文/中国の大法弟子
【明慧日本2021年6月27日】20数年の修煉過程を振り返り、私は何度も何度も人生を享受できる良い条件を捨てて、衆生を救うためのさまざまな環境を切り開いてきました。修煉の当初から、私は自分の一生を師父に預けました。偉大なる師父に導かれて、私はとても光栄に思います!
一、苦難や魔難に苛まれていた幼少期
私は田舎の貧しい家庭に生まれて、苦難の中で人生の意義をずっと探し求めていました。私は5人兄弟の次女で、一番上は姉です。女性差別の思想がある我が家では、姉が第一子であるため、家族に好かれていました。両親は2人目が男の子であることを楽しみにしていましたが、女の子である私の誕生にがっかりしました。私の下には2人の弟がいて、家族はみな宝物のように可愛がり、末っ子の妹もとても好かれていて、私だけは一番の嫌われ者でした。9人家族の中で、両親だけが働いているため、一家を養っていくのに大変苦労していました。美味しいものがあれば、言うまでもなく全部弟たちに食べさせていました。弟が3歳で私が5歳の時、大人たちは弟を笑わせるために、私を床に伏せて牛のように歩かせました。
差別の世界から抜け出る希望が見えない中、父母の温もりなどは私には贅沢なものでした。祖父からは日常茶飯事のように殴られ叱られていました。入学金の5角紙幣(約8.5円)を私に渡しながら、母が「自分の名前の読み書きができて、男女のトイレを区別することができれば十分だ」と言ったのを覚えています。私の成績は中の上ぐらいでした。日々の放課後、ランドセルを置いてから、私は急いで豚や牛を育てるための野菜刈りを手伝い、夜は灯油ランプの下で宿題を済ませ、翌朝の夜明け頃には起こされて、大人の労働点数を稼ぐための鶏糞集めをさせられていました。10歳ぐらいから、私は一家の服を手洗いし、食事を作り、3日に1度祖父に殴られる生活を送っていました。祖父が亡くなった後、父が私を殴るようになりました。私がどんなに勤勉にやっても、彼は私を殴り、顔をしかめて歯ぎしりをしながら「前世に俺に借りがあった!」と言い、口を開けば「死ね!」と言っていました。 何度も殴られた後、怖くて一晩中家に帰らなかった日もありましたが、誰も探しに来ませんでした。
1977年、姉が中学校を卒業し、私が小学校を卒業した後、2人は一緒に退学しました。姉は生産チームで大人の半分の稼ぎをしていて、家での洗濯や料理に加えて、私も生産チームのために牛の草を刈っていて労働点数を得ていました。当時は40キロの牛の草を刈れば、大人1日分の労働点数としてカウントしてくれていました。時には、私は80キロ、場合によっては125キロの草も刈りましたが、家に帰るとやはり殴られました。ある朝、草刈りが辛くて、帰宅すると高熱が出てしまった私はベッドで横になりました。外から帰ってきた父はベッドにいる私を見て「お前は昼間から仕事をしないで、ベッドで何をしてやがる?!」と、言いながら拳を振り上げて私を殴り「死ね!」という罵声を連発しました。泣きながら、私は「子供である私の稼ぎ分がお父さんよりも多い。洗濯や料理もしている。しかし、お父さんは私が病んでいるのかどうかを一度も聞いたことがない。さらに、あんなにひどく殴ってくる。なぜだろうか?」と、その理由を一生懸命に考えました。尼さんになって出家すれば、世間との縁が切れるという話を大人から聞いたことがあります。武当山に行けば修行できるとも聞きましたが、どう行けばいいのかが分からず、旅費もありませんでした。暮らしていく自信を失い、家出を考えていたとき、脳裏に「徳」という言葉が浮かびました。「少女が外へ駆け出すと、その貞操の評判が台無しになってしまうので、逃げてはいけない。殴られても貞操を守らなければならない」と私は思いました。
1985年、私が22歳のとき、父は私がもっとも軽蔑するタイプの人と、見合い結婚をさせました。1986年末の結婚後、姑がありとあらゆる方法で私をいじめ、舅と3人の叔母も一緒になっていじめるようになったため、私は耐え難い日々を送り、その状況が数年も続きました。姑に対して、村人たちは「色白で顔立ちもよく、知的で働き者の良い嫁さんなのに、姑であるあなたは一体何を求めているのか?」と責め立てました。辛くて家出しようと思ったとき「徳」という文字がまたもや私の脳裏に現れました。幼い娘を残して行く訳にはいきません。しかし、どうすればいいのでしょうか? いじめに耐え、気に入らない夫と暮らしていくしかないと私は思いました。
1987年に娘が生まれた後、私は農作業や家事、子育てまでするようになりました。夫は一日中ぶらぶらして遊んでいました。田舎では、藁の茎を束ねる作業は男性の仕事なのに、我が家では女性の仕事になっていました。秋の収穫後、1年間の薪の備蓄として、綿の茎を束ねて小屋状に積み上げていく仕事も私が1人でこなし、村人はみな褒めてくれました。子供が少し大きくなってから、私は家計を支えるために都市部へ出稼ぎに行きました。
1995年、交通事故に遭った私は左大腿骨を骨折し、頭蓋骨の中に卵大の血栓ができて、命の危険に晒されていて、看病する親族もいない中で「あなたの旦那さんは別の家庭を持つようになったのよ」と人から聞き、さらに惨めな気持ちになりました。
