文/アメリカの大法弟子
【明慧日本2021年6月2日】私がフライドチキンの店で働いていた時のことです。ある日の朝、突然同僚の数人が十数分も繰り上げて仕事をしているのを見ました。時計を見ると、仕事が始まるまで未だ7分ありました。私は「どうしてこんなに早く店を開けたのか?」と思いました。普段いつもはもっと遅く開けていたからです。「今日はなぜこんなに早いのですか?」と聞くと、副経理は店長が彼に送った携帯のメッセージを取り出して私に見せました。しかし、ここの同僚はみな中央アメリカのメキシコ人(ヒスパニック系)で彼らは英語で話し合っているので、私はメールは読めませんでしたが、お客さんのオーダーがあって少し早めに来て持ち帰るのだと分かりました。それならば私は仕事のスピードを速めるべきだと思いました。
しばらくして、店長(中国人)がやって来ました。上着を脱ぐとエプロンを着け、私達の中に入って来ました。店長自身が直接働くような状況はとても少ないのです。店長が加わったため、調理場の作業リズムは速くなり、みな頭を下げて働き、話す人はおらず、全ての鍋、お碗、ひしゃくと皿のぶつかる音だけが絶えず響いているだけでした。
11時20分頃まで働き動き続けましたが、私のお腹の左側が少し痛くなってきました。その痛さは鈍く、激痛でもなく一種の膨らみがあって鈍い痛さと辛さがあり、軽くも重くもない拳の大きさの範囲内であり、ふっくらと外へ膨らみました。当時私の学法グループでは、毎日法を暗唱しており、『轉法輪』第六講の第一節『走火入魔』の部分を暗唱していました。師父がおっしゃったことが、とても自然に私の目の前に現れたのでした。「もう一つの状態は、煉功する時、気がどこかで塞がって行き詰まったり、頭のてっぺんにとどまってしまったりすると、人は怖くなってしまいます。人間の身体は一つの小宇宙ですので、特に道家の功法では、関を通過する時に、そういう厄介なことが起こるものです。うまく通過できなければ、気がそこにとどまってしまいます。頭のてっぺんだけではなく、他の場所でも同じように起こりますが」[1] 。私はたぶん、私の気がお腹で行き詰まったのだろうと思いました。しかしこのような感覚は、だんだんと益々強烈になり、ふっくらと膨らんで少し耐え難くなりました。全身がだるくて力がなくなっていき、身体全体が全て空っぽになったように感じました。次第に弱ってきて、両脚は虚空を踏んだように感じて立っておれず、両腕は力がありませんでした。
11時40分頃になると、お腹は、とことん外へ膨らんでいき、私は頭に冷や汗をずっとかき続け、我慢できなくなりました。私は師父のおっしゃった「煉功者はこれからの修煉においても、決して楽ではありません。多くの功が身体に現われてきますが、いずれも強烈なもので、しかも身体の中を動き回りますので、あれこれ具合が悪いと感じるかも知れません。具合が悪いと感じるのは、常に病気にかかるのを恐れているせいです。本当のところは、身体の中にそれほど強烈なものまで現われてきたのであって、現われたものはみな功や、功能ばかりで、さらに多くの生命体もあります」[1] を思い出しました。特に最後のその「いろいろな状態が現われてきます」[1] とおっしゃった言葉は私の頭の中で何度も繰り返されました。私は歯を食いしばって我慢していましたが、汗が額から流れ出るのを感じ、顔全体は汗だらけになり、首も背中も胸も汗だらけになりました。薄いシャツはぐしょぐしょに濡れ、シャツの前と後ろは汗で全部身体に張り付いてしまいました。
私はペーパータオルを裂いては絶えず顔を拭きました。その紙も全部ぐしょぐしょに濡れ、力がちっともないように感じたので、私は一休憩したいと思いました。しかし、この時私は、まだ店長が仕事の段取りをし終えるには、一貫した過程で、始まり、過程、締めくくりがあると思いました。私が途中で抜けると、この過程に邪魔をもたらし、他人に迷惑をかけるようになります。煉功者は他人の為に考えるべきで、途中で抜けることはできません。
