修を助けてあげるべきです。「どういうふうに助けるか、どんなところを助けるか」と考え、私は学法し、何十日も考え、徐々にヒントを見つけることができました。実は簡単なものです。それは師父の大法を用いて、病業の同修のわだかまりを解かし、いち早く修煉の中の漏れを見つけ、止めて、大法と師父を信じる正念を打ち立てるということです。

 同修が意識的、無意識に形成した「ねじれ」を正す

 病業で3、4年或いは5、6年も苦しんでいる同修がいます。長年の苦しみで同修の正念が足りなくなったり、負の考え方が生じたりすることがあるでしょう。ですから、病業の同修に対して発正念するだけでは効果をあまり収められないと思います。病業の同修が意識的、無意識に形成したねじれをきちんと整理して正します。それによって同修が大法の中に溶け込むことができます。そうして、私たちが病業の同修に発正念をすれば効果が出て、同修の体を妨害する病業の迫害を解体することができるのです。

 同修が自分の執着を探し出すように導き、その漏れを止める

 魔難の中にいる同修に対して、善と忍を持って対処し、責めることも、非難することも、貶むことも、嘲笑することもしてはならず、励ましてあげたり、修煉の中での長所を褒めたりして、同修が魔難に勝つ勇気と自信を与えるのです。

 私たちは真心を持って同修に「病業はいつから始まったのか? 自身ではどのように対応していたのか? 病業の発生前後に、法に符合しないことをしたか? 真、善、忍に基づかない言動をしていなかったか? 名利、情に強く執着し、怨恨の念を持っているか? 色欲心があるか? 自分の修煉の中で執着と漏れを探し出したのか? それを見つけた時、どうやってその過ちを改め、その漏れを止めたのか?」などを振り返ってもらいます。私たちはそれらを冷静に聞き、病業の同修が良くでているところを褒め、認めてあげます。不足の部分は、最後に切磋琢磨するなどのやり方が良いと思います。

 決して病業の同修を妨げることをしてはいけません。善の念と慈悲の心を持たずに、病業の同修の欠点ばかり見て、長所を見ないようにしてはいけません。実際私たちの一部の同修は、病業の同修を過度に責めたり、指摘したりしています。その結果、彼らの心理状態は悪化し、自暴自棄に陥ってしまうのです。さらに病業の関を突破する勇気を喪失させ、次第に修煉を止めさせてしまうことがあります。このようになれば、私たちは魔難の中の同修に申し訳ないこと、自分自身にも申し訳ないこと、偉大な師父に対して申し訳ないことをして、自身も業を作ってしまうのです。修煉の中で業を滅しながら、業を作り、善を行うより業のほうが多くなれば、どうやって心性と次元を向上させるのでしょうか?

 魔難に打ち勝つ自信を同修に持たせる

 同修を助けることは実際、自分を助けることになります。というのは、自分がまず多く学法し、より多くの法を理解できれば、同修の状況に合う師父の説法を選ぶことができ、師父と大法を堅く信じる正念を持たせられるのです。

 師父の説法と照らし合わせ、病業の関と大きな業を滅するとき、固く師父と大法を信じ、生死を放下して妨害を排除し、正念のある行いでその関を乗り越えて偉大な神として成就するのか、それとも、薬を飲んで、注射を打って、手術をし、業力を体の微視的なところへ再び押し込む常人になるのか。薬を飲み、注射を打ち、手術することによって、苦痛はしばらく緩和されるが、実はその業力は再び体に押し込まれ、体の微視的なところに積立てられているのです。次に業力が現れた時は、以前よりもっと苦しく、もっと厳しく、命を失う可能性もあるかもしれません。

 師父は「修煉の中で、皆さんは良いことに出会っても、良くないことに遭っても、すべて良いことです。なぜならば、それらは皆さんが修煉しているからこそ、現れたことだからです。修煉者は、常人の心を持って、業力を持って、執着を持って圓満成就することはできません」[1]とおっしゃいました。ですから、私たちは良くないことを良い事とし、例えば、病業の関、各種の魔難、旧勢力の妨害と迫害などの悪い事を「業の消去だ。悟らせることだ。心性を向上をさせることだ。次元が向上できることだ」と、良いこととして捉えなければなりません。業力が出て来なければ、私たちは業力を見ることも触ることもできませんが、現れば、私たちはそれらを滅する機会があるということです。

 法を正す基点に立って内に向けて探す

 内に向けて探してみると、私たちはまだ手放していない人間の情や欲望、執着をどれだけ持っているでしょうか? 人と口論して憤慨したとき、嫉妬心、色欲心、恐怖心、怨恨の心、歓喜心、顕示心、闘争心、人に言われたくない心、利己心などが生じ、それらは業力ではないでしょうか? 積み立てた業力が消去される前に、新たに業力を作ってしまったのではないでしょうか。特に色欲心は、誰もが乗り越えなければならない致命的な関となっています。

 師父は「皆さんに教えますが、どのような摩擦が現れても、どのような情況が現れても、きっと私たち自身に漏れているところがあるからです。これは間違いのないことです。漏れているところがなければ、誰もこの隙に乗じることができません」[2]とおっしゃいました。毎回、魔難や業力の消去、関に遭うとき、あるいは邪悪な迫害やトラブルに遭うとき、私たちはまず自分の不足と漏れを探しているでしょうか? それとも、不公平だと思ったり、他人のせいにしたりしたのでしょうか?

 一部の同修は「私は内に向けて探すことができない」と言うかもしれません。私の個人的な悟りとしては、「内に向けて探すとは、簡単に言えば、真・善・忍に反する言葉や行動をしたかを探すことで、 具体的には、名、利、情などへの執着がまだあるかどうかを見極めることである。すべての執着を放下することによって、向上することができる」と思っています。

 病業が現れたとき、関を乗り越えようとしないで、自分のことを気にかけてくれないと師父を恨む同修がいます。この念を持つと、旧勢力に掴まれて、あなたを地獄に叩き落としていくでしょう。ですから、修煉者は師父と大法を軽視すれば、黒い手と卑しい鬼に地獄に引きずり込まれる最大の口実となるのです。

 師父は「新しい学習者以外、師父は99年7月20日以降、いかなる個人修煉の関も皆さんに与えたことがありません。なぜならば、皆さんの個人修煉は全面的に衆生を救い済度し、大法を実証することに切り替えられたからです」[3]とおっしゃいました。ですから、私たちは法を正す基点から問題を見るべきで、個人修煉の基点でひたすら業力に耐えることではありません。

 私たちにはほかの選択はありません。師父が求められた三つのことを確実に行っていれば、師父の按排に従うことになり、師が法を正すことを手伝うことになるのです。私たちは時間を無駄にせず、自分をよく修め、衆生を救い済度します。

 私たちが自分をよく修めれば、私たちの体と対応している最もマクロな、最もミクロな量りしれない衆生を救えるのです。これも衆生を救ったことになるのではありませんか? これはもっとも重要なことです。

 もし、私たちが師父の要求に従わなければ、以前に救った衆生さえ行くところがなくなり、私たち自身も淘汰される可能性があります。私たちに無限の期待を寄せていた量りしれないほどの衆生も淘汰されるのではありませんか? それは最悪な結果です。

 最後に、「病気の関門に遭っている同修たちが、しっかりと法を学び、発正念を多めに行い、一日も早く病気の関門を乗り越え、より多くの人を救い、円満成就して師父について本当の家に帰れるように」心から願っています。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「シカゴ法会」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法三』「大ニューヨーク地区法会での説法」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語: http://www.minghui.org/mh/articles/2021/4/17/423386.html)
 
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