夜、私は夢の中で如来佛に会い、こう尋ねました。「私の条件であれば、満足のいく人生を送ることができます。『徳』のために私は不当な仕打ちに耐え『徳』のために良き青春時代を犠牲にし、『徳』を守るためにあまりにも多くのものを失いました。なぜまた交通事故に遭わなければならないのでしょうか?」。如来佛は何も言わずして、黄金のネックレスを私の首にかけてから姿を消しました。今思えば、師父は随分昔から私を見守って下さっていました。
二、大法に出会う幸運に恵まれる
離婚後の1997年5月、私を差別視してきた舅、私をいじめてきた姑、そして私に軽蔑され私を見捨てた夫に見せようとして、私は発展を求め夢を叶えるために省都に行き、苦労して貯めてきた1万元(17万円ほど、当時の省都では1LDKの家が買えた額)を専門技術(美容と会計)の習得に投資しました。私はお金と時間を大切にし、一生懸命に勉強しました。美容学校の卒業式の前夜、クラス全体で2枚しかない栄誉証書の内の1枚が私に授けられました。
卒業間近のある日、学校の裏山に遊びに行った私は、山の途中で白い髭を生やした老人に出会い、『轉法輪』という本を手渡されました。それが佛教の本だと気づいた私はとても気に入って、右手で「轉法輪」の3文字に触れて「いい本だ。しかし、お金を持っていない。ただではくれないだろう」と思いました。開けたら返したくなくなるかもと思った私は本を老人に返しながら「これは良い本ですね。身を修め性を養うために大事に持っててください」と言いました。老人は何も言わずして去って行きました。本と老人に未練が残った私は、3メートルを歩いたところで振り向くと、老人は消えていました。不思議に思ってしゃがんで見ても、何も見えませんでした。
2日後の昼休み中、ルームメイトは「あげるよ」と言いながら、箱から1冊の『轉法輪』を取り出して私に渡しました。「どこで手に入れたの?」と私が聞くと「山で遊んでいたとき、ある老人がくれた」と彼女は言いました。数ページほど読んで、私はクラスメイトに「今日は午後の授業に出ないから、授業でしっかりノートを取って、後で教えてね」と言いました。読めば読むほど、この本が好きになりました。子供の頃から修行をしたいと思っていた私はこれが本当の佛教の修行だと気づき、本に向かってこう言いました。「この功法を習いたい。しかし、煉功点はどこにあるのか?」
数日後、師父の法身に導かれて、私は「法輪功無料学習拠点」と書かれたコンクリートの柱がある公園に行きました。翌日の明け方、私は学習拠点に行って法輪功の紹介文を読み「この功法は功が人を煉ることであり、真・善・忍の原則に基づき心性の修煉を重んじている。いいね!」と思いました。さらに法輪図形をじっくり見てみると「ワオ、すごい。農村の農民の家には太極の図形が一つしかなく、それだけでも悪魔を退治することができるが、この法輪図形には太極の図形が4つもあって、より強力であろう。如来佛の胸元には1つの卍符しかないのに、この法輪図形には5つもある。今生では最後まで法輪功を修めるよ!」と思いました。そこで、私は早速功法を教えてもらい、その場で法輪を得ました。
子供の頃から修行したいと思っていた私は、師父が先に私を見つけて下さり、真の修煉の功法を教えて下さったので、必ず勇猛邁進し精進していこうと思いました。毎日、私は同修たちと一緒に煉功をし、法を学び、切磋琢磨して、遅れを取るまいと頑張りました。近くのいくつかの煉功拠点で本をくれた老人を探してみましたが、見つかりませんでした。1997年、私は300元(約5000円)の月給から180元(約3000円)を出して部屋を借り、暫く心を静めて修煉に専念することにし、仕事探しを後回しにしました。その後、心を静めて修煉できる環境を整えるために、私は会社で料理を作ったり、ベビーシッターをしたりしました。釈迦牟尼佛でさえ王座を捨てて常人社会で乞食をしていたのを思い出して、私は条件の良い夫を探そうとする心も放下しました。
三、一心に法を守る
1999年に邪党が法輪功を迫害し始めた後、私は同修たちと一緒に省委員会を訪ねて陳情しました。その後、私は1人で市の委員会に陳情しに行き、資料を手渡しながら、市民の意見を中央政府に伝えて下さるように市委員会の幹部に協力を求め、無事帰宅しました。師父と大法を誹謗中傷する邪悪なプロパガンダが天地を覆い、強権の恐怖に人々が慄く歳月の中で、私はを心を痛めていました。
1999年10月に北京に行ったとき、陳情局が公安局に変身し、法輪功学習者であれば一律に逮捕し、私も北京南苑派出所に連行され、出身地の回答を拒否した後、警官らに大の字となって地面に押し付けられました。2人の警官が私の左右の腕を踏みつけ、もう2人の警官が私の両脚を踏みつけ、5人目の警官が私の頭を押さえ、6人目の警官が洗面器の大きさをした電気拷問の円盤を持って私の体のあっちこっちに触れました。そのシュワシュワとした音が恐ろしく、普通の人なら拷問を受けなくても音だけで気絶してしまうかもしれません。その時に私が思ったのは「私は命をかけても法を守らなければならない。私は大法弟子だ」でした。師父はこのようにおっしゃっています。「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」 [1]。私は師父のこの一節の法を繰り返し暗唱しました。そのとき、電気拷問の円盤が壊れて、彼らは直してから拷問を再開し、私もその一節の法を暗唱し続けました。その間、私は電気を感じたことがありませんでしたが、その光景はあまりにも恐ろしいものでした。私は恐れずに法を唱え続けました。終いに、その電気拷問の円盤が完全に壊れてしまいました! 汗だくになった彼らは私を立たせて、再び出身地を聞きましたが、私は落ち着いていて、なんにも答えませんでした。ある警官は私の脇下を針で刺そうとしましたが、別の警官が「まだ少女だから、やめとこう」と止めました。実は当時の私は35歳で、娘も12歳になっていました。その後、彼らは「トイレに行って手を洗いなさい」と言い、玄関まで連れて行ってくれました。振り向くと、誰もいなくなり、門も大きく開いていて「その場を離れてもいい」という暗示だったのに、私は悟ることができませんでした。その後、私は転々と居住地に戻り、1カ月間も不当に拘禁されてしまいました。