しかし、全身がぐったりして力がなく痛くて我慢し難く、意識の中では「休憩したい」という考えがずっと頭の中で優位に立って、私にできるだけ早く口で言い出すように絶えず催促しました。私は絶えずそれを辛抱し、再三歯を食いしばり我慢し続け、仕事をするスピードは少しも落としませんでした。私は当時身体が空中に浮いて働いているようでした。「もしこの手が、大皿を平らに持てない状況が本当に現れても、私は最後のそのわずかな力を使って、手に持っているこれらのどろりと溶いた小麦粉と、鶏の手羽先が入っている大皿を、油鍋の中に落とさないようにしなければならない。もし油鍋の中にそれらを落としてしまったら、油はあちこちに飛び散って人を傷つけ、部屋いっぱいにもうもうたる水蒸気が覆ってしまう。しかし、そこまでにはさせない」と思いました。なぜなら、これは病気ではなく、これは修煉において業を消去しているからです。「業を消去するには苦痛を伴いますので、心地よく功が伸びることはありえません!」[1]
12時になって、副経理は私に「ロブさん、ゆっくりしてね!」と話し掛けました。そして保温ボックスを開けて私に見せました。見てみると、中は既に5段重なっており、これ以上作ると載せられません。もし平日なら、12時までには最多で6窯作りますが、今日は店長が手早く絶えず作り出していたので、この1時間半の間に、店長がどれくらい作ったのか気づきませんでした。たぶん最少でも2~3窯になっていたでしょう。このように計算すると、私は痛くて耐え難い状況の下で、少なく見ても7窯作ったことになります。平日よりも1~2窯多かったのです。この時副経理は、左手で保温ボックスの蓋を持ち、右手を直接私に向けて親指を立てました。私は、この過程がやっと終わり、一休みできると思いました。
私は身体をリラックスさせると、すぐに全身が濡れていると感じました。両脚も汗をかき、全身が汗だらけになっていたのです。私はお腹を両手で覆い「痛い」と言いながら、副経理に頭と胸と背中と両脚にも冷や汗が出ていると伝えました。彼は私に、店長に伝えるように合図しました。私は「私はお腹が痛くて、全身汗が出てしまいました。私は1時間休みたいのです!」と話しました。すると店長は慌てて「もちろん、いいよ」と言いました。私はすぐカードをチェックし、外に出て車の中で休憩することにしました。
車に着くと、再び働き始める為にアラームを設定する必要があり、1時5分に設定しようと携帯を開いて見ると、ちょうど1時5分の表示があり、たぶん昨日セットしたものでしょう。これは今日の事は師父がとっくに私の為に按排されたことを説明しており、無秩序のように見えますが、実はとても整然としており、今日の事は偶然に起こりましたが、しかし偶然に存在したのではないのです。
車の運転席で横になっていても、お腹はやはりまだ痛く、身体は痛くて転がり、足をどこに置けば良いか分からなくなり、ただただ痛くて心が乱れてしまいました。私が目を閉じてボーっとしていると、店長がやって来ました。私に「今回だけは、薬を少し飲んだらどうですか? あなたはずっと薬を飲まないよね?」と聞きました。私はおおいに自信を持って「飲みません、大丈夫です。1時間で必ず良くなりますから!」と自信を持って言いました。店長は私のお腹を触ってみて戻って行きました。
私は師父のおっしゃった「とすれば、煉功の時、関を通過できず気を下ろせない場合、いまの次元にとどまりすぎているのではないか、もっと心性を向上させるべきではないか、と心性から原因を探すべきです!」[1]「あなたは功の変化にばかり夢中になって、心性の変化を重んじないかも知れませんが、心性の向上がなければ、全体的な変化はありえません」[1]を思い出しました。私はこの時ゆっくり、「心性とはどういう意味だろう?」と考えました。私は、「心性は、徳をはじめとして、忍耐すること、悟ること、捨てること、さらに苦しみに耐えること」などなどを思い出しました。これ等に照らし合わせて、私は「どこがよく行ってないのか?」と、私は家庭と修煉の二つの方面での不足を探し出すことにしました。
この時、私は直ぐに師父の『論語』を暗唱し始めましたが、痛くて、心が乱れ、暗唱できませんでした。私はある同修が交流の中で「坐禅は苦しみを取り、止めることができる」を言っていたのを思い出しました。私はすぐに起き上がり車のドアを開け、音楽を流し、坐禅を始めました。私が坐禅を組んで2番目の掌を変えた時、店長がまた来ましたが、この時ちょうどアラームが鳴りました。まるまる1時間で、この時ちょうどお腹は痛くなくなったのです。
