文/一回
【明慧日本2021年5月23日】恨む心と心が落ち着かないことについて、同修たちと交流したいと思います。
一、恨む心
私は恨む心がかなり強いと自分でもよく感じています。この心はとても察知しやすいのですが、簡単に取り除くのは難しいのです。普通の生活の中でも私は怒りや恨みの感情が生じることが多いのです。例えば、何もなくても、10年前の出来事を思い出して、心の底に眠っていた怨恨心が沸きたってきて、復讐したくなる気持ちになることがあります。
怨恨心が出てくると、自分も辛くなります。何年もこのようなどうしようもない状態が続いていました。恨む心が取り除かれていないことが原因で、亡くなった同修がいたと明慧ネットで同修の修煉交流文章を読みました。
その心を形成した根を深く掘り出すと、情によって形成した物質だとわかりました。ですから、私たち修煉者は絶対、恨む心を取り除かなければなりません。
しかし、なぜ恨む心が人の体につくのでしょうか? それは、人が利己的な考え方を持っているからです。人は自分の何かに触れたくないものを守っており、そのものを傷つける者には恨みを持つのです。しかし、そのものは各種の執着心や名、利、情などのようなものだ思います。
怨恨心をコントロールできないとき、きっと何かのものを守っていると思います(私はいつも、過去に私をいじめた人を憎み、今でもいじめられると憎しみが生じ、しかも以前の憎しみが蘇ることもあります) 。私は一体、どんなものに触れないように守っているのでしょうか? 他人が自分をいじめることを許さないことだと思います。
師父は「一人の煉功者としては、まず殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、ひたすら耐えられるようでなければなりません。でなければどうして煉功者と言えましょうか?」[1]とおっしゃいました。私は長年、修煉をしてきて、まだ師父の教えられた通りにできていません。
なぜ、できないかというと、我慢をしたくないからです。人にいじめられたら、怒りがこみ上げ、「私は修煉していても、こんないじめを受けるのか」と考えるのです。
最近、私はまた、このようなトラブルに遭いました。私は師父の「真・善・忍は法なのです!」[2]を思い出し、「なんと、この長年の間、修煉してきて、完全に真・善・忍が法だという認識をしていなかった」と気づきました。毎日、法を学んでいるものの、心から真・善・忍を法として、従うことがなく、大法をしっかり守ることに重視することが普通の交通ルールを守ることより劣っています!
この点を認識できて、私は「真・善・忍は宇宙大法だから、それを厳格に守るべきだ。人と人とのトラブルに遭うと、誰が正しいか誰が間違いかを考えずに、ひたすら『忍』を守るのだ。『忍』をしなければ、大法に背き、徳を失い、業力を得るのだ」と悟りました。
相手のことが正しいか正しくないかを考えず、大法を守ることだけを考えるようになったことで、私の悪い癖が治りました。以前、人を見るとき、欠点ばかりを見ていました。 その癖で、人を見れば見るほど腹が立って嫌になっていたのですが、今では、人は可哀想だと思えるようになりました。
ようやく恨みの山が足元に収まりました。
二、心が落ち着かない
いろいろなこだわりが強すぎ、或いは人生で何か大きな出来事や困難なことに直面したとき、一時的に落ち着かないのは普通ですが、しかし、私は何もないのに心が落ち着かないのです。大法の本を読んでいますが、頭に入らないことがあります。逆にいえば、本を読んで頭に入らないことは、心が落ち着いていないことでしょう。なぜ心が落ち着かないのでしょうか? その理由の一つは、自己満足です。浮わついているとき、心がワクワクして、頭の中で妄想を繰り広げ、足が地面についていない状態です。その状態では冷静に本を読むことができず、何の収穫にもなりませんでした。
私は自分に二つの質問をしました。一つは、「神や佛になったのですか?」、「いいえ」です。何にもなっていないのに、なぜ、自分がよく修めていると勘違いするのでしょう? 二つ目は、「自分の思うようにならないことに遭うと怒りますか?」、「はい、そうなると思います」。よく修めることができたというのは、心が平静で怒らないはずですが、よく修めていないのによく修めていると思っているのでしょうか?
静功の音楽の木魚の音は、私たちの愚かな頭を叩いているのです。
注:
[1]李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2]李洪志師父の著作:『精進要旨二』[忍の限界]