2000年10月12日、私は再び1人で北京に向かいました。道中、私服警官に止められる可能性があると思って、私は髪を洗って口紅を塗り、移動中は一言も言わずして北京に着きました。天安門広場に着いた当初、座禅や抱輪をしようと考えましたが、それは簡単すぎると思い、横断幕を掲げようと考えました。しかし、1人ではあまり目立たないかもとも思い、どうすればいいかと悩んでいたとき、師父から知恵を頂きました。それは、法輪功学習者の集まりを探すことでした。私は優しそうな顔立ちをしている人に近づき「ここに座ってもいいですか?」と尋ねました。相手は「はい」と答えました。「どこから来たのですか?」と聞くと、相手は「瀋陽です」と答えました。「どの大学を卒業していますか?」と聞くと、「某某大学です」と答えてくれました。そこで、私は「ある先生が素晴らしい詩を教えて下さいました。聞いてみますか? 『悲壮なる歴史は、流水のように去り、浩気忠魂、世間に留まる』 [2]」と暗唱しました。相手は『「千古の遺廟は、心哀しむ処、丹心有りて、後人を照らす』 [2]」と、後半の2節を暗唱しました。私たちは顔を見合わせて笑いました。
師父から頂いた知恵により、私はさらに多くの同修と連絡を取ることができました。彼らは皆ほかの省から来た修煉者で、何をすればいいのかが全く分からないと言いました。私が指揮を執り、皆と一緒に布や筆、黄色い顔料を買い、北京の新華書店に行って辞書で調べてから旅館に戻り、上が英語、下が中国語の横断幕を6枚用意しました。心に雑念がなく、知恵も開いている私は皆に、「横断幕を端から端まで巻いてしまってはいけません。そうすれば、開ける前に警察に奪われてしまい、私たちの旅が無駄になってしまいます」と言い、いざというときにすぐに開けられるように、横断幕を両端が外に来るような長方形状に畳みました。また、所持品検査で没収されることを避けるために、私はバッグの中ではなく、横断幕を上着やジャケットの中に入れることを提案し、取り出し方も皆と一緒に工夫し、3秒で開くように何度も何度も練習しました。
さらに、師父から頂いた協調の知恵に沿い、私は正念が強い同修と気が弱い同修がペアになるように、6つの横断幕を持つ12人と、現場で抱輪の実演をする同修たちのチーム分けを行い、皆に注意喚起もしました。「私服警官がいるため、天安門行きのバスの中では話さないようにしましょう。バスを降りた後、先頭の人に続いて、皆は前後左右に2メートル以上の間隔を空けて、お互いを知らないようにしてついていきましょう。天安門広場に到着後、誰かに質問や声をかけられても、無言で進みましょう」
2000年10月18日、師父の保護の下、大きなグループを成した私たち法輪功修煉者は無事天安門広場に到着し、中国語と英語で書かれた6つの横断幕を20メートルに渡り掲げることができました。そのとき、天安門広場の右側から多くの海外のツアー団体がやってきて、パトカーの通行を遮断しました。全国各地から来ている多くの大法弟子が私たちの横断幕の前に集まり、一緒に抱輪をしました。中国語と英語で書かれた6枚の横断幕が一列に並べられていて、すごい迫力がありました。欧米人の法輪功修煉者が横断幕を見て「法輪大法は素晴らしい!」と唱えてから抱輪に加わったり、写真を撮り合ったりしました。その後、もう一組の西洋人夫妻(同修)も来て「法輪大法は素晴らしい!」と唱えて、私たちと一緒に写真を撮りました。西洋人修煉者たちが帰った後も私たちは横断幕を掲げていて、少なくとも30分は続けました。中国と西洋の大法弟子を合わせて、30人以上もの修煉者が法を実証する場面は壮観なものでした! その後、警官らが右の方から横断幕を奪いにやってきて、私のところに来たとき、私は横断幕を体に巻き付けました。結局、私を含め、私を助けに来た3人の同修も逮捕され、大半の同修は無事に帰っていきました。
四、拘置所の所長が私に謝罪した
陳情の後、私は在京事務所に連行され、その後、地元の留置場に移送されました。そこで地元の国内安全保衛部門(法輪功迫害の実行機関。以下、国保)の隊長が私と目が合うや否や、「終わった! 終わった! 共産党が終わった!」と言いました。数日後の私に対する違法な取り調べの際「北京で何をしていたのか?」と聞かれた私は、「私の言うことをそのまま記録してください。師父や大法を守るために、そして師父の汚名を晴らすために北京に行きました。法輪大法は素晴らしいです! 法輪大法は正法です! 私の師父への攻撃を取り消してください!」と言いました。