私は店長に1時間を約束しましたが、本当に1時間ですぐ良くなり、とても不思議でした。私の右手が上で、左手が下で、顔は優しさと平和に満ちていました。店長は私を見て安心し「よし、よし、あなたは坐っていなさい」と言うと、直ぐに戻って行きました。私が両手で結印している時、経理長と副経理もそれぞれ来て私を見ました。皆が私の姿を見て安心し、親指を立て、私の肩を叩き、戻って行きました。
坐禅を終えた私は厨房に戻りました。とりあえず少し食事をし、すぐ働き始めました。まだ少し痛みは僅かに感じましたが、働くには全く問題ありませんでした。これで同僚達も大法の奇跡の証人になりました。この時、厨房全体の雰囲気がとても賑やかになりました。みな冗談のように、手で身振りをしながら私の坐禅の様子を真似したり、ある人は私の平素の煉功の動作を真似したり、一人一人が私に対して親指を立てました。経理長は私に「痛くはないですか」と聞いたので、私は「まだほんの少しだけ残っていいる」と言うと、彼は私に座るように言いました。(仕事中、普段は座ってはいけない)、私が座らないでいると、あるメキシコ人は両手で私を押してそこに座らせました。私は天井の監視カメラを指しながら「店長!」と言いました。
私は彼に、「店長が家でカメラを見て監視しているよ」と気づかせました。経理長は私に「構わず、座っていていいですよ」と合図しました。この時、他のメキシコ人がタオルを持ってきて、両手で開き、とても誇張して私の隣に立ち、わざと滑稽に私の頭を遮って見せました。店長に私を見せないという意味でした。彼のこの滑稽な行動は、皆の大笑いを招き、調理場に響きました。仕事が終わる前には、私のお腹の痛い感覚は全くなくなっていました。
私の今回の体験は、私達の学法グループで『轉法輪』の第六講『走火入魔』のその部分を暗唱していた時に起こったのです。私は次のように思いました。これは師父が私の法を暗記した効果をテストされたのです。私に按排された小さなテストは、私に按排された実習の機会です。私が理解できたかどうか、覚えたかどうか、応用できるかどうか、即ち私が実修できるかどうかを見られたのです。同時に、この機会を利用して、私のとても大きい一塊の業力も消して下さいました。師父の大慈大悲に感謝を申し上げます。
今回の体験で、私は二つの体得がありました。
一、法の要求に基づいて行う
私達が法をここまで暗唱した時、頭の中で一番印象に残った時、師父は私に今回の功が伸び、業を消す機会を按排されました。もし法を暗唱しなければ、ここをよく読んではいましたが、印象はここまで深くなく、理解もこのように徹底的にできなかったでしょう。しかし当時、師父の教えは却って絶え間なく顕れてきました。もしこの段落の法を暗唱し終えたばかりでないと、覚えが深くないでしょう。もしかすると、私がこの事に遭った時、正に念が正しくない可能性があり、病気であると思うかも知れず、それではとても面倒なことになります。しかし師父は私に、この時に按排して下さり、私に1回実演させ、私に小さなテストを行われ、小さいテストで私に法を暗記した効果をしっかり分からせてくださったのです。これも私が法を暗記するとき、良いことを更に悟らせてくださり、法を暗唱する信心と決心を増したのでした。
二、心を正しくもつべし
「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」[1]、「もし彼女が路上に倒れたまま、『もう駄目です。ここも駄目、そこも駄目だわ』と言ったならば、それで本当にあちこち骨折して、半身不随になっていたかも知れません」[1] 、私は次のように思いました。常人として、このような状況の下で、痛さがあのように酷かったならば、必ず病院に行くでしょう。私が当時もし念が正しくなく、病気であると思ったとしたら、違う結果を招いた可能性があり、もしかすると想像を絶することだったかもしれません。「煉功者としてあなたがいつも病気のことが頭から離れなければ、それは、求めること、病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます」[1]、「なぜなら心性が常人の次元に堕ちてしまったからで、常人なら、病気になるのは当然のことです」[1]、そこで私は、「私達はどのような状況の下でも、自分は煉功者であることを分かっており、念を必ず正しく持つべきである」と悟りました。
以上は自分の少しの理解ですので、法に合わない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』