留置場で、私は刑務所の規則の暗記を拒否し、法の暗記と煉功だけをしました。ある日、章という所長が当番中に私が煉功しているのを見て、私を指差しながら「やめなさい。当面の形勢に順応する人が俊傑(しゅんけつ:普通より飛び抜けて優れた人物)だよ」と言いました。私は「ご存じですか? 法輪功は法輪大法とも呼ばれ、佛を修める修行方法です。佛法に対して罪を犯すことはあなたにとっていいことでしょうか? 優しい心を持って初めて財力や地位を手に入れることができます。今日、所長になったのは、あなたが前世で積まれた徳による福です。この福を増やしていくべきであって、嘘偽りに騙されて福を損ねてはなりません」と言いました。真相を少し分かった彼は「しかし、今日は私の当番だよ」と言いました。「片方の目を瞑って、見て見ぬふりをすればいいのでは?」と私が言うと、彼は「それでは、私が斜視になってしまうよ」と言いました。私は「そうです。私が煉功しているのが見えたり、斜視になってください」と冗談っぽく言いました。その日以降、彼は私に注意を促したことがないだけでなく、私の靴を外に出して乾かしてくれたりもしました。
ある朝、煉功中の私を留置場の総責任者に見られました。彼は私が三式目と四式目の功法を終えるのを見て、何も言わずに去っていきました。暫くすると、ある女性刑務官が怒って私を事務所に連れて行き「今後また煉功したら、(刑罰として)髪の毛を全部切ってしまう!」と叱責しました。私は笑いながら淡々とこう言いました。「いいですよ。切って下さい! ご存じですか? 法輪功は法輪大法とも呼ばれています。堅く信じる者はみな、菩薩や如来佛に成就することになります。成就した彼らが過去を振り返り、こう言うかもしれません。『昔、法輪功を修め、真・善・忍に従い善人になろうとしたとき、共産党は私を逮捕して牢屋に入れました。しかも、ある刑務官は私の髪の毛まで切ってしまいました』。見てご覧、あなたは何をしたのでしょうか?」と言いました。彼女は急に笑顔になり「あなたは私の姉によく似ています。あのね、私も所長に叱られていらいらしていたから、あなたに怒りをぶつけました」と言いました。私は「私たちは佛法を修めています。あなたが修煉者のために引き受ける少しの苦痛は、何倍もの福として返ってきますよ」と言いました。真相を理解した彼女は喜んで私のためにお茶を淹れて、ピーナッツやヒマワリの種を食べるように勧めながら「毎日、昼夜を問わずぶっ通しで煉功しないで下さい」と言いました。「昼も夜も絶え間なく煉功するようにと、師尊にはそう言われていませんよ」と私が言うと、女性刑務官は「あら、師尊と呼ぶのですか?」と言いました。私は「はい、師尊です!」と答えました。 彼女は「あなたは本当にご師尊様の立派なお弟子さんですね!」と、一言一句を言いました。
ある日、私が煉功しているところを気性が激しい叶所長に見られてしまいました。彼は烈火のごとく怒り狂い「お前! 大胆だね! 監房の中で煉功するのか!? 跪きなさい!」と、罵声を連発しました。私は心の中で「法輪大法を修める私は、偉大な神になるのだから、どうしてあなたに跪くことができるのか?」と考えました。彼は2回も「法輪功!」と叫びましたが、私は無視しました。3回目に叫んだ直後、彼は「わーっ」と大きな声を出して倒れてしまいました。監房の囚人たちは皆あっけにとられて、気がつくと「叶所長は報いを受けた。命が危ないのでは?」と言いました。約40分後、叶所長が顔を出して、優しい声で「皆さん、お茶を飲みませんか?」と聞きました。監房の皆はまたも唖然とし、すぐに「はい、はい、飲みます」と返事しました。
直後、監房の中で皆はあれこれと議論し始めました。「普段、風邪を引いて暖かい飲み物を頼んだら、くれるどころか、叱られるばかりだった。今日、誰もお茶を頼んでいないのに、警官自らが私たちにお茶を飲ませようとして、本当に不思議なものだ」。横領罪で投獄された会計士は「跪けと怒鳴った次の瞬間に、お茶はいかがと言ってきて、叶所長は怖くなって命を守りたいんだろうね」と言いました。ある麻薬中毒者は「今さっき、彼が突然倒れたのは、法輪功にある神秘な力を感じて、怖くなったからだ!」と言いました。ほどなくしてお茶が運ばれました。アヒルの飼育中に喧嘩した男性がこう言いました。「叶所長は悟性がいいね。『菩薩を怒らせたら線香を捧げ、親を怒らせたらお茶を捧げる』とあるように、彼はお茶を以って法輪功の弟子に謝罪の気持ちを表し、罪を償ったのだ」
一部始終を目撃した囚人や警官たちはみな奇跡に驚かされ、法輪功の素晴らしさを知りました。
五、隊長が職務を停止され始末書を書くこととなり、麻薬中毒者が法輪功修煉者に反省文を読み上げる
今回、私は70日以上も留置場に拘禁されていました。国保の隊長は「お前は何回も北京に行ったが、誓約書を書けば帰れるよ」と言いました。書くことを拒否した私は、1年間の労働教育を受けさせられました。健康診断で不合格になった時、私は正念で否定することを知らなかったため、労働教養所に連行されました。
労働教養所に入ってから軍事訓練をさせられて、私は動くことを拒否しました。隊長が罵声を浴びせ始めたのを見て、紀律検査委員会(以下、「紀検委」と略称)の書記は私とほかの動こうとしなかった数人の法輪功修煉者を別の場所に移動させ、軍事訓練をさせようとしましたが、それでも私たちは動きませんでした。最後に私だけが少し動きました。皆が頭を下げたまま立っているのを見て、委員会書記はこう言いました。「私はきれいではないけど、ちょっと私を見てください」。その時、私は笑顔でこう答えました。「あなたはきれいですよ。ただ、私たちは悲しんでいます。大法が人間社会で迫害されていて、師父の名誉が汚されていて、軍事訓練に参加する意欲が湧いてきません。私たちが佛法を信じ善良な人間になろうとしていることを理解してください。党の書記とはいえ、あなたは党に感謝する必要はありません。あなたが幹部になったのは、前世で徳を積んだからです。唐の時代、宋の時代、そして清の時代に党がなくても、役人やお金持ちはいましたよね。両方の意見に耳を傾けて初めて善悪を区別できますよ。善人の代弁者になれば、徳を積むことになりますよ」。規律委員会の書記は私たちが優しそうに見えて、「今後、何か気になることがあれば、私に手紙を書いてください」と言いました。皆は笑いました。
留置場では、私は警官に指示されたことをせず、経文の暗記や煉功など、許されないことだけを行っていました。ある日、同修たちと一緒に師父の経文を暗唱していた際、麻薬中毒者が雑巾や靴下を私たちの口に詰めましたが、私だけが免れて、最後まで暗唱し終えました。皆がトイレに行き、魏という名の監視役を務める受刑者と私だけが監房に残った際、魏はこう言いました。「あなたたちは夜に煉功し、昼に経文を暗唱する。なぜか幹部は私だけにあなたたちを止めさせようとする。とても疲れていて昼も夜も眠れない」。私は「今寝ていいよ」と言いました。しかし、魏がいきなり罵声を浴びせ始めて、私を地面に蹴りつけました。他の受刑者(監視役)や同修が起こしに来てくれましたが、私は立ち上がろうとせず、床で寝るという労働教養所の規律に反することをもって迫害に抵抗しようと考えていたからです。警官がやって来て、私を指差しながら「お前は全員を感染(一緒に迫害に抵抗していくこと)させるな」と言いました。夜、同修たちは蹴られたことへの抗議として、集団ハンストしようと話し合いました。
事態が大きくなったので、紀検委のあの女性書記が調査しに来ました。私は事実の通りに伝えました。「当日、経文の暗唱後、魏さんが眠いと言って、私は寝ていいよと言っただけで、間違っていません。彼女は機嫌が悪くいきなり殴ってきました。労働教養所内では、いじめやいじめられることは禁止のはずだと思いますが、これではまだ規律があると言えるでしょうか?」。書記は事実を知り、真相を理解した上で、このような処置を取りました。「殴打事件は所内の規律に反し、さらにハンストという人命に関わる問題を起こしうることを勘案し、隊長に責任問題がある。隊長は職務を停止し始末書を書くこととする。魏という名の麻薬中毒者が法輪功修煉者の全員の前で反省文を読み上げることとする。法輪功修煉者を収容しているすべての監房において、薬物中毒者1人だけを衛生上の理由で残し、ほかの全員は撤収することとする。法輪功修煉者の中から班長を選出することとする」
その後、労働教養所では、信仰心が強い法輪功修煉者に対し厳しい管理が行われるようになりました。その中で、悪徳警官は修煉者たちに幹部を賛美するように強要しましたが、誰一人応じませんでした。そこで、警官は1人の大法弟子を引きずり出して靴を脱がせ、電気バトンで土踏まずに電気ショックを与えました。監房の中で、私が皆に「幹部が良ければ、私は当然褒めてあげますが、褒めろと強要されてはいかがなものでしょうか?」と言った後、薬物中毒者は私の言葉を警官に報告しました。警官は私が率先して皆に悪影響を与え規則を破っていると思い、「お前を迫害するぞ!」と私に対して警告しました。私はこう言い返しました。「皆は幹部がいい人だと思えば、自然に良い人だと評価してあげるでしょう。しかし、国家警察であるあなたたちは警棒等で私たちを叩き、褒めることを口にするように強要させることは正しいでしょうか? 警官とは言っても、あなたには絶対的な権力はありません! 私は違法な労働教養を強いられた法輪功修煉者で、検挙や控訴の権利を持っています」。その後、この件はうやむやになり、警官も二度と法輪功修煉者たちに幹部を褒めることを強要しませんでした。
労働教養所で、私は転向しなかっただけではなく、迫害に立ち向って戦い、10カ月も延長となった刑期を終えた後、堂々と家に帰りました。派出所の所長に「君は転向しないだけではなく、労働教養所を崩壊させたとも聞いたが、労働教養所は崩壊してないよ」と言われた際、私はこう答えました。「私は『法輪大法は素晴らしい!』と唱えながら労働教養所に入り、『法輪大法は素晴らしい!』と唱えながら正々堂々とそこから出てきました。それでも崩壊してないと思いますか?」。所長は感心したように頷きました。
六、610弁公室の主任が真相を知り、私に幹部の職位を与えた
2004年、省都でバイトしていた私はふと「地元に帰って国保大隊の警官らに真相を伝えよう」と思い立ち、すぐに行動しました。書き上げた資料を1人の警官に渡したところ、彼は2回ほど真面目に読みました。「皆さんにも読ませてください」と私が言うと「皆で一緒に勉強します!」と彼は言ってくれました。お茶を淹れながら「法輪功は凄いね。弾圧に耐えるのは容易ではない」と言ってくれる警官もいました。ただ、指導員は私の言ったことを受け入れようとしませんでした。私は彼にこう言いました。「公安局で働き得ている給料はあなたにとって利益となりますが、私が伝えていることはあなたの人生にとって根本的な利益となるのです。この職位の立場から法輪功を助けることができれば、あなたには福報として返ってきます。迫害されながら私はあなたを恨まず、却ってこれを伝えに来たのは、本当にあなたのために考えているからです」
真に真相を理解した彼は「君は市の党委員会に行ってみますか? 彼らはもっと権力がありますよ」と言いました。「行きます」と私が言うと、彼は早速610弁公室の主任(政法委の書記)に電話をかけて、某某(私のこと)が訪ねて行くと伝えてくれました。
610弁公室の主任室に着くや否や、私は話をこう切り出しました。「市民と幹部間の交流はいいことです。隔たりを無くすことができます」。彼は笑顔でお茶を出してくれました。私が「法輪功は千年に一度、万年に一度しか出会えない佛法修煉であり、人々に真・善・忍に従って良い人になることを教えています。世界中のどの生命も、自分が行った善行または悪行に対してそれ相応の報いを受け、責任を取らなければなりません」と言うと、彼は一方的な話には耳を傾けないと言いました。私が「中国は神伝文化を持つ国です」と話すと、彼はオフィスにいる他の人たちをちらっと見て「私は神を信じていません」と不安そうに言いました。私が「神を信じる人も信じない人も、私は尊重しています。しかし、覚えていますか? ニュースで見たのですが、鄧小平さんが亡くなったとき、娘さんは彼のために『紙銭』を焼きましたよ」と言うと、主任は笑って「それは哀悼の念を寄せているだけだ」と言いました。「哀悼の念を寄せる場合、通常は黒い腕章をつけて花輪を捧げに行きますが、紙銭を燃やすことにはどんな意義があるのでしょうか? それはつまり神や幽霊を信じることであり、紙銭を燃やして故人の魂があちらで使えるようにお金を持たせたいことでしょう」と私が言うと、610弁公室の主任は納得した笑顔を見せました。
さらに、私は続けてこう言いました。「中国で一番権力を持っているのは誰でしょうか? 政府に認められている『憲法』が一番の権力でしょう。国家主席も守らなければならないでしょう。『憲法』第36条は、国民には信仰の自由と信じない自由があり、誰も差別視してはならないとされています。また、国民は、あらゆる国家機関の職員の行政行使を監督する権利を持っているとされています。『憲法』に違反した人がいればどうすればいいでしょうか? 私に危害を加え、労働教養を強要したならば、私はどうすべきでしょうか? 『憲法』第41条によれば、国民に危害を加えた国家機関の職員は弁償しなければならないとなっていますので、私は弁償を求めるべきでしょう」
私の言葉を聞いてショックを受けた610弁公室の主任は電話を取り、部下の書記に「私のオフィスにいる某某さん(私のこと)のために、某機関で幹部の役職を設けてあげて」と言いました。「幹部の役職はもう一杯なので、空きがありません」と町役場の書記が言うと、主任は「満員でも手配してくれ! この件はお前に任せた!」と言い、電話を置いてから私にこう言いました。「私は彼らの上司なので決定権がある。君は戻って出勤の準備をして下さい。我々の態度は君への弁償なのだ」
数日後、死んでも転向しない法輪功修煉者である私は、民政局傘下の某機関に副の役職として勤めに行きました。通常、副の役職と正のポストは24人もいる書記の中から選ばれますが、うちの機関内では、正のポストに就いたのが1人で、副の役職に就いたのも私1人だけでした。幹部になったことのない私が4階級も昇進したのを見て、地元の人々は信じられない様子でした。学士号を持つ若くて才能のある人たちが懇願してもこの職を手に入れることができないのに、不思議にも、学士号を持たず40歳も超えた私は、政治委員会書記の専用車に出迎えてもらい出勤することができました。後に知ったのですが、私が率いる社員たちは、主任の奥さんや書記の姪っ子など、背景につながりのある人たちばかりでした。幹部になった今、私は上層部の幹部たちと同じテーブルで食事をする機会を得ました。ある町の常任委員会の委員が私に「姉さん、乾杯しよう。あなたがここで働けるようになったのは、僕が一票を投じたからだよ」と言いました。私は「ありがとうございます。私は法輪功の弟子なので、ワインの代わりにお茶を飲ませてもらいます。『法輪大法は素晴らしい!』と覚えておいてください。きっと福報を得ることになります」と言いました。すると、同じテーブルにいた市の党委員会のリーダーが「選挙が来月末に行われるので、トップの座はきっと君のものだ」と言ってくれました。
仕事の量が少ないため、私は自転車で真相を伝えに回りました。法輪功の弟子である私が江沢民に従わず、北京に公然と陳情しに行き「留学」(労働教養されたことを指す)から戻ってから幹部になり、4階級も昇進したことが多くの人に知られ、私自身も真相そのものとなりました。しかし、後の修煉の中で歓喜心が生じ、中共邪党の開会期間中に真相を知らない警官に逮捕され、市の洗脳班に連行され、自転車も没収されました。市や省の洗脳班では私は転向せず「家に帰ってから再び修煉したい」と、拘束されていた2人の学習者を目覚めさせました。
家に帰った翌日、私は自転車を返してもらうために派出所に行き、入口で所長と会いました。「大法弟子が戻ってきました。自転車を取りに来ています」と言うと、所長は「駐輪場にあります」と言いました。駐輪場に行ってみると、自転車のサドルが壊れているのが見えました。ちょうどその時、私を洗脳班に連行した童という警官に遭遇し、私は彼に「市民の持ち物を壊したら、警官が弁償すべきでは?」と言い、真相も伝えましたが、彼は聞こうともせず「法輪功(弟子)でも弁償を求めるのか?」と言いながら、私の自転車を持ち上げて壁に叩きつけ、壊しました。私は「人のものを故意に毀損し、警察のイメージも損ない、警察の規律にも故意に違反したので、苦情を申し立てます」と言ってから市公安局の紀検委に電話をし、童という警官の言動を訴え、次のような回答を得ました。「彼に弁償させるように、所長から命じて下さい。あなたは新しい自転車がほしいのですか? それとも修理代を出してもらいたいのですか? 本人が弁償を拒否した場合、我々紀律検査委員会は派出所に弁償させます!」
「私は大法弟子なので、新品をもらう必要がなく、修理して乗れればいい。警官らに法輪功を迫害すべきではないことを知ってもらい、大法弟子の正々堂々のイメージを樹立するのが目的だ」と思った私は翌日、派出所に行きました。副所長に「ご自身で自転車の修理を処理して下さい。費用は払いますから」と言われて、私はこのチャンスに彼に真相を伝えました。最後に、真相を理解した副所長は「数日後に自転車を取りに来て下さい」と言いました。後に、童という警官が法輪功とトラブルを起こして上司に怒られ、減点処罰を受けたことが地元で知れ渡りました。
師父のご加持と保護の下で、この件は周囲に大きなプラスの反響を与えました。甥っ子は「叔母さん、法輪功ってすごいですね! 今の警官は、人の物を壊したら絶対に弁償しませんよ。私自身を例にすれば、2003年にSARSが発生したとき、私は合法的にインターネットカフェを経営していたのに、警官らは私が持っていた数十台のコンピュータすべてを没収し、1台も返してくれませんでした。法輪功が弾圧されている中で、たかが壊れた自転車なのに、派出所は面目失墜してても弁償してくれるなんて、法輪功って本当にすごいです! それに、大法弟子が江沢民による法輪功への迫害に反対したため、奇跡的に幹部になったものですね!」と言いました。
幹部になって数カ月後、地元の党委員会書記、幹部、そして市民を含む多くの衆生が真相を理解したのを見て、私はここでの使命を果たしたと感じ、辞職して省都に行き、より多くの衆生を救おうと決めました。
七、「法輪功だから、殴ることができるのか?!」と、公安局の局長が幹部らを叱責した。
2005年から、私は正式に人々に三退を勧め衆生を救い始めました。セメント工場、製材所、解体業者など、バイト先の至る所で私は三退を勧めました。労働者斡旋市場で出会ったドライバーに真相を伝えたところ、彼は「多くの人から法輪功の良さを聞いた。少年先鋒隊に加入していて、脱退したいが、共産党は銃を持っているので、脱退する勇気がない」と言いました。「一つだけ答えてください。共産党の銃が強力なのか、疫病といった天災がもっと恐ろしいのか?」と私が聞くと、彼は「分かった。脱退する。共産党の銃がいくら強力であっても、疫病による天からの報いが来たら、軍隊でさえも終わってしまうだろう」と言いました
2006年、娘も省都に働きに来て、法を得て、他の同修たちと一緒に暮らし、とても精進しています。人を救うことを第一に考える私は家を持っておらず、安定した収入もなく、アルバイトでお金が少し貯まったら仕事を中断して衆生を救うことに専念し、数年来ずっとこの状態でした。師父から智慧を頂いた私は人が密集する場所に行き、声をかければほぼ百パーセント三退させることができました。真相を理解し救われた人々の中で、涙を流しながら手を合わせる人もいれば、私に軍の敬礼をする人もいて「法輪大法は素晴らしい!」と叫ぶ人もいました。2010年の時点で、師父のご加持により、私は1万人以上の人々に三退を勧めることができました。
2009年、私がバイトしている都市で、男女2人の同修が連行されました。女性同修の姪が釈放を求めに国保に行ったところ、警官に蹴られて、脚に多くの傷を負いました。私は告訴状を書き、姪と一緒に市公安局の紀検委を訪ねました。事情を聴きに職員が1階に降りて来て、私が書面に書いた「某某警官が拷問による自白の強要、体罰や形を変えた体罰、殴るなどの『警察法』にある厳禁事項に違反した」との内容を読み、姪っ子の脚のアザも確認しました。真相を理解した彼は「海外では法輪功は自由ですが、国内では身の安全にくれぐれも注意してください」と親切に言い、電話で下部の公安局紀検委に「某某警官が規律違反した。告発者がここにいる。被害者の脚があざだらけであることもこの目で確認した」
下部の公安局紀検委に行って問題を解決するようにと言われましたが、善悪の戦いはそれほど簡単なものではありませんでした。2週間のうちに私たちは多くの困難と責任転嫁に遭遇し、訴えを取り下げるように誘導されましたが、私はそれを認めませんでした。 私は冷静にこう考えました。「すぐに対処しなくても、規定に従って30営業日以内に対処してくれなければならない。焦らず、絶対にあきらめない」。最終結果はこうでした。姪っ子を殴った警官は上から直々に謝罪を命令され、姪っ子に「公安警察一同を代表して、あなたに謝罪します。今後、何か困りことがあれば、私に電話ください」と言いました。
この訴えは邪悪を力強く怯えさせました。それ以来、警官による同修の家での嫌がらせはありませんでした。市民はこう言っています。「今まで警察はどれだけの無実の人を傷つけてきても、謝罪もしなかった。法輪功の家族に謝罪するなんて、不思議だ、不思議なもんだ!」
不当に連行された男性同修と言えば、彼は市の国保が逮捕しようとしているいわゆる「要注意人物」で、殴られて歯が折れてしまいました。告訴を手伝おうと考えた際、市公安局と市国保が同じ階級にあり、準備に1カ月以上も時間がかかり、住居も安定した収入もない自分がやってもどのような結果が得られるかも分からず、いろいろと悩んだ末、私は自分のことをさて置き、同修を助けることを最優先にしようと考え、協力する同修がいない状況の下で、1人でしようと決めました。私は書き終えた告訴状を書留で省の公安庁に送付し、1週間後に郵便局で先方が受け取ったことを確認した上で、省公安庁の紀検委に電話しました。当初、彼らは受け取りを認めようとしませんでしたが、後にもう一回確認してみると言いました。さらに1週間後、再び電話をしたところ、職員に「某某法輪功学習者に関する苦情の件ですか? 彼とはどういう関係ですか?」と聞かれて、私は「家族です」と答えました。相手は「法輪功の案件が多くあります。汚職関連のものなら処理しやすいのですが、あなたのこの件は受付けできません!(言外:諦めろ)」と言いました。一番正しいことをしていると思った私はほかを考えず、彼にこう言いました。「中国の最大の権威は『憲法』でしょう? 『憲法』第36条では、信仰の自由が認められていますね? 法輪功はさておき、誰かが『警察法』に違反すれば、その責任を追及すべきです! 国は紀律検査委員会を設置し、法律に違反した警官を調査し処罰する仕事をあなたに与えました。私の訴えを受理しなければ、この法律の存在は意味がなく、あなたのオフィスも消え、あなたの職も消え、あなたたちの壁に貼ってある制度も消え、あなたの警察の制服も無効になります。私はどうすればいいでしょうか? 国の紀律検査委員会に訴えるしかありません」。まるですぐに失業にでもなりそうに感じ、慌て始めた彼は「急がないで下さい。すぐに庁長に報告します」と言いました。
告訴状が処理される約1カ月の間、近くの同修は進展を殴られた男性同修に伝えてくれました。私は学法と発正念に専念しました。ある夜、夢を見ました。私はスチール製の水道管を拳で叩き割らせて水が噴出しました。朝、目が覚めた後、それがいい兆しだと思い、再び紀検委に電話で進捗状況を聞いてみると、職員は「すでに庁長に報告しました。この件をきちんと処理するようにとの庁長からの命令も市の公安局に伝わっています」と答え、市公安局の紀検委の電話番号も教えてくれました。
しかし、市公安局の紀検委に電話をかけてみると、相手は「法輪功は政治的弾圧なので、話す必要もない!」と言い、師父に失礼な言葉も口にしました。師父から与えられた智慧を持って、私はこう問い質しました。「『憲法』では信仰の自由が認められており、法輪功は佛法修煉です。あなた方の職務は規律違反をした警官を取り調べることであり、法輪功修煉者に対して罪を犯す必要はないでしょう。公安としての務めは悪人を捕まえることであり、犯罪捜査部は犯罪を捜査し、法廷裁判部は法廷裁判関係の案件を処理し、あなたの紀律検査委員会は紀律検査を行うべきでしょう。捕まったのは殴り合いであろうと、汚職であろうと、警官が相手を殴ったり体罰を与えたりするのは規律違反でしょう。市民による苦情申立があれば、あなたは職権を行使して取り調べ、措置を講じるべきでしょう。今回の法輪功(修煉者)が殴られたという告訴に対する処理は、あなたが上司から受けた実行すべき任務であり、あなたが法輪功弟子のために声を上げる機会でもあります。実にいいことです。あなたは権力を行使しながら福報も得ることができ、明るい未来も待っています。すべてはあなた自身のためになりますよ」。相手が興奮気味に「急がないでください! 明後日、呉処長に処理させます」と言いました。
さらに数日後、市の紀検委に回答を求めたところ、職員は私を上司のように扱い、丁寧に優しくこう答えてくれました。「ご存じではないかもしれませんが、殴られた法輪功修煉者は国保が逮捕しようとしている要注意人物なので、我々には全く相談の余地をくれません。汚職なら何とかなりますが、国保が絡んだら私たちも手の打ちようがないです。そこで、あなたのこの件を省の公安庁に報告したところ、庁長自らが来られて、市内すべての派出所の所長および所長以上の幹部らを集めて会議を開き『誰が人を殴れと言ったのか? 誰がその権限をお前らに与えたのか? 法輪功(修煉者)だから殴ることができるのか?!』と叱責したのです。これからはすべての派出所の当直デスクに、紀律検査委員会への苦情申立直通電話が置かれるので、誰でもが苦情を言うことができます」
この良い結果を同修たちに伝えたところ、皆が喜んでいました。「修煉者は弁償などを望みません。それよりも、あなたは1カ月以上も仕事をしてなくて、生活は大丈夫でしょうか?」と同修に言われて、私は一旦弁償請求をやめて、再び仕事を探し始めました。
法を正す師に手伝い、衆生を救うためなら、私は喜んで自分の執着を放下し、自分の持っているすべてを放下し、責任を負います。私心を放下して、初めて大法に同化することができ、法による智慧と正念を得ることができます。人間のものを手放して初めて神のものを手に入れることができます。師父の慈悲なるご済度に感謝し、同修の皆さんによる助けに感謝します。合掌!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「岳飛廟に訪